新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



Official髭男dism『Subtitle』考察〜好きな人に1番伝えたい言葉は何ですか?〜

この曲の歌詞を見た率直な印象は、「もう小説やん!」でした。

それくらい複雑緻密に作られているなあと。

だからこそ漠然と聞いているだけでは色々と取りこぼす情報が出てくる気がします。

ということで今回は前置きなしで考察に入っていきたいと思います。

 

悪意なき前向きなアドバイスが人を何より片付ける

 

〈「凍りついた心には太陽を」 そして「僕が君にとってそのポジションを」そんなだいぶ傲慢な思い込みを拗らせてたんだよ ごめんね 笑ってやって〉

いきなり「ごめんね」と謝罪から入るこの楽曲。

国語の授業ではよく、物語の初めと終わりでの主人公の変化が出てきたらその部分に注目をするのですが、この曲では初っ端にその変化した「後」が描かれます。

主人公は「凍りついた心には太陽を」「僕が君にとってそのポジションを」というような「傲慢な思い込み」をしていたと言っています。

初めの「 」内の言葉は、「僕が導くから前向きに頑張ろう」みたいなポジティブなもの。

とくにキラキラ輝くビジネスマンとかにこのタイプが多くいますよね(笑)

うまくいっていない人に「じゃあこうすればいいじゃん!」「一緒にやろうよ!」という人たちは、当然その言葉を心からの善意で伝えています。

しかし、繊細で弱っている受け手にとっては「悪意がない」からこそより傷つくということが少なくありません。

おそらく主人公がこうした言葉をかけた相手はまさにそのタイプなのでしょう。

その証拠に続くAメロで〈火傷しそうなほどのポジティブの 冷たさと残酷さに気付いたんだよ〉と歌っています。

それまで自分が善意で言ってきた言葉の残酷性に気がつく。

これがこの作品における主人公の心境の大きな変化です。

そして代わりに伝えたい言葉を〈 きっと君に渡したいものはもっとひんやり熱いもの〉と主人公は言います。

「悪意なきポジティブの押し売り」で他者を傷つけることを知った主人公が、ここから本当に相手に伝わる「言葉探しの旅」へと出かけます。

そして音楽的な話になってしまいますが、繊細な言葉を探すというニュアンスを出すために(多分意図的に)Aメロの4小節目のメロディの出だしを半音下げているのも凄いなとおもいます。

 

白と黒の間にある言葉を見つけ出す旅

そしてBメロへ。

〈綺麗事じゃないけど綺麗で揺るぎないもの うわべよりも胸の奥の奥を温めるもの〉

冒頭で自分の過ちに気づいた主人公は上辺ではない相手に響く言葉を探し始めます。

しかし〈理想だけはあるけど心のどこ探しても まるで見つからないんだよ〉とあるように、主人公はいくら考えてもその言葉を見つけ出せません。

僕は『Subtitle』という曲の凄さは個人的にここにあると思っていて、実はこの時点で、自分の間違いに気づいたものの、「理想」の言葉を自分の「心」に求めています。

上辺の言葉では相手に届かないことはわかったのですが、その主人公が探しに行くものは「理想」で、しかも今の今までポジティブで人を傷つけていた「傲慢な」自分の「心」なんです。

また後で触れますが、この指摘されて気付いたけれど、心の奥の部分でその意味が理解しきれていない主人公のスタンスの前振りがむちゃくちゃ効いてくる構成になっているのです。

 

さらに展開して2パターン目のBメロへ。

この曲はBメロが二段階構成という少し特殊な作りになっています。

僕はこれを言葉探しに迷う主人公を構成で表現するための仕掛けなのかなとも思ったのですが、その辺は専門家ではないのであくまで妄想に留めておきたいと思います。

〈伝えたい伝わらない その不条理が今 キツく縛りつけるんだよ 臆病な僕の この一挙手一投足を〉

これも2番の歌詞に繋がるのですが、ここでようやく主人公は「臆病な僕」と自分の弱さに気付きます。

ただし今はまだ関係ないので、ここでは言葉が見つからず悩む主人公を押さえておけば良いでしょう。

 

そしてサビへ。

〈言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたくても 夢中になればなるほどに 形は崩れ落ちて溶けていって 消えてしまうけど〉

温まると溶けてしまう雪の結晶のように、自分の熱い好きな気持ちを伝えようと言葉を探せば探すほど、言葉が見つからない事を嘆く主人公からサビは始まります。

これも軽く触れるにとどめておきますが、ここでも「自分の熱い気持ちを伝えるための言葉」を自分の中に探そうとする主人公が描かれます。

そして続くサビの後半では〈でも僕が選ぶ言葉が そこに託された想いが 君の胸を震わすのを諦められない 愛してるよりも愛が届くまで〉と続くわけですが、ここでもまだまだ「君の胸を震わす」正解の言葉を見つけてみせると誓います。

君が感動するまで「諦めない」、「君の胸を震わす」ってのは実はAメロの冒頭で言った「凍りついた心には太陽を」「僕が君にとってそのポジションを」とスタンスとしては同じです。

つまり、主人公は好きな人に言われた言葉で反省はしたものの、答え探しの段階で同じループに陥ってしまっているということです。

少なくとも1番までは...

 

「君」に響く言葉はどこにあるのか?

2番のAメロは次のように始まります。

〈薄着でただそばに立ってても 不必要に汗をかいてしまう僕なんかもう どうしたって生温く 君を痛めつけてしまうのだろう〉

ここでは明らかに今までと違う主人公の心境が描かれます。

「薄着でただそばに立ってても」もいうのは何もしなくてもと言う意味でしょう。

何もしていなくても「不必要にかく汗」は相手に気を使わせてしまうような態度になってしまう。

ここからは、自分の何が悪いのかが分からないけれど、相手に気を使わせてしまっている事だけは理解できるようになった主人公の姿があります。

 

そしてBメロで〈「手のひらが熱いほど心は冷たいんでしょう?」 冗談でもそんな残酷なこと言わないでよ〉とここで初めて「君」から言われた言葉が登場します。

1番のサビに出てきた雪の結晶(物理)=言葉(心情)という比喩から考えれば、手のひら(上辺の言葉)=心(本心)くらいに捉えても構わないでしょう。

つまり、ここでは「あなたの言葉は上辺だけでぜんぜん響かない」と突きつけられているようなものです。

そんなきつく言わなくても...なんて言う気にもなりますな、続く歌詞で「そんな残酷なこと言わないで」とあるので、何が主人公に心当たりはあるし、本気で変わるきっかけにもなる予兆とも読み取れます。

 

そして大きく転換するのは次のBメロです。

〈救いたい=救われたい このイコールが今 優しく剥がしていくんだよ 堅い理論武装 プライドの過剰包装を〉

主人公はこの瞬間、自分の「救いたい」と言う気持ちが、「救われたい」という気持ちであったと言うことに気づく(認める?)ことになります。

それまで、主人公は自分のスタンスが相手に響かないことは気づいていましたが、その理由が分からぬまま、今の自分の心の中に、相手に響く言葉を探しにいっていました。

それが迷う反面「理想の言葉を自分の心の中で探す」という姿勢や「君の心を震わすまで諦めない」という姿勢に出ていたわけです。

でも必要なのは言葉を探すことではなくて、自分の弱さと向き合うことだったわけです!

そしてそんな弱さやカッコ悪さをひっくるめた等身大の言葉にこそ「君」が求めていた愛があるというのを聞き手に伝えるのがこの場所。

主人公が今まで探した言葉はどんなに考え尽くしても自分のプライドで取り繕ったものに過ぎませんでした。

でも「救われたい」と、君がいないとダメなんだという気持ちにここで気付きます。


そして2番のサビに。

〈正しさよりも優しさが欲しい そしてそれを受け取れるのは イルミネーションみたいな 不特定多数じゃなくてただ1人 君であってほしい〉

1番の「僕が君を感動させてやる」というスタンスから180度転換して、「ただ君1人から優しさをもらいたいんだ」と自分の気持ちをさらけ出しています。

この時点で初めて僕は「君」に等身大の言葉で向き合えるようになったのです。

 

雪の結晶の比喩の変化と「Subtitle」という曲名の意味

Cメロの前半はこちら

〈かけた言葉で割れたヒビを直そうとして 足しすぎた熱量で引かれてしまったカーテン〉

ここの「かけた」は「あなたに"掛けた"」なのか「僕の"欠けた"言葉」なのかで意味が変わってしまうのと、これでは判断不能なので(おそらくダブルミーニング?)、両方から解釈します。

2番のサビでどんな言葉を伝えれば良いかに気づいた主人公ですが、当然失敗することもあるでしょう。

何かあったときに「ヒビを直そう」とあなたに掛けた言葉が欠けているせいでつい齟齬が生まれることもあるという主人公。

それでも〈そんな失敗作を 重ねて 重ねて 重ねて 見つけたいんだいつか 最高の一言一句を〉と言います。

ここでも冒頭では唯一絶対の正解を求めるような主人公から、何度も失敗を重ねる中でぴったりのひと言を探したいというように、大きな変化が見られます。

また表現上の特徴として、「欠けた言葉」「割れたヒビ」「足しすぎて」「引かれてしまった」の部分が「かけ」「わり」「たし」「ひき」と加減乗除になっていて、ここもあれこれ考えるメタファーになっていることも非常に面白いところだと思います。

そして最後にサビの繰り返しへ。

 

〈言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたとして 時間が経ってしまえば大抵 記憶から溢れ落ちて溶けていって 消えてしまうでも〉

最後のサビの部分では「言葉はまるで雪の結晶」という比喩が、「自分の熱で溶けてしまい見つからない愛の言葉」から「伝えたところでどうせ殆どがすぐに忘れられるもの」の意味に変わっています。

そしてこれは次に出てくる「映画の字幕」という比喩につながっています。

〈絶えず僕らのストーリーに 添えられた字幕のように 思い返した時 不意に目をやる時に 君の胸を震わすもの探し続けたい 愛してるよりも愛が届くまで もう少しだけ待ってて〉

この最後の場面で、あなたに贈る言葉が「映画の字幕」のように、自分たちの人生の場面場面を切り抜いたものでありたいと歌います。

『Subtitle』とは英語で字幕の意味。

藤原聡さんはこの部分に1番注目して欲しくてこのタイトルにしたのだと思います。

これは、一瞬一瞬その時々にお互いの等身大の言葉を紡いでいこうというような意味でしょうか。

自分の中から最高の言葉を探そうとしていた主人公はこの時点で人生の瞬間を自分の言葉で表したい、そしてそんな言葉の中に「君の胸を震わすものを探し続けたい」となっています。

そして等身大の自分で「君」と人生を過ごす中で「好き」よりもっと「好き」が言葉を見つけてくるからという言葉を伝えます。

 

最後は〈言葉など何も欲しくないほど 悲しみに凍てつく夜で 勝手に君のそばで あれこれと考えてる 雪が溶けても残ってる〉となっていて、またラストで難解になっているのですが、僕はこの部分はあえてシンプルに、冒頭の主人公の気持ちとの対比なのかなと考えました。

冒頭で「凍りついた心には太陽を」「僕が君にとってそのポジションを」というような「傲慢な思い込み」をして傷つけて「ごめんね」と言っています。

おそらく、主人公はラストサビに出てくるようなつらい場面にいる「君」に、かけてしまった言葉なのではないかというのが僕の解釈です。

そしていろいろ考えて、自分で向き合って、結果出た答えが悩んでいる時は「勝手に横に座って」「あれこれ考えてる」というスタンスにたどり着いたわけです。

初めは悩んで座り込んでいるパートナーにポジティブな声で手を差し伸べて引っ張ろうとしていたのが、パートナーが悩んで立ち上がれなくなったとき、そっと横に座ってそばにいるよというスタンスに変化してた。

そんな、最愛のパートナーのために自分が変わろうとするとっても素敵な主人公を描いた歌だと思うのです。

 

おわりに〜初視聴時点で書き出していた「前書き」

実はこの曲の考察を書くにあたって、文章の構成を考える中でプロットを大きく変更する事がありました。

その際ざっくりと前書きをカットしたのですが、作品考察という意味では残しておきたいと思ったので、最後に初視聴時点で直感で考えた内容をつけておきたいと思います。

 

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世界にもし「好き」って言葉がなかったら、僕たちはそれをどう伝えるだろう?
Official髭男dismの新曲『Subtitle』を聞いた時、僕の頭には真っ先に住野よるさんの『君の膵臓をたべたい』のラストと、マンガ『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編のクライマックスを思い出しました。

『君の膵臓をたべたい』では、膵臓に病気を抱えるヒロインとその秘密を知る主人公が心を寄せる物語で、最後ヒロインが死んでしまい2人は結ばれることがないのですが、お互いが最後に相手に当てた手紙とメールの文面に「君の膵臓がたべたい」と書いてあることから、思いが通じ合っていた事が分かります。

一方、HUNTER×HUNTERのキメラアント編では、絶対的な力を持つ危険生物の王と、村育ちの盲目の娘で、誰からも愛情を受けたことのない娘が将棋のようなゲームでの対局をするうちに惹かれあい、戦争の後、2人はお互いに「ありがとう」と言うことで心が通い合った所で息を引き取るシーンが描かれます。

この2作品に共通する所は、互いに「好き」という言葉を使わずに好きな気持ちを伝えようとするところ。

HUNTER×HUNTERに関しては誰もが平伏する絶対的な力を持つ王も、誰にも必要とされない盲目の少女も、共に「好き」という言葉を知ることなく育ってきました。

そんな2人が心惹かれ合い、最後に「好き」と言う概念に最も近いとして紡いだ言葉が「ありがとう」だったのです。

『君の膵臓をたべたい』に関しても、お互いにやりとりをする事で心の支えとなっていた相手に対して、今さら「好き」だなんて言葉では安っぽいような関係になっています。

そんな中で「好き」よりもっと愛情が伝わる自分たちだけの言葉はないかとたどり着いたのが「君の膵臓をたべたい」なわけです。

 

Official髭男dismの『Subtitle』もこれらの作品と同じで、自分の気持ちが相手に届く本当の「言葉探し」をしているのだなというのが、1度目に聞いた時の印象でした。

 

アイキャッチOfficial髭男dismの『Subtitle』

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SPY×FAMILYの最終回は「3人の○○からの解放」になる

僕はよく、マンガやアニメの展開を例に出して物語のパターンを話すこともあり、作品の予測を聞かれたらします。

そんな中でこの前偶然SPY×FAMILYの最終回を予想してくれと言われ、急遽話したものが思いの外納得してもらえたので、備忘録がてらここに残しておきたいと思います。

 

物語にある「こうならなければならない」というルール①ドラえもん

 

物語にはある程度「こうならなければならない」というルールのようなものが存在します。

例えば毎週放映される『ドラえもん』のような日常ものの作品であれば、「のび太の成長」は絶対にタブーです。

あの作品は「ダメなのび太」と「それをなんとかすることが目的で送り込まれたドラえもん」という設定によって生み出されるドタバタ劇です。

ということは、ドラえもん野比家にいる意味である「ダメなのび太」を崩してはいけません。

(だってのび太が成長してしまえば、ドラえもんが家にいる設定が消えてしまいますから...)

もちろん、それを逆手に取ったスタンドバイミードラえもんのような映画作品はありますが(これも実は「そうでなければならない結末」ものなので後で説明します)、少なくとも毎週のテレビ放映でのび太が明確な成長をする事はできません。

そうなると、『ドラえもん』という作品は基本的に「のび太が理不尽なトラブルに巻き込まれる」→「ドラえもんに助けを求め未来の道具で解決する」→「のび太が調子に乗ってその動画を欲に沿って乱用する」→「思わぬ別の問題が生じて痛い目を見る」というあらすじになるわけです。

 

物語にある「こうならなければならない」というルール②暗殺教室

 

もうひとつ、『暗殺教室』を例に見ていきたいと思います。

暗殺教室は「殺せんせー」とそれを殺すことがミッションになる生徒たちというトリッキーな設定を取っていますが、基本的には「教師もの」です。

学園もので生徒がわちゃわちゃするのならともかく、「先生」にスポットを当てた作品においては、「生徒が先生の手も借りなくてもいい成長して先生のもとを卒業する」しかありません。

そしてこの作品はあくまで「殺し」が卒業と同義になっている。

さらに第一話の扉絵では朝の挨拶の直後に殺せんせーが生徒たちに武器を向けられるシーンとなっています。

と、なるとこの作品の最終回は「教室の生徒たちが成長した上で殺せんせーを手にかけ、主人公の渚が殺せんせーに憧れて教師になり、1話の扉絵のトレースで朝の挨拶で不良生徒に武器を向けられる(なんなら殺せんせーからの「教え」でそのシチュエーションを難なく乗り切る)」あたりだろうと予想が立つわけです。

 

こんな風に良く出来た作品ほど制約に縛られているものが多く、ある程度展開が予想できたりします。

そういった観点からSPY×FAMILYの結末を予想しようと思います。

 

SPY×FAMILYにおける設定の制約を整理する

 

さて、『ドラえもん』と『暗殺教室』を例に設定の物語の展開への影響を話してきましたが、このラインで分類すると、SPY×FAMILYも間違いなくこちら側に分類されます。

SPY×FAMILYの設定は次の通り。

・日常ものの作品である

・家族は擬似関係

・国同士の争いがある設定

・それぞれが明かせない秘密を抱える

これらの要素を織り込みながら、最終話の内容を考えていきたいと思います。

 

まず、この作品はあくまで「日常もの」という立ち位置であるというところから。

日常ものの作品、また恐らくメインターゲット層も比較的低学年であるだろうことを考慮すると、この作品の最終話にバッドエンドを置くことは考えづらくなります。

したがって、基本的にはハッピーエンドを前提に考えていくのが妥当でしょう。

次にこの作品は互いの素性を隠したもの同士が家族関係を結ぶことがコアになって作られています。

仮にこの作品がスパイものなどであれば、家族の解散と引き換えに自国の勝利というハッピーエンドも考えられますが、あくまで中心は「擬似家族」にあるので、そちらも考えづらくなります。

とすると、何かの犠牲で国を救うという、いわゆる少年漫画的な感じは少し考えにくくなります。

 

次に「家族は擬似関係」というところに注目して、そうていされるハッピーエンドを考えます。

擬似家族の3人が救われるハッピーエンドには、①3人がそれぞれの生き方を見つけて別の方向に進む(解散)と、②3人が本当の家族になるといったあたりでしょうか。

①は2002年にテレビドラマで放映された「人にやさしく」のパターンと考えてもらうと直感的に伝わるとおもうのですが、個人的にはこちらの結末はSPY×FAMILYには合わないかなと考えています。

 

3つ目の要因でもある「国同士の争いという設定」にも関わることなのですが、仮に3人が別の生き方を見つけて別の道にいくのであれば、国同士の争いという全体を通した世界観が意味を失ってしまいます。

これだけ緻密に作られた設定である以上、何かしら設定そのものが関わってくるように思うのです。

そしてもう一つ、アーニャの好物がピーナッツであることです。

ピーナッツの花言葉は「仲良し」ですが、これは2国間が平和になるということとともに3人が仲良しということが込められているように思うのです。

というわけで僕は②の3人が本当の家族になるという最終回を予想しています。

 

では、3人が本当の家族になるために必要な条件は何か?

そう考えた時に出てくるのが4つ目の「それぞれが明かさない秘密を持っている」という制約です。

「本物」の家族になるために必要なのは3人の秘密の開示しかありません。

仮に3人の隠し事を「呪い」と呼ぶのであれば、物語の終盤は「3人の呪いからの解放」が大きな方針になるように思います。

この辺、鬼になった妹を救出する『鬼滅の刃』や、自身に取り憑いた悪霊や親友伏黒の姉、そしてトリックスター的存在の悟条先生の親友についた悪霊を祓おうとする『呪術廻戦』も同じカテゴリーだと思っています。(そしてこれは10年代後半のジャンプ作品の特徴とも)

 

物語の後半を具体的に予想する

 

さて、これでは「予測」というには漠然としすぎているので、もうすこし具体的に考えていきたいと思います。

それぞれの「秘密の打ち明け」を呪いからの解放と捉える場合、それぞれがそれを打ち明けられる自然な環境を整えなければなりません。

ここで登場するのがもう1人「打ち明けなければならない秘密」を持つ存在である「ユーリ」です。

この作品が本当の意味でのハッピーエンドを迎えるならばユーリも秘密を打ち明けなければなりません。

さらに、ハッピーエンドを迎えるとしたらもう一つ、アーニャの出生の謎も明らかになることが不可欠でしょう。

つまりこの作品において3人が本当の、家族になるというラストを迎えるためには、①ロイドがスパイであることを打ち明ける、②ヨルが殺し屋であることを打ち明ける、③アーニャが超能力者であることを打ち明ける、④ユーリが秘密警察であることを打ち明ける、⑤アーニャの出生の謎が明らかになる、⑥スパイと秘密警察の敵対関係が解消されるというシチュエーションが自然に生じ得るクライマックスを用意しなければいけないわけです。

 

つぎにこれらを満たす展開を絞り込みます。

全部が同時に発生することは不可能なので、僕は大きく次の3構成かと思っています。

a.ロイドとユーリが正体を明かして和解(①④⑥)

b.アーニャの出生の秘密が明らかに(⑤)

c.3人が秘密を明かして家族になる(①②③)

以上のことを踏まえて、クライマックスの展開としてあるんじゃ無いかなという僕の予想が次のようなものです。

 

・ヨルに疑いがかかり絶体絶命(正体がバレたわけではないorユーリにはヨルの正体がバレるがロイドにはバレていない)→ユーリが秘密警察を裏切って姉を救おうと動くも大ピンチ

・ロイドがユーリに素性を明かしてユーリを救う→姉には伝えない約束で秘密警察だったこととスパイであることを共有

・ひょんなことからアーニャの親の情報が入る→アーニャの親探し

・アーニャ親と会う→傷つく→2人を選ぶも3人揃って大ピンチに

・ショックと2人を守るために超能力を使いすぎ力を失う(アーニャの能力がバレる)

・人がアーニャを救うために全力になる→素性明かす(3人の秘密の解消)

・ロイドもヨルも仕事を辞める→アーニャの母国で3人幸せに暮らす

 

ざっとこんな展開が僕の予想です。

おそらく的外れになることは分かっているのですが、その上で思考実験としてクライマックスの予想をしてみました。

答え合わせは何年後になるかわかりませんが、またSPY× FAMILYが佳境を迎えはあたりで振り返ってみたいと思います。

 

 

アイキャッチはもちろんSPY×FAMILY

 

 

BUMP OF CHICKEN『SOUVENIOR』考察〜言葉の2重性と贈り物の真の意味〜

9月の29日にリリースとなったBUMP OF CHICKENの新曲『SOUVENIOR』。

この曲はアニメ「SPY×FAMILY」のタイアップ曲となっています。

タイアップということで、当然アニメと関連付いているところもあるこの楽曲ですが、僕の中でBUMP OF CHICKENの歌詞を考察する際にはあまりタイアップ作品に引っ張られすぎてはいけないというのがあります。

例えば、中田ヤスタカさんやzoppさんと言った人たちの場合、まず作品ありきで作られている様に感じるのですが、藤原基央さんはもちろん作品のモチーフには対応しているのですが、それよりも歌としての完成度を求めている様に感じるのです(これはOfficial髭男dismの藤原聡さんもそうですが)。

そこで今回はあえて「SPY×FAMILY」を前提とするのではなく、接点として触れつつ、歌詞そのものを考察していきたいと思います。

 

「SOUVENIOR」というタイトルの2重性

さて、あえてアニメには多く触れないと言っておいて初っ端に「SPY×FAMILY」について語るのもアレですが(笑)、タイトルはやはり初めに触れておきたいので、少しだけアニメと関係しつつ語りたいと思います。

SPY×FAMILY」は日常生活の裏で「スパイ」をする主人公ロイド、「殺し屋」をやるヨル、「エスパー」として心が読めるアーニャの3人が、ひょんなことから素性を隠して一緒に暮らす作品です。

作品そのものが「2重性」がテーマになっています。

その意味からいうと、僕は「SOUVENIOR」というタイトルは気になってしまいます。

「SOUVENIOR」はドイツ語では「お土産」「贈り物」という意味ですが、フランス語になると「思い出」というニュアンスも含まれてきます。

もちろんこんな部分に触れなくてもこの歌は成立していますが、アニメのテーマ上この2重性は作詞者の頭にあったんじゃないかなというのが僕の考察です。

主人公にとって「あなた」と出会って輝き始めた日常の一つ一つがあなたに話したい「お土産」のようで、それは2人で紡いだ「思い出」になる。

このタイトルにはこんな意味があるのではないかなと思っています。

 

退屈な毎日に彩りをくれた出会い

以上のようなタイトルの前提を踏まえて歌詞を見ていきます。

〈恐らく気付いてしまったみたい あくびの色した毎日を 丸ごと映画の様に変える 種と仕掛けに出会えた事〉

「恐らく気付いてしまったみたい」と始まるAメロですが、この「気付い"てしまった"」という出だしからは、「もう気付く前には戻れない」というニュアンスが感じ取れます。

「あくびの色した毎日」と「映画の様に」というのは、それぞれ「退屈」と「わくわく」と判断すれば良いでしょう。

主人公は退屈な毎日をワクワクするものに変えるきっかけを得てしまった。

そして気付いたからにはもう前には戻れないというのがAメロの始めで歌われます。

 

続くAメロでは、〈仲良くなれない空の下 心はしまって鍵かけて そんな風にどうにか生きてきた メロディが重なった〉とありますが、これは上のAメロとメッセージ自体は同じであると解釈するのが妥当でしょう。

「メロディが重なった」というのはあるきっかけで変わったということだと思いますし、後でその「メロディが重なる」相手は「あなた」であることが分かりますが、ここではあえてそのままにしておきます。

 

続くBメロに。

〈小さくたっていい街のどんな灯よりも ちゃんと見つけられる 目印が欲しかった〉

「灯」は希望のモチーフで使われることが多いため、「街のどんな灯」というのはさまざまな希望のメタファーとして一旦解釈します。

そして主人公はそうした「希望」ではなく、「小さくてもいいからちゃんと見つけられる目印が欲しかった」と言います。

これは「希望」と対であると考えると「居場所」くらいになる気がします。

主人公は大きな希望ではなくていいから、せめて自分の存在が受け入れられる場所が欲しいと望みます。

これはちょうど「SPY×FAMILY」におけるロイドに拾われてワクワクする毎日を手にしたアーニャとも重なります。

この歌の主人公は「あなた」に受け入れられることで、世界が輝き始めた訳です。

 

〈この目が選んだ景色に ひとつずつリボンかけて お土産みたいに集めながら続くよ帰り道
季節が挨拶くれたよ 涙もちょっと拾ったよ
どこから話そう あなたに貰ったこの帰り道〉

このサビで主人公の思いが全てまとまります。

「目が選んだ景色にリボンをかける」というのはあなたに出会うことで輝き出した世界の中で、気になったものを一つ一つ大切な思い出にしたいというもの。

「お土産」みたいに集めて「帰る」その先はもちろん「あなた」の元でしょう。

1日の出来事を大好きな「あなた」に語りたい。

そんな主人公の喜びに満ちた内面が伝わってきます。

「季節があいさつをくれた」「涙もちょっと拾った」というのは、嬉しいことだけじゃなく、悲しいことやちょっとした変化も含め、そんな全てを「あなた」と共有したいという気持ちの現れでしょう。

そして「あなたに貰ったこの帰り道」と締められることから、やはりこうした変化のきっかけとなった存在が「あなた」だったということを示しています。

全部引用するのは気がひけるので、サビのラストは省略しますが、最後は「歩いたら急いだり、走っては歩いたら」しながらあなたのもとへと向かう姿が描かれます。

これはアーニャがちょこちょこと歩く場面とも重なりますし、そんなソワソワしながら家に向かう主人公のワクワクした心情とも捉えることができます。

 

生きる意味を見つけた主人公の今の思い

〈こうなるべくしてなったみたい 通り過ぎるばっかの毎日に そこにいた証拠を探した メロディが繋がった〉

2番のAメロは「こうしてなるべくしてなったみたい」と現在を噛み締める場面から始まります。

そして、これまでは「通り過ぎるばっかの毎日」だったのが、「そこにいた証拠を探す」ようになったと変化を語ります。

それまでは生きる意味なんて見出していなかった主人公が、ひとつひとつ生きる意味を探す様になったのは非常に大きな変化です。

そして「メロディが繋がった」というのはやはり「あなた」との出会いのことだと思います。

 

そしてBメロでさらに展開をします。

〈そうしてくれたように 手を振って知らせるよ迷わないでいいと 言ってくれたように〉

1番ではあなたに出会えて世界が変わったと言った主人公が、ここでは「そうしてくれたように手を振って知らせるよ」と対等に振り返す様が描かれます。

1番では主人公があなたのおかげで「変われた」あなたのもとへ「帰る」と、実は「あなた」そのものは出てきていませんでした。

しかし2番のBメロで手を振り返すことで、初めてこの歌に「あなた」が登場します。

 

著作権的に省略しますが、2番のサビでは2人が出会えた奇跡を噛み締めながら「あなた」の元へと向かう主人公が描かれます。

 


ここから間奏を経て最後のサビに入るのですが、ここでは特に2番のサビと最後のサビのラストの部分に出てくる変化に注目したいと思います。

これが2番のサビ

〈どこからどんな旅をして 見つけ合う事が出来たの あなたの昨日も明日も知らないまま帰り道 土砂降り一体何回くぐって笑ってくれたの 月より遠い世界から辿ってきた 帰り道〉

それに対して大サビのラストは次の通りです。

〈どこからどんな旅をして 見つけ合う事が出来たの あなたの昨日と明日が空を飾る帰り道 この目が選んだ景色に とびきりのリボンかけて
宇宙の果てからだろうと辿っていく 帰り道〉

この二つを比較して変わっているのは2フレーズ目以降です

①〈あなたの昨日も明日も知らない〉⇔〈あなたの昨日と明日が空を飾る〉

②〈土砂降り一体何回くぐって笑ってくれたの〉⇔〈この目が選んだ景色にとびきりのリボンかけて〉

③〈月より遠い世界から辿ってきた〉⇔〈宇宙の果てからだろうと辿っていく〉

①ではネガティブ→ポジティブに、②ではあなたのおかげ→自分が行うに、③では過去→未来へと変わっています。

それらを組み合わせれば2番のサビは「あなたの笑顔のおかげで自分は今がある」、大サビは「あなたとの時間を共有してこれからを歩みたい」みたいな感じでしょうか。

やや強引ですが、このくらいの解釈が妥当な様に感じます。

 

パートナーにこれまでの感謝とこれからへの感謝を伝える「SOUVENIOR」

僕が「SOUVENIOR」という曲を聴いて持った印象は、「自分が変わるきっかけにパートナーに対する感謝の気持ち」と「これからも一緒によろしくねという気持ち」を歌った曲というもの。

そしてそのために必要なのが知らない昨日や明日でなく、今を精一杯楽しむこと。

つまり2人で一日一日の小さな日常を大切にしていこうというのがこの曲のテーマではないのかなと思っています。

そしてその感謝としての「SOUVENIOR」が「贈り物」、これからも一緒に歩こうという意味での「SOUVENIOR」が「思い出」なのではないかと。

 

そんなとってもとっても優しい主人公の印象を受けるBUMP OF CHICKENの『SOUVENIOR』は、「SPY×FAMILY」のオープニングにはぴったりだなと思いました。

 

 

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僕らがジブリパークのベンチは排除アートと言われて怒る理由

(最近Twitterに表示されるつぶやきがしんどくて開く機会が減っているのですが、その中の一つでジブリパークの「排除アート」に関する呟きが気になったので、思考の棚卸しとして記録しておきたいと思います。

もとは愛知県立大の研究者さんのつぶやきが発端だったのですが、いろんな観点が集約されていて(そのいずれもが語気の強い口調で、それがしんどくなっねしまったのですが...)、その論点整理をすると非常に面白かなと感じました。

ということで、今回は言葉を柔らかくして整理していこうと思います。

 

そもそも「排除アート」とは?

例えば電車の横一列がけのシートに窪みを作ると無意識にそこに人々は座るというように、デザインには人の行動を制限する働きがあります。

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(https://tokk-hankyu.jp/articles/train/20437/)

f:id:kurumi10021002:20221014105139j:image

(http://www.accueil.ne.jp/archives/2649)

たとえば、上の写真であれば、1枠に3人座れそうですが、もし余裕を持って座るように人が出て来れば、2人でいっぱいになる可能性もありますが、下の写真ならばほとんどの人が7人用だと考えるでしょう。

これによって1人が座席を広く取りすぎるといったトラブルが回避できるわけですが、排除アートはこれと同じ理屈で、特定の行動をやめさせようとするもの。

 

例えば次の2枚の写真を見てください。

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(http://www.accueil.ne.jp/archives/26490)

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(https://www.google.co.jp/amp/s/president.jp/articles/amp/58682%3fpage=1)

上は一見すると可愛らしい小鳥のデザインのついた柵ですが、上に小鳥が乗っていることで、その上にちょっと座るということができない仕掛けになっています。

2枚目はポップなデザインで、近代的な公演には合う様にもみえますが、細かく取手がつくのとで、たとえばホームレスの人が夜に横になることができない仕掛けにやっています。

この様に、デザインの力によって特定の行動を制限するのが排除アート。

ジブリパークの椅子に関してもこの側面があるのではないかというのが、先に紹介した方のつぶやきの趣旨でした。

 

ジブリパークの椅子に関する視点の諸々

さて、ジブリパークのベンチが排除アートではないかと言われたそのデザインがこちら。

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(https://twitter.com/ghibliparkjp/status/1578164582127804417?s=46&t=L1f2NhY4B-C-i3RML7p84A)

確かに鉄の物質がベンチの真ん中に置いてあったりするため、排除アートの様にも見えます。

これを持ってKAMEIさんという方は、「可愛い物の形を被った排除アートが恐ろしい」という発信をしていたわけです。

 

僕自身がこれを排除アートと考えるのか、また排除アートそのものにどう考えるのかというお話は今回はしません(というかそこには興味がない)

僕が気になったのは色々な人の着眼点の方だからです。

というわけで、今回はどのような視点が多かったのかという視点を並べていこうと思います。

 

①これは展示物で学者はなんでも批判や主張と結び付けたがる

まず一つ目のカテゴリはなんでも社会問題と結びつけるなというもの。

確かにジブリパークという商業施設内にあるオブジェには、「横になる人を排除する」という目的は入りません。

となると、大袈裟なのではという主張も分かります。

ただ、これに関してはデザインをする人たちというのは僕たちが思う以上に考えているので、少なからずデザインにより行動を制限したいということはあった様に思います(例えば撮影スポットにすることで、長く座りづらくするとか)

 

②そもそもベンチは座るためのもので、別の行動を前提に考えるのが誤り

これに関しては納得しかねるなあという印象です。

「排除アート」は「特定の利用用途以外を『排除』することが目的」でもあります。

ベンチで寝てほしくないから柵をつける。

地面に寝られない為にトゲトゲのデザインのアートを置く。

こうやって目的以外の使用を防ぐというのもデザインには必要なことなので、目的以外の使用を前提に作るという性善説に基づく物の見方は素敵ですが、やや優しすぎる様に感じます。

 

③あれは排除アートである

これが(閉園時間はあるものの)ジブリパークの無料エリアに設置されたベンチと考えると、排除アートと言えなくもないという意見もチラホラ見かけました。

 

④可愛いデザインを隠れ蓑にした「排除性」が問題だ

これが発信者の方の主張に1番近い様に思います。

特定の行動をするものを排除するための手段として、可愛い物でコーティングされている。

そしてほとんどの人がそこに込められた悪意に気付かぬまま、排除される人に思いも寄せぬまま、排除アートが排除アートとして機能するのが恐ろしいというのがこの主張の趣旨でしょうか。

このオブジェ付きベンチが「弱者の排除」とまで言えるかは確かに言い過ぎな面もありますが、(このベンチはともかく)他のあらゆる排除アートの側面を持つ公共品を、僕たちは可愛い!クール!と言って、裏にある排除の意図を気づかずに大多数が使用しているというのは、少し怖いというのは納得がいきます。

 

⑤排除アートそのものに対する社会福祉という観点からの批判

ジブリパークのベンチからひとつ抽象化して、排除アートそのものに対する問題提起というのもありました。

そもそもそう言ったベンチで夜を過ごさなければならなかった人たちはそれしか行き場が無かったのかも知れず、その居場所を無くしたところで彼ら自身は存在する。

弱者を追い詰める対策はどうなのかというもの。

また、それがオリンピック前後で急激に増えたことに対する疑問の声も見かけました。

 

これに対して攻撃的な批判が多かったのは何故か?

さて、今回僕はジブリパークのベンチが排除アートかどうかというところには触れないし、排除アートに対する自分の考えも書かないと言いました。

僕がこの話題で興味を持ったのはそこではないからです。

むしろ僕が気になったのは「何故この発信にこんなにも攻撃的な反応が多かったのか?」という部分。

 

僕自身、この発信を始めて目にした時、少し「うっ」となるものがありました。

それは①初めにこれがカワイイと感じた上で、②可愛いさに隠れた排除アートであると伝えられることで、自分も知らず知らずのうちに排除アートの加害者に参加させられた感を受けたからです。

公園などの公共物ならともかく、ましてこれは「ジブリ」というthe・娯楽コンテンツです。

そんな娯楽コンテンツを見るときの僕らの思考には癒しや楽しみといった感情が中心でしょう。

そしてそこの新たな告知で出てきたものを見て「いいな!」「行ってみたいな!」と思ったところに、冷や水をかける様に「可愛さの裏に残虐性が」と言われた訳なので、そこには少なからず嫌悪感が生じる。

 

ニュースや勉強会の最中に、問題意識を共有しようと言われるのならともかく、娯楽の時間に「お前は加害者だ」と突きつけられた(ように受け止めかねない)発信ということで、必要以上に攻撃的な反応が多くなったのではないかと思うのです。

そんな観点からも気になったのはジブリパークのベンチのお話。

何年か前に時事ネタはできるだけ扱わないと決めたのですが、この話題に関しては個人的に2012年くらいから地続きで気になる分野でもあったので(この辺はまた今度まとめたいと思います)久しぶりに薄口コラムを備忘録として使ってみました。

UNISON SQUARE GARDEN『シュガーソングとビターステップ』考察~南南西に隠されたお宝を突き止める~

アップテンポでライブの定番曲のようなナンバーは、しばしば「盛り上げ曲」として認知されがちです。

ポルノグラフィティの『ハネウマライダー』あたりは個人的にはその一つ。

しかし、そういう曲こそ丁寧に書き込んでみると新たな発見があることも少なくありません。

そんな観点から本日触れたいのが、UNISON SQUARE GARDENの「シュガーソングとビターステップ」です。

この曲はパッと聴くと語感重視に聞こえますが、歌詞を読み込んでいくと、しっかり深い意味が存在します。

今回は正面から言葉を追いかけてみようと思います。

 

感情に素直になれない現代人を殴る

 

〈超天変地異みたいな狂騒にも慣れて こんな日常を平和と見間違う〉

Aメロの出だしは「激動の毎日が当然と思ってしまう」というような意味だと直接的に受け止めればよいでしょう。

僕たちは日々さまざまな出来事に出会ってさまざまな刺激を受けているのに、いつしかその刺激が当たり前になって、当然のものとして受け入れてしまっている。

ここには、刺激が当然になって感情がなびかない僕たちの現状がかかれます。

 

〈Rambling coaster 揺さぶられながら 見失えないものは何だ?〉

「Rambling coaster」は「とりとめもないソリ(のりもの)」くらいの意味だと思いますが、こちらは退屈な毎日くらいの感覚です。

Aメロの前半では刺激に慣れてしまって感情が動かなくなった現代人を描くのに対し、後半では退屈さに慣れきった姿が描かれます。

そんな生活の中でも自分の感覚を大事にしようというのが「見失えないものは何だ?」という部分。

 

2回目のAメロはこんな風に続きます。

〈平等性原理主義の概念に飲まれて 心までがまるでエトセトラ〉

原理主義は「○○が絶対」といった考え方のこと。

ここでの「平等性原理主義」は「平等であることが何より大事」、つまり波風立てず穏便にくらいに捉えてかまわないと思います。

そういう考えが日常になってしまい、心は上の空といった具合でしょう。

エトセトラは「その他」「いろいろ」みたいな感じですが、ここでは「Rambling」みたいな使い方でいいと思います。

〈大嫌い大好きちゃんと喋らなきゃ 人形とさして変わらないし〉

続くパートに出てくる「大嫌い大好きちゃんと喋らなきゃ」というのは「自分の感情に正直になれ」ということでしょう。

 

Aメロではここには毎日が過剰な刺激にまみれているのが当然となる一方で退屈で何も意味を見出せないような生活を送る現代の若者の生活が描かれます。

そんな現代人は出来事に対して鈍感。

もっと感情に正直になろうよ、敏感になろうよというのがAメロのメッセージです。

 

Aメロのこうしたメッセージを踏まえて、Bメロは次のように続きます。

〈宵街を行く人だかりは嬉しそうだったり寂しそうだったり コントラストが五線譜を飛び回り 歌とリズムになる〉

「嬉しそうだったり寂しそうだったり」というのは感情を露わにした状態です。

そして、その触れ幅(コントラスト)が歌になっていくと続きます。

感情の揺れが楽譜の上でメロディとなって歌になるんだ。だからもっと感情を爆発させようというメッセージとともに最高潮に盛り上がるサビへと突入します。

 

ママレード&シュガーソング ピーナッツ&ビターステップ〉

ここは続く〈甘くて苦くて〉の部分を引き立てる枕詞のようなものだと思います。

そしてそれはBメロに出てきた「嬉しそうだったり寂しそうだったり」という部分の感情の触れ幅でもあるわけです。

〈目が回りそう〉なくらいに感情を爆発させようというメッセージが軽快なリズムにのって届けられます。

そしてサビの後半ではこんな歌詞が。

〈南南西を目指してパーティを続けよう〉

おそらく「シュガーソングとビターステップ」でもっとも解釈が難しいのがこの部分。

僕はこの曲を聴いたとき、はじめはヒッチコックの「北北西に進路をとれ」という映画に対するオマージュであると考えていました。

「北北西に進路をとれ」はある日一般人がスパイと間違われ、急にトラブルに巻き込まれる話。

だからそれのオマージュで反対を出すことで、「自分の足で歩け」みたいなメッセージがこめられているのかなと考えていました。

でも、それならば「南南東」の方がしっくりきますし、あとに出てくる「北北東は後方へ」の意味が通りません。

そこで他にオマージュ元がないのか調べてみました。

 

ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」はもともと英語では「North by Northwest」でした。

本来「北北西」を表すのは[north northwest]なので、この表現は少しおかしな言い回しです。

このタイトルの由来は諸説あるようですが、今回の歌詞考察から離れてしまうのでまあおいておくとして、注目したいのは「North by Northwest」という映画のタイトルになぞらえた「South by Southwest」という映画や音楽の祭典があるということです。

この音楽祭は業界向けのインディーズに眠るマニアックな才能の発掘の場のような意味合いもあるらしく、まさに「シュガーソングとビターステップ」のモチーフに重なります。

つまり「南南西を目指してパーティを続けよう」というのは、「South by Southwest」に出てくるような感情に語りかける音楽で盛り上がろうというメッセージではないか?というのが僕の解釈です。

上記のように解釈すると、〈世界中を驚かせてしまう夜になる I feel 上々連鎖になってリフレクト〉という部分も気分上場で盛り上がろうと素直に受け止められます。

 

商業音楽とロックミュージック

 

〈蓋然性合理主義の正論に揉まれて 僕らの音楽は道具に成り下がる?〉

「蓋然性」は「物事が成立する見込みが立つ/知識に整合性が取れている」といったような意味の言葉です。

それに基づく「合理主義」ということなので、無駄を排し、先のめどが立つ安全な道を選ぶことでしょう。

そんな「正論」に揉まれるうちに、「音楽」は「道具」に「成り下がる」というわけです。

1番から音楽が感情や衝動を源泉にするものであると考えれば、ここでいう「道具」とは人の心や熱が入っていないと捉えることができます。

では、「心や熱のない音楽」とは何でしょう。

僕はこれをタイアップや各種得点、商法で無理やり売り上げを伸ばすことが目的で作られた、ある種の商業的な音楽に対する問題提起であるように感じました。

「売れること」「大ゴケしないこと」は確かに大事だけれど、そんなことばかりを考えて音楽を作っていたら熱のこもった曲なんてできないよねという感じ。

2番はまるで自分たちの音楽作りの意思を訴えるかのように始まります。

 

〈こっちを向いてよ 背を向けないでよ それは正論にならないけど〉

正論ではないかもしれない=無駄も多いかもしれない

マーケティングのようなことを考えなければ誰の目にも留まらないかもしれない。

でも自分たちの音楽に耳を傾けてほしいというのが僕のこの部分の解釈です。

 

そしてBメロでは〈祭囃子のその後で昂ったままの人 泣き出してしまう人〉と続きます。

「祭囃子のその後」というのはハレの日が終わり、1番に出てきたような感情の振れがでないケの日常に戻るということでしょう。

そんな日常生活に周りが戻る中、感情の高ぶりをそのままにしたい人たちがいる。

そんな人たちの気持ちを受け止めたいと言って2番のサビへ。

 

著作権的に引用を減らしたいので2番のサビは省略しますが、今を楽しめというメッセージが投げられます。

 

〈Someday狂騒が息を潜めても〉〈Someday正論に意味がなくなっても〉

Cメロで「狂乱が息を潜める」と「正論に意味がなくなる」という間逆の概念が出てきます。

ここはそれぞれに呼応の副詞として「たとえ」をつけて受け止めるのが妥当かと思います。

たとえ狂乱がなりを潜める社会なっても、たとえ正論に意味がなくなる社会になっても、というのがここでの解釈で、「たとえどっちの方向に世界が向かっても」という感じで理解します。

すると、これが投げかけになってCメロの後半にアンサーが出てきます。

それが〈Feeling song &step 鳴らし続けることだけが 僕たちを僕たちたらしめる証明になる、QED〉という部分です。

「どんな社会になっても生きていく方法」、これに対する作詞者の答えは「自分の気持ちと正直に向き合え」というもの。

そうやって生きていくことだけが自分らしく生きる方法であるとまとめています。

 

証明終了。あとは何を伝えたい?

 

個人的にこの曲がおしゃれだなあと思うのは、Cメロの最後が「QED」と締められているところ。

QED」は数学で「証明終了」という意味。

最後の大サビの前にこれを置くというのは、曲の構成的にはこの曲で伝えたいメッセージはここで終わりということを示します。

では、ここから先は何か?

それはもちろん作詞者が述べた「Feeling song &step」でしょう。

シュガーソングとビターステップ」では、歌詞だけでなく、曲そのものの構成を通して、「感情に正直になれ」と訴えてくるわけです。

そして最後の大サビに。

 

大サビの基本は1、2番のサビに通ずるものなので大部分を割愛しますが、ひとつだけ触れたいところがあります。

それは〈北北東は後方へその距離が誇らしい〉という部分です。

1番でも少し触れましたが、〈南南西を目指して〉というのは、まだ見ぬ才能の発掘の場である「South by Souswest」というエンタメの祭典へのオマージュ。

その反対の「北北東」を、2番の歌詞を踏まえて解釈すると、「マーケティングや売れること、赤字を避けることを第一にした商業用音楽のようなもの」かなと思います。

そういったものを後方に、そこから離れることをむしろ誇りに思いたいというメッセージと受けとめられます。

 

そして〈世界中を驚かせ続けよう〉〈世界中を驚かせてしまう夜になる〉という歌詞からは売れることや計算ではなく都度都度の感情に正直に自分の直感を貫いて世界に挑もうという気持ちがあふれます。

そして〈一興去って一難去ってまた一興〉と繰り返した後、〈You got happiness phrase and melodies〉と締める。

「あなたはもう幸せのフレーズとメロディーを手に入れた」とありますが、これは1番の〈嬉しそうだったり寂しそうだったり コントラストが五線譜を飛び回り 歌とリズムになる〉に対応しているのだと思います。

「感情に正直になったとき、あなたは自分だけのフレーズもメロディーも手に入れているんだ」というメッセージが最後に添えられています。

 

こんな風に全編を通して非常に強烈に背中を押そうとしてくれる「シュガーソングとビターステップ」。

もちろん解釈は多様だと思いますが、僕はこのように受け止めました。

みなさんはこの曲をどのように受け止めますか?

 

アイキャッチはもちろん「シュガーソングとビターステップ

 

米津玄師『カムパネルラ』考察〜カムパネルラに問いかける主人公は誰なのか?〜

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
「だれが? 広田先生がですか」
 美禰子は答えなかった。
「野々宮さんがですか」
 美禰子はやっぱり答えなかった。
〈中略〉
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこのひとことを繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイシープ)ーーわかって?」

 

夏目漱石三四郎

 

米津玄師さんの『STRAY SHEEP』というアルバム名を見た時、初めに浮かんだのが夏目漱石の『三四郎』に出てくるこの場面でした。

責任から逃げている、そしてそんな自分を正当化している主人公に向けて美禰子がいう「ストレイシープ」という言葉。

「迷える羊(STRAY SHEEP)」は新約聖書にも出てきますし、むしろ頭に浮かぶのはそちらが王道である気もしましたが、僕にはこのアルバム名における「STRAY SHEEP」は『三四郎』のそれとしか思えませんでした。

 

というのも、このアルバムに入っている作品のいくつかに、所々文学作品へのオマージュが含まれている(と、僕は勝手に思っている)から。

(因みにこう書いておいて何ですが、このアルバムに入っている『迷える羊』の方は羊を探しに行く新約聖書の方がモデルだと思っていますが、その辺の矛盾を説明するとそれだけで終わってしまうのでまたの機会にします)

 

さて、そんなアルバムの中でも群を抜いて僕が惹かれたのが『カムパネルラ』です。

背景知識がなくとも楽しめるようにはなっていますが、この歌も当然ある作品がベースとなっています。

今回はその辺に触れつつ、米津玄師さんが描きたかった世界観を考えていこうと思います。

 

銀河鉄道の夜』に登場するカムパネルラという人物像

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだことがある人であれば、『カムパネルラ』と聞いた瞬間、この作品が思い浮かんだのではないでしょうか。

カンパネルラは『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニの友人で、ある日川で溺れたクラスのいじめっ子のザネリを助け、溺死してしまいます。

そのことを受け入れられずにいるジョバンニは気づくと銀河を駆け抜ける電車の中でカンパネルラと向き合っている。

そして、ジョバンニは銀河鉄道の中でのカンパネルラとのやりとりを通してゆっくりと友人の死を理解し、受け止めてゆく物語です。

すごーく、ざっくりといえば『銀河鉄道の夜』はこんなお話(うろ覚えであることと、本筋とは違うため短く済ませたいと考えたことから、細部にかなり誤りがあるかもしれません、、)

米津玄師さんの『カムパネルラ』がこの作品をモチーフに作られていることは間違いないでしょう。

歌の中に「リンドウの花」「月光蟲」「陽炎がゆれる」「真っ白な鳥」「歌う針葉樹」あたりは、それぞれ、銀河鉄道での旅に出てくる「りんどう」、「青い光の虫」、「蠍の火」、「白鳥」、「祭りの日のもみの木」といった表現を踏まえたものかと思われます。

(もっと関連するものもあるかと思いますが、記憶を頼りに手元の『銀河鉄道の夜』でパッと照らし合わせることができたのが上記のあたりです)

こんなふうに、『銀河鉄道の夜』をモチーフに、この歌ではいったい何を伝えたいのでしょうか。

 

主人公は誰か?

銀河鉄道の夜』を参考にしていることはわかりましたが、この歌は単純にカムパネルラが主人公となっているわけではありません。

〈カムパネルラ 夢を見ていた〉と呼びかけから入るこの曲。

一見すると、また『銀河鉄道の夜』の文脈からすると、主人公ジョバンニがカムパネルラに声をかけていると考えそうですが、ここはそれだと次のような歌詞にすこし違和感が生じます。

〈わたしの手は 汚れてゆくのでしょう〉

〈追い風に翻り わたしはまだ 生きてゆくでしょう〉

〈いつになれど 癒えない傷があるでしょう〉
〈黄昏を振り返り その度過ちを知るでしょう〉

このあたりは、単に友人を思い出すというよりは、友人の命と引き換えに「生かされた」かの印象を与えます。

そこから考えると、冒頭で「カムパネルラ」と語りかけているのは、ジョバンニというよりはザネリの立場ではないかと考えるべきだと思うのです。

クラスメイトの命によって生かされたいじめっ子のザネリが、生かされた命の重みと意味に向き合う話というのが僕が考える『カムパネルラ』という曲のモチーフです。

 

生きる意味をカムパネルラに問うザネリ

前置きで書きすぎてしまったので、歌詞そのものはざっと追いかけていこうと思います。

〈カムパネルラ 夢を見ていた 君のあとに 咲いたリンドウの花〉

「夢を見ていた」と過去形で始まるこの歌いだしは、夢の中でカムパネルラに会ったということでしょう。

そして減いつにあるのは「リンドウの花」

咲いて枯れる「花」はしばしば時間経過を表します。

今回も時間の経過=カムパネルラのいない現実を示していると考えてよいでしょう。

そして、先にも触れましたが、「りんどう」は『銀河鉄道の夜』とのつながりを暗示させるモチーフとしての働きもあります。

 

さらに、「君のあとに咲いたリンドウの花」という部分を考えてみると、ここには、リンドウの花言葉である、「正義感」が当てはまるように思います。

ザネリのことを救ってくれたカムパネルラは成績優秀でクラスの人気者として描かれています。

まさにリンドウの花言葉にぴったりでです。

また、ザネリはいじめっ子。

そんなザネリを命と引き換えに助けてくれたカムパネルラ(の影)を見て、リンドウの花と重なるというのは、生かされたザネリの心情としてもぴったりです。

 

〈この街は 変わり続ける 計らずも 君を残して〉という部分は「変化=成長」と捉えるのが妥当でしょう。

街はどんどん変化していく、つまり時間は流れていくけれど、そこに死んだカムパネルラだけはいないわけです。
ここから流れていく時と、空虚な日々を過ごす主人公が描かれるのですが、サビでは〈君を憶えていたい〉というフレーズが出てきます。

変わっていく、どんどん時間が流れていく世界の中で主人公にとってできることはなにか。

主人公なりの答えが「君を覚えている」というわけなのです。

 

そして2番。

〈カムパネルラ そこは豊かか 君の目が 眩むくらいに〉

再びカムパネルラへの呼びかけで始まる2番は、「そちらの世界」への伺いから始まります。

そしてBメロからサビにかけては再び自分が残されたことへの罪の意識を感じている。

〈波打ち際にボタンが一つ 君がくれた寂しさよ〉というフレーズは、そのことを象徴しています。

そしてここからはこれまでの内容を交えながら、〈いつになっても傷は癒えない〉、〈君がいない日々が続く〉と展開します。

 


このように、過ぎ行く時代の中で「救われた命」という意識からどこか変化に対する抵抗感のようなものを抱く主人公。

そしてそんな主人公の償いは「カムパネルラの存在を一生忘れない」こと。

これはある意味で一番重い十字架といえるかもしれません。

銀河鉄道の夜』で宮沢賢治さんはカムパネルラの「自己犠牲」とその後の列車でのやり取りを通して命の意味を知る主人公ジョバンニを描いたのに対し、米津さんは『かむパネルラ』という曲の中で、ザネリという、自己犠牲によって救われた側を主人公にすえることで、救われた側の背負うものを描きたかったのではないかと思うのです。

『カムパネルラ』が好きな人で、気になった方がいれば、ぜひ『銀河鉄道の夜』のほうも読んでみてください。

 

 

パチンコ型漫才とヒッチコック的モグライダーの発明

僕が好きな漫才のパターンのひとつに「パチンコ型漫才」があります。

といってもこんなジャンルが存在するわけではなく(たぶん)、この呼び方は僕が勝手にしているものです。

パチンコ型というのは初めから最後に成功パターンの前振りがあって、それがうまくいくかどうかというのをひたすら繰り返す形式のもの。

2020年に錦鯉さんが初めてM1の決勝に出た時のパチンコネタ(そのままですね)や、その数年前に検索ちゃんでオードリーが見せたCR春日(こちらもそのままですね)がこのパターンに該当します。

個人的に、ゴールが決まっているオチに向かってどういうパターンを次は用意するのかというのがワクワクして大好きだったりします。

 

ネタの題材に「パチンコ」を冠したオードリーや錦鯉のネタ以外にも、構造的に同一の系統を取るネタが多く存在します。

その典型はトム・ブラウンの作るネタでしょう。

たとえば中島くんを5人合体させて「スーパー中島くん」を作りたいという唐突な提案から始まるネタでは、中島くんの中にひとり中島みゆきが入って失敗に終わったりと、「スーパー中島くん」という大当たりに向かうリーチ演出のようなものが繰り返されます。

途中さまざまな失敗パターンが生まれ、時には一度失敗しても再チャレンジというパチンコで言うところのスーパーリーチのような演出も挟まり、ネタが進みます。

これもパチンコ型のネタでしょう。

 

こうして挙げてきたパチンコ型の漫才ですが、その(きちんとテレビに露出した人たちの中で!その一番新しいのがモグライダーの「さそり座の女」だと思っています。

モグライダーのこのネタは「美川さんって、可哀想じゃないですか」というネタふりから始まります。

何を可哀想だと思ったのかを聞くと、ボケの友繁さんが「『いいえ私はさそり座の女』って歌い出しで始まるってことは、その前に誰かに星座を聞かれて間違えられているってことでしょ?」と返します。

ここから、「さそり座の女」の前奏の部分で「美川憲一さんの星座を当てる」という挑戦がスタートします。

ここからは王道のパチンコ型に。

 

テーマもパターンも僕のドストライクのこのネタですが、僕はそれまでのパチンコ型に加えて、もう一つ新しい仕組みが入っていると思っています。

それは「結末の提示がされている」という部分です。

これまでのパチンコ型のネタは当たるか外れるかというシンプルな結論だったのですが、モグライダーのこのネタの終わりは「いいえ私はさそり座の女」と歌い始めるというところです。

このネタを見せられた僕たちは、純粋な当たり外れではなく、「いいえ私は〜」にどう繋がるかを期待しながら待つことになるのです。

 

「愛する男女が机で向かい合って見つめ合っていればロマンスだが、観客にだけ見えるように机の下の時原爆弾があればそれはサスペンスに変わる」というのはヒッチコックの言葉。

時限爆弾がある事で、見ている側は2人が死んでしまう光景を常に意識せざるを得ず、常にハラハラ感を持つことになるわけです。

少し前だと『100日後に死ぬワニ』がこの仕組みをもちいて大ヒットしていたように思います。(幸せに暮らすワニの死を知っていることで、読者に緊張感とワクワクを呼び起こす仕組み)

モグライダーのこのネタも、この要素が含まれているように思います。

僕たちは僅かな前奏の中で「そうよ」を吐き出すために焦るボケの友繁さんを見ています。

決められた結末に向かうだけでなく、そこへの制限時間もある事でグッと引きつけられる。

あの仕組みは本当に面白いなと思うのです。

 

ぺこぱの「ノリツッコまない漫才」を始め、「システム」が評価される芸人さんは沢山いますが、僕はやっぱりモグライダーのパチンコヒッチコックパターンのシステムが優秀だなあと思っています。

そんなパチンコ型漫才。

よかったらみなさんも見てみてください。

 

アイキャッチモグライダーの「穴掘り天国」