新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「思い」がない人間の、正しい思いの伝え方。

僕の本業は塾講師ですが、その傍で寄稿以来を頂いて記事を書いたり、イベントを作ったり、人を巻き込んで企画をたちあげたり、なんだかんだで結構いろいろなクリエイティブ系のことに関わる事があるので、自分の中でそういったアウトプットのチャンネルを用意しているわけです。

 

ちょうど今日の朝、『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』という映画を見ていました。

(「正確には昨日の深夜2時くらいに見はじめて寝落ちした続きを見た」ですが...笑)

この作品は、ストリートアートに魅力され、彼らの活動を追いかけるうちに自身もアーティストとして活動するようになった主人公のドキュメンタリーです。

僕が最も印象に残ったのは、主人公でアーティストのティエリの中心にはクリエイターとしての言語化できない衝動みたいなものが何もないという所でした(あくまで個人の見解です)

 

ティエリは、バンクシー(最近だとコロナで医者を持ち上げる一般人を皮肉った作品が話題になったアーティスト)に誘われてストリートアートを始めます。

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彼はその際に「世の中の全ては洗脳だ」という自分の作品に底通する価値観を明確にうちだすのですが、それはあくまで「アーティストとして活動するにあたって彼が見出したメッセージ」なのです。

僕はここが非常に面白いなと思いました。

『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』他のアーティストたちは、伝えずにはいられないという気持ちがあり、それをクリエイティブという形にし、結果アーティストとして活動をしています。

でもティエリは違う。

彼の衝動は、発表することになって考えだされた、いわば人工的な衝動なわけです。

その後マーケティングの功もあって、ティエリはアーティストとしての個展を成功させ、ストリートアーティストに名を連ねます。

しかし、その場面に挿入される、ティエリが関わってきた(バンクシー含む)アーティストたちの反応はどこか消極的。

僕にはそれが、彼のアーティストとしての「商業的な」成功を、アートとしての成功なのか?という疑問符に映りました。

 

別に僕はそれをもってティエリのようなマーケティング的な成功を収めるアートはけしからんみたいな芸術論を言いたいわけでもなければ、反対にバンクシーをはじめとするストリートアーティストのティエリをどこか受け入れない権威主義的な姿勢を批判したいわけではありません。

ただただ、そういう構図が興味深かったというお話。

 

僕は記事を書いたりイベントを立ち上げたりと、そこそこクリエイティブ系のお仕事のお話を頂き、実際に行うことが多いのですが、そういったものを作るたびに、自分にはクリエイティブの才能がないということを痛感しています。

作り出すものを因数分解してしまえば、どこまでいっても「憧れ」と「収集」と「アレンジ」でしかないのです。

僕が最もワクワクする(し、実際に得意だと思っている)のは、他者(人でも物でも)の良い部分を引き出すというお仕事です。

例えば、先方から「こんな思いを形にしたい」といわれたときにそれを最も伝わる形に仕上げて届けるだとか、凄いけど広まっていないコンテンツをどうしたらもっと認知してもらえるだろうと考えるような場合。

熱量をもっと大きくするだとか、熱を波及させるという部分は大好きなのですが、その「火種」は自分にはないわけです。

それを自覚しているからこそ、自分が中心となって何かをゼロから生み出す場合は、「憧れ」て「収集」してきたものの中から最適なものを組み合わせて「アレンジ」するという手法でしかものが作れません。

別にそれが嫌というわけですし、実際にそういう需要はある(だからこそ塾講師の僕なんかにそういう依頼がくる)と思うので満足していますが、「火種のなさ」はそういう仕事をするたびに感じます。

 

僕が『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』を見て、ティエリに共感したのはこういう部分です。

おそらく、ティエリも人の良さに気づくとか、それを引き出すみたいな部分が得意な人であって、「自分の根源的な衝動を伝えたい」というタイプではないと思うのです。

(この辺、『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』をみて僕の話に共感していただける人がいたらぜひお話をしてみたいです)

バンクシーは、ティエリのそういった「何もなさ」に気づいている。(もちろんそれをバカにしているわけではありませし、むしろ作品全体を通して伝わるのはそうした「何もない人」へのリスペクトです。)

ティエリは確かに根源的に「伝えたいメッセージ」は無いわけですが、そうした人々へのリスペクトやそれを追いかけて形にするという熱量はあります。

そして「熱量」そのものは、自己に根源的な所在を求めずとも価値を生み出すし人を惹きつける。

この映画を見てなんとなく、そんなことを感じました。

 

自分の根源的な欲求はないということを自覚しているしている人は少なくないように思います。

でもそれは、根源的に無気力という話ではなく、積極的に自分が主人公になろうとしないだけ。

こういうタイプの人って少なくないと思うのです。(少なくとも僕はそう)

「自分が主人公」になるのではなく、「自分のヒーローを引き立てる監督」になりたい。

それだってとても大きなエネルギーだと思うし、そういう人も大きな価値を生み出すと思っています。

ヒーローが求めらる昨今ですが、そのヒーローが人々に憧れるためには、その活躍を記録して伝える「語り手」が必要です。

だとしたら、「語り手」の側にだって、とても重要な使命があるように思うのです。