新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



僕らがジブリパークのベンチは排除アートと言われて怒る理由

(最近Twitterに表示されるつぶやきがしんどくて開く機会が減っているのですが、その中の一つでジブリパークの「排除アート」に関する呟きが気になったので、思考の棚卸しとして記録しておきたいと思います。

もとは愛知県立大の研究者さんのつぶやきが発端だったのですが、いろんな観点が集約されていて(そのいずれもが語気の強い口調で、それがしんどくなっねしまったのですが...)、その論点整理をすると非常に面白かなと感じました。

ということで、今回は言葉を柔らかくして整理していこうと思います。

 

そもそも「排除アート」とは?

例えば電車の横一列がけのシートに窪みを作ると無意識にそこに人々は座るというように、デザインには人の行動を制限する働きがあります。

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(https://tokk-hankyu.jp/articles/train/20437/)

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(http://www.accueil.ne.jp/archives/2649)

たとえば、上の写真であれば、1枠に3人座れそうですが、もし余裕を持って座るように人が出て来れば、2人でいっぱいになる可能性もありますが、下の写真ならばほとんどの人が7人用だと考えるでしょう。

これによって1人が座席を広く取りすぎるといったトラブルが回避できるわけですが、排除アートはこれと同じ理屈で、特定の行動をやめさせようとするもの。

 

例えば次の2枚の写真を見てください。

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(http://www.accueil.ne.jp/archives/26490)

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(https://www.google.co.jp/amp/s/president.jp/articles/amp/58682%3fpage=1)

上は一見すると可愛らしい小鳥のデザインのついた柵ですが、上に小鳥が乗っていることで、その上にちょっと座るということができない仕掛けになっています。

2枚目はポップなデザインで、近代的な公演には合う様にもみえますが、細かく取手がつくのとで、たとえばホームレスの人が夜に横になることができない仕掛けにやっています。

この様に、デザインの力によって特定の行動を制限するのが排除アート。

ジブリパークの椅子に関してもこの側面があるのではないかというのが、先に紹介した方のつぶやきの趣旨でした。

 

ジブリパークの椅子に関する視点の諸々

さて、ジブリパークのベンチが排除アートではないかと言われたそのデザインがこちら。

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(https://twitter.com/ghibliparkjp/status/1578164582127804417?s=46&t=L1f2NhY4B-C-i3RML7p84A)

確かに鉄の物質がベンチの真ん中に置いてあったりするため、排除アートの様にも見えます。

これを持ってKAMEIさんという方は、「可愛い物の形を被った排除アートが恐ろしい」という発信をしていたわけです。

 

僕自身がこれを排除アートと考えるのか、また排除アートそのものにどう考えるのかというお話は今回はしません(というかそこには興味がない)

僕が気になったのは色々な人の着眼点の方だからです。

というわけで、今回はどのような視点が多かったのかという視点を並べていこうと思います。

 

①これは展示物で学者はなんでも批判や主張と結び付けたがる

まず一つ目のカテゴリはなんでも社会問題と結びつけるなというもの。

確かにジブリパークという商業施設内にあるオブジェには、「横になる人を排除する」という目的は入りません。

となると、大袈裟なのではという主張も分かります。

ただ、これに関してはデザインをする人たちというのは僕たちが思う以上に考えているので、少なからずデザインにより行動を制限したいということはあった様に思います(例えば撮影スポットにすることで、長く座りづらくするとか)

 

②そもそもベンチは座るためのもので、別の行動を前提に考えるのが誤り

これに関しては納得しかねるなあという印象です。

「排除アート」は「特定の利用用途以外を『排除』することが目的」でもあります。

ベンチで寝てほしくないから柵をつける。

地面に寝られない為にトゲトゲのデザインのアートを置く。

こうやって目的以外の使用を防ぐというのもデザインには必要なことなので、目的以外の使用を前提に作るという性善説に基づく物の見方は素敵ですが、やや優しすぎる様に感じます。

 

③あれは排除アートである

これが(閉園時間はあるものの)ジブリパークの無料エリアに設置されたベンチと考えると、排除アートと言えなくもないという意見もチラホラ見かけました。

 

④可愛いデザインを隠れ蓑にした「排除性」が問題だ

これが発信者の方の主張に1番近い様に思います。

特定の行動をするものを排除するための手段として、可愛い物でコーティングされている。

そしてほとんどの人がそこに込められた悪意に気付かぬまま、排除される人に思いも寄せぬまま、排除アートが排除アートとして機能するのが恐ろしいというのがこの主張の趣旨でしょうか。

このオブジェ付きベンチが「弱者の排除」とまで言えるかは確かに言い過ぎな面もありますが、(このベンチはともかく)他のあらゆる排除アートの側面を持つ公共品を、僕たちは可愛い!クール!と言って、裏にある排除の意図を気づかずに大多数が使用しているというのは、少し怖いというのは納得がいきます。

 

⑤排除アートそのものに対する社会福祉という観点からの批判

ジブリパークのベンチからひとつ抽象化して、排除アートそのものに対する問題提起というのもありました。

そもそもそう言ったベンチで夜を過ごさなければならなかった人たちはそれしか行き場が無かったのかも知れず、その居場所を無くしたところで彼ら自身は存在する。

弱者を追い詰める対策はどうなのかというもの。

また、それがオリンピック前後で急激に増えたことに対する疑問の声も見かけました。

 

これに対して攻撃的な批判が多かったのは何故か?

さて、今回僕はジブリパークのベンチが排除アートかどうかというところには触れないし、排除アートに対する自分の考えも書かないと言いました。

僕がこの話題で興味を持ったのはそこではないからです。

むしろ僕が気になったのは「何故この発信にこんなにも攻撃的な反応が多かったのか?」という部分。

 

僕自身、この発信を始めて目にした時、少し「うっ」となるものがありました。

それは①初めにこれがカワイイと感じた上で、②可愛いさに隠れた排除アートであると伝えられることで、自分も知らず知らずのうちに排除アートの加害者に参加させられた感を受けたからです。

公園などの公共物ならともかく、ましてこれは「ジブリ」というthe・娯楽コンテンツです。

そんな娯楽コンテンツを見るときの僕らの思考には癒しや楽しみといった感情が中心でしょう。

そしてそこの新たな告知で出てきたものを見て「いいな!」「行ってみたいな!」と思ったところに、冷や水をかける様に「可愛さの裏に残虐性が」と言われた訳なので、そこには少なからず嫌悪感が生じる。

 

ニュースや勉強会の最中に、問題意識を共有しようと言われるのならともかく、娯楽の時間に「お前は加害者だ」と突きつけられた(ように受け止めかねない)発信ということで、必要以上に攻撃的な反応が多くなったのではないかと思うのです。

そんな観点からも気になったのはジブリパークのベンチのお話。

何年か前に時事ネタはできるだけ扱わないと決めたのですが、この話題に関しては個人的に2012年くらいから地続きで気になる分野でもあったので(この辺はまた今度まとめたいと思います)久しぶりに薄口コラムを備忘録として使ってみました。