新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



本当に希少なものはお金では手に入らない

先日、僕がよく行く日本酒バーで、「こんなのお店の商品に並べられないから」と言って、あるお酒を飲ませてもらいました。

それは蔵元さんが江戸時代の製法を完全に再現して日本酒を作ってみたらどうなるのだろうと実感して作られたお酒です。

そもそも商品として作られたものではないので、本数も限られ、非常に貴重なものなので、まさか巡り会えるとは思ってもみませんでした。

僕が偶然にもそれを飲むことができたのは、「お金を出した」からではなく、「マスターと気が合った」から。

 

大学時代に読んだ本で、岡田斗司夫さんが「1番上質の製品は市場には出てこない」といっていたことを最近よく思い出します。

僕たちは普段、お金を払って商品を売買しているため、ついついお金で何でも買えると思ってしまうのですが、実はお金で買えるのは、そもそも市場に出ているものだけなんですよね。

市場に出ているものしかお金で買うことはできず、本当に貴重なものは実は「市場以外」のところでやりとりされている。

最近こんな風に思うようになりました。

 

誰が使っても等しい価値を有するというのがお金の最大の強みですが、裏を返せばそれで買えるものは、お金の額と同等の範囲でしか価値を見出してもらえないともいえます。

僕は誰が使っても同じ価値のお金で成り立つ貨幣経済と相性のよい商品は、どれを選んでも同じ価値を持っている大量生産品に最適化された流通手段であると思っています。

本当に希少性の高いものに関しては、お金という尺度で取引をするよりも、他の経路で人に届けた方が、より効用が最大化するような気がするのです。

 

例えば、仮に1トンの茶葉から100グラムしか取れない貴重なお茶があったとして、それをどうするかということを考えてみます。

普通の茶葉と比較して千倍の価値があるからといって、千倍の値段をつけて売っても、買い手はほとんどいないでしょう。

100gで1000円の茶葉だとして、千倍の値段で売ったら100万円。

完全に覚せい剤の単位です(笑)

また仮に買い手がいたとしても、お金を通して通常の千倍の値段で売った場合、その人との繋がりはそこで終了です。

一方で、非常に貴重だけれど市場に出すには量が少なすぎるということで、普段から自分たちの商品を贔屓にしてくれている常連さんにこれをプレゼントしたら、恐らくお金のやりとり以上に相手は価値を見出してくれるかもしれません。

このくらいの希少性のものに関しては、市場に流すよりも、親しい人にプレゼントするという形の方が有効利用ができる可能性があるわけです。

 

希少なものが市場を介さずにやりとりされるというのは今も昔も変わらずに行われていて、SNSが普及した社会では、そのやりとりがますます行いやすくなっていくように思います。

SNSの普及によって、これまではコンマ数パーセントしか行われていなかった市場「外」のやり取りが、もう少し増えるのではないかというのが僕の予想です。

 

お金さえ払えば最上級の物が手に入るという幻想が消え、お金を払って手に入れられるものは「市場に出回る中での最上位」であって、さらに希少性の高いものはお金だけでは手に入らないということが可視化されていくのがここからの社会であるような気がします。

そうした中で役に立つのはお金以外の評価を貯めること。

ウェブ上のやりとりでも直接的なコミュニケーションでもいいですが、お金のやりとり以外のところで価値を貯めることが、今後の有効手段であるように思うのです。

 

アイキャッチ岡田斗司夫さんの評価経済社会

 

評価経済社会・電子版プラス

評価経済社会・電子版プラス

 

 

 

モチベーションの4分類

最近いろいろな人と話をする機会が多いのですが、話せば話すほど、その人の行動の原動力になっているものは異なるのだなあということを強く感じます。

行動の基準となっている欲求は大きく分けると以下の4パターン

①起業家メンタル:目の前の相手に競り勝つことが原動力になる

②アイドル:周囲の人に認められることが原動力になる

③マネージャーメンタル:物事を思い通りに動かすことが原動力になる

④思想家メンタル:思ったとおりに物事が動くことが原動力になる

まず、①の企業家メンタルというのは比較的理解しやすいと思います。

正面から戦って勝つという「少年ジャンプ」的な思想です。

②の「周囲の人に認められることが原動力になる」アイドルメンタルも直感的に分かりやすい。

一つでも多く、周りの人の期待にこたえることが、ここに属する人にとってのやりがいになります。

③と④は少し分かりづらいかもしれません。

マネージャーメンタルの人は、自分が管理監督したことにより、物事が自分の思い描いた方向に進むことを好みます。

「こうあるべき」と想像して、それに基づき着実に物事が展開していくことそれ自体にモチベーションを感じる人のことをさします。

最後の思想家メンタルも③のマネージャーメンタルと同じく、自分が思ったことが実現することを好みますが、最大の違いは、そこに主語としても自分を想定していないことです。

あくまで、自分が手を加えない状態で、どのように自体が推移していくのかそれ自体に興味がある。

自分にとって有利か不利かではなく、その条件から導き出した結論の通りに物事が運ぶことに面白さを感じるタイプです。

 

このモチベーションの起源の分類は、どれが優れているというものはありません。

単に、それぞれの人がやる気を感じやすい部分に違いがあるというだけの話。

これは僕の肌感覚ですが、それぞれの特性を持っている人の分布は一様であるように思います。

一方、教育現場で提供されるモチベーションの殆どは①か②。

③と④(特に④の側)を満たすシステムは殆ど存在していないのです。

だから③と④が得意な人は、自分のモチベーションのきっかけをしらないという場合が多い。

(そして、周りからはやる気のないようにみえてしまいます)

もちろん、モチベーションの種類云々の前に、そもそもエネルギー量が少ないという人も多いかも知れませんが、少なくとも、提供されるモチベーションの喚起材料の不足によるモチベーション不足もあるように思います。

自分のモチベーションの所在がどこにあるのか、そのことをしっかり理解することで、本来のポテンシャルをしっかりと発揮できるようになるわけです。

そのために必要なモチベーションの分類。

まだまだ荒削りなので、今後、もう少し体系的にまとめていきたいと思います。 

分からない人の9割がそもそも前提を理解していない

塾のコラムのために書いた文章ですが、やや厳しい言い方になってしまったので、自分のブログのエントリにしました。

 

数学の質問を受けていると、そもそも前提を理解できているのかな?と思うときがあります。

今回のテスト範囲で特にそれを感じるのが、高校1年生の「絶対値」の範囲です。

たとえば[|x+1|<4]とか[|x+2|>5]といった問題です。

僕はこのタイプの問題を持って来られたとき、必ず「絶対値」という言葉と「大なり/小なり」という言葉を使わずにこの式の意味を説明してくれといいます。

で、これがスムーズに説明できる人はちょっとした思い違いをしているだけ。

一方で、全く説明ができない場合は、この問題が分からないのではなく、絶対値が理解できていないことに原因がある事を伝えます。

そもそも絶対値とは何かといえば、直線上のある点から原点までの距離のこと。

つまり、上の[|x+1|<4]という問題を言葉で表すと、「(x+1)という値が、原点からの距離4以上離れていない範囲」ということになるのです。

原点からの距離が4以上離れていないとは即ち、-4から4までの間に収まるということです。

だから[|x+1|<4]は[-4<x+1<4]となるのです。

もちろん式を見た瞬間に、原点から4だけ離れた2点-4と4が浮かび、それよりも距離が近い範囲を頭の中で捉えられている人もいるかもしれません。

(それが無意識にできている人は恐らく理系が得意なはず!)

僕の経験則ですが、数学が得意な人はどんな内容に関わらず、言葉で理解するか図を頭に思い描くかのいずれかの方法で問題を理解しているように思います。

そして、言語で理解している人を文型脳、図や記号で理解している人のことを理系脳と呼ぶのだと思っています。

決して「数学ができる」から理系脳、「数学ができない」から文系脳ではないのです。

 

僕は文系理系の判別に関して、「数学ができるから理系、数学ができないから文系」という判断基準に、ずっと疑問を持っていました。

数学ができるか否かは、理系脳か文系脳かではなく、論理的思考ができるか否かの問題だと思っているからです。

論理的思考は文系脳、理系脳とはそもそも違う価値尺度です。

横軸に言語で物事を考える文系脳と図や記号で物事を考える理系脳があり、縦軸には論理的思考力の有無があるというのが僕の文系理系特性に関する考え方です。

これに従えば、①論理的な理系脳、②論理的な文系脳、③非論理的な文系脳、④非論理的な理系脳がいて、数学が得意なのは①か②の人だと思うのです。

ここを理解しないで、本当は理系脳(で論理的思考力がない)のが原因で数学が苦手なのに、それを「数学ができないから文系だ」なんて進路選択をすると、大きなミスになります。

そもそも論理的思考力がないのが原因で結果が出ていないのに、それを「自分には理系が向いていないのだ」なんて思って文系にいくと、今度は論理的思考力ばかりか、適正までない場所に飛び込むことになってしまうからです。

これはあくまで個人的な感想なのですが、私立文系のコースにいった人の中には、案外このパターンが多いように思います。

現象と原因の考察が一致していない。

まず自分が文系脳か理系脳か(言語で物事を考えるのが得意なのか図や記号で物事を考えるのが得意なのか)を知っておき、その上で自分の論理的思考力がどの程度のものかを知り、伸ばそうと努力することが大切であるように思います。

 

細かなテクニックや戦術よりも基礎練が圧倒的に大切というお話

僕は真剣に?ブログを書き始めて、かれこれ6年くらいになります。

「真剣に?」と書いたのはそれまでもちょこちょこ書いてはいたからです。

高校時代にはプロフのやつなものが流行り日記を書き、mixiが流行っている時はそこでふざけた文を投下してと、(振り返ってみれば)なんだかんだで文章を書くことはずっと続けていた気がします。

もう覚えてすらいないけれど、確か中学の時にライブドアブログを書いていたような(笑)

ただ、それまでに書いていたのは特に理由があったわけではなく、ただ面白そうだから。

しっかりと1つの媒体で定期的に書いて積み上げていこうと考えたのは、就職活動を控える大学3年生の12月でした。

 

もちろん月によりその分量はまちまちですが、僕は21歳の時くらいからブログを書き続けています。

そんな事を続けてきて思うのが、やっぱりテクニックよりも戦術よりも泥臭い基礎練が1番重要なんだなということでした。

僕がブログを書こうと思ったきっかけは、就活の時に大学のOB相談会に来てくれた方でした。

彼が就活についてブログを書いているというのを聞いて、僕はそれをみたいという以上に、自分自身もそういったノウハウをまとめたブログを書きたいと思ってしまったのです(笑)

で、家に帰って早速エントリーシートではなくブログのネタを書き始め、受験勉強について独りよがりな文章をアップしました。

その時はまだ書くための材料集めも構成も考えておらず、当然うまくいきませんでした。

ひと記事300字くらいで、内容も訳のわからないものだったわけですから当たり前です。

だいたいひと月くらいで書くことがなくリタイア。

 

ただ、幸いなことにひと月くらい更新を続けていたおかげで「書く」という習慣はついていました。

そのため、一旦受験ブログみたいな思いつきから離れて、好きな事を書くようになりました。

それが例によってありがちな自分の思う事を好き放題に書く随筆です(笑)

当時の自分なりに面白い視点だなと(自分が勝手に)思ったことに関して好きに書いていました。

流石にこの時期のブログは恥ずかしすぎるので、とっくに削除済み...

格好つけて「だ。」「である。」調で書いていたのがいっそう恥ずかしい、、、

取り敢えず100本と決めて書いていたのですが、なんだかんだで、この独りよがりの記事を書いていたことには一定の効果がありました。

初めは300字くらいを書くのがやっとだったのが、普通に書いたら800字〜1000字くらいになるようになっていたのです。

いうまでもないことですが、300字なんて、そもそも記事としてカウントすらされません(笑)

そんな文字数で何を伝えられるのというお話。

最低でも1000字くらいあって初めて、文章として成立するように思います。

 

そんなこんなでブログを続けていて、好き放題書くエントリ(このころに記事ではなくエントリと呼ぶようになりました)も100本を超えたあたりで、内容についてあまりに中身がないものであるということに気がつきました。

当時の僕は岡田斗司夫さんにハマっていて、岡田斗司夫さんの書いたものや動画を見るたびに、なんでこんなに面白いんだろうと考えていました。

そんな時にふと気付いたのが岡田斗司夫さん(もちろんそれ以外の僕が面白いと思うあらゆる人の話や文章にはその人ならではの思考やアイデアが入っているということでした。

今にしてみれば当たり前なのですが、当時の僕にとっては、非常に重要な気づきでした。

それ以来、必死にノートにアイデアを書き溜めるようになりました。

(それも岡田斗司夫さんのスマートノートという本に影響されたから)

で、自分なりのロジックや分類、フローチャートみたいなアイデアを大量につくりあげて、それを紹介しようというコンセプトで書き始めたのが、今の僕のブログだったりします。

その後も、単に分類やロジックを書くだけではアクセスは伸びず、その理論をどういった社会現象に当てはまるのが重要なのかとか、人々がどういうことに関心をもっていて、何を書けばアクセスが集まるのかとかいう知識は否応なしに溜まっていきました。

冒頭でも書いた通り、あくまでこのブログはアクセスを狙ったものではないので(そういうのは寄稿依頼のある文章などでやってます)まったくアクセス面では成果が上がられていないのですが、文章を書くという面においては、かなりの経験値がつめたように思います。

テーマさえ決まれば、少なくとも今は数千文字で自分らしい「思考」を提示した文章なら抵抗なく書けるくらいには。

こういうのはテクニックでもなんでもなく、ただ量をこなすことによってのみ得られる能力であるのうに思います。

根性論の嫌いな僕が、一方で最低限の努力は必要と思うのには、自分の体験があるからかもしれません。

 

っと、酔って書いたので意味のわからないものになってしまった(笑)

恋愛の仕組みから考える音楽が売れる方法と、それに基づくマーケティング事例集

何度も顔を合わせているうちに付き合うことになった。

大して好みでもなかったのに会っているうちに好きにお互いが好きになるという経験は、結構多くの人がしているのではないでしょうか?

実際のところ、一目ぼれのように会った瞬間に好きになるというよりも、何度も会っているうちに好きになるという方が圧倒的に多いように思います。

で、これは音楽に関しても同じ事が言えると思うのです。

聞いた瞬間にビビッときてその曲が好きになるという場合もあるにはありますが、実は何度も聞いているうちに好きになるというパターンが多いのではないかというのが僕の持論。

好きなアーティストがいて、その人が出す新曲をいいなと思うのは、そのアーティストが出す曲が毎回必ず素晴らしいからではなく、好きなアーティストが出す曲はとりあえず何度も聞くために、結果として好きになるから。

反対に、アイドルファンの人が新曲を「今回の曲はいい!」と言うのも、別に握手権目当てに買ったといわれるのが嫌でそう言っているのではなく、本当に何度も聞いているうちに曲のよさが分かってくるのだと思います。

 

これは完全に僕の感覚ですが、1回聞いただけで「この曲は素晴らしい」と思えるようなものは、恐らく100曲に1曲くらいだと思います。

まして、15秒くらいのCMや偶然耳にしたくらいで凄いと思う曲となれば数百曲に1曲レベル。

殆どの曲は自分にとって良くも悪くもなく、それが好きと思うのは、どれだけその曲を耳にしたかという聴いた回数に影響される気がします。

 

これを踏まえて、固定ファンがいないアーティストが新曲を多くの人に届けようと思うと、重要なのはいかに多くの回数を聞いてもらうかということになります。

Youtubeが無かった時代やスマホが無かった時代は、音楽と出会う窓口はテレビくらいしかありませんでした。

だから、人々が一定期間に聞く曲の数は限られ、そのため多くの音楽番組に登場していることである程度印象に残すことができたわけです。

しかし今はYoutubeには大量の音楽がおかれ、スマホでいつでも音楽を聞くことができます。

受動的に何度も音楽を聞かせて、その曲が好きになっているという状態は作り辛くなっているのです。

テクノロジーの発達によって環境が変化してしまった以上、音楽を提供する側が戦略的に何度も音楽が聴かれる環境を作らなければなりません。

そして、それに気付いているアーティストは、すでにそれを実践している(っと僕は勝手に考えています)。

 

「何度も聞かせる工夫」を導入している例としてぼくが興味を持っている曲をいくつか例示します。

一つ目はゴールデン・ボンバーぼ「女々しくて」です。

恐らくあのバンドは曲を売ることを目的に戦略をとっているわけではなく、ライブへの動員を考えているのだと思いますが、その戦略が結果的に音楽を売ることに役立っていると思うのです。

そのやり方と言うのが、彼らのテレビで行う「また見たくなるパフォーマンス」にあります。

ゴールデン・ボンバーは曲以上に、演奏中の演出が魅力です。

同じ曲でも、出演者や番組によって間奏のネタ(演出)を変えます。

そのため、一度でも面白いなと思った人がたら、Youtubeなどで別の番組を調べていろいろな演出を見ているうちに、自然と曲自体が好きになってしまう効果があるのです。

 

次に面白いと思ったのは、星野源の「恋」です。

ガッキーが主演の「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングテーマで起用されたこの曲は、「恋ダンス」とともに話題になりました。

恋ダンス」は見ていて楽しいだけでなく、多くの人が踊ろうとし、その動画を見ようとアクセスします。

そうすると必然的に曲を聞く回数が増えて、好きになってしまう。

また、見ていて飽きないダンスなので、ネットで恋ダンスを調べるほどの熱中度合いではなくとも、エンディングでは毎回「恋」が流れ、それを「ながら聞き」していれば自ずと耳に残ります。

こういう意味で「恋」も自然と好きにさせる仕掛けが働いた曲であるといえるでしょう。

 

僕が直近で一番面白いと思ったのは泣きWebというページで紹介された(http://www.nakiweb.com/)安田レイさんの「きみのうた」です。

これはページ下部についている再生ボタンをクリックし音楽を流すとウェブページが動き出し、あらゆる箇所に仕込まれたファクターが涙を流し始めます。

そして、記事全体に曲の歌詞がちりばめられている。

この仕掛けがあまりに細かく作られているため、思わず何度も見返してしまいます。

そして、それらの仕掛けは曲と同時に展開するため、ついつい何度も音楽を聴いてしまう。

ウェブの仕掛けを追いかけて再生しているうちに、気がついたら曲自体が好きになってしまう。

 

こうした例はまだまだ他にも多く存在すると思うのですが、楽曲を売るという上で、これから不可欠になるやり方であるように思います。

回数をみるうちに好きになっている。

そういう売り出し方をしているアーティストの事例を今後も集めて、パターン集みたいなものが作りたいなあと思っています。

 

アイキャッチは安田レイさんの仕掛け人、元面白法人カヤックの佐藤ねじさんのこの本

 

超ノート術 成果を10倍にするメモの書き方

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「アツい」人がエネルギー量の高い人ではない

僕は熱量が大きな人が大好きなのですが、一方でアツい人が苦手だったりします。

で、友達にこの事を言うと「矛盾してへん?」と言われてしまうので、今後知り合いに説明するためにも、僕にとっての「熱量の大きな人」の定義をまとめてみようと思います。

僕にとって、熱量の多い人とアツい人は明確に違います。

熱量の多い人=アツい人というのではなく、熱量の多い少ないという評価軸とアツい/冷静という評価軸の2つが組み合わさった平面のイメージです。

したがって僕は人と接するとき、その人のことを以下の4分類で考えます。

①アツい性格で熱量が多い人

②クールな性格で熱量が多い人

③アツい性格で熱量が低い人

④クールな性格で熱量が低い人

 

僕が好きなのは①か②のパターンで、その人の性格的な「アツさ」は関係ありません。

っというよりむしろ「アツい」人は苦手なタイプ(笑)

僕は熱量と性格は全く違う評価軸のものだと思うのですが、多くの場合これが同一の尺度で測られている気がするんですよね。

それ自体は別に構わないと思うのですが、採用や人事評価の場、或いは一緒に何かを運営するときなどは本来エネルギー量の多い人が求められている分野において、この性格とエネルギー量がイコールで結びついた形で評価されるのはどうなのだろうと思います。

こういった場面でエネルギー量多い人がアツい人と思われるというのは、評価において問題ありません。

逆にエネルギー量が低い人がクールな性格に見られ、それが判断として低い評価となるのも構わない。

しかし、問題はこの逆の評価が生じてしまう場合です。

例えば、性格が熱量を表すものだと考えている人がいたとします。

その人からすれば、アツい=熱量が高い、アツくない=熱量が高くないという評価になってしまうのです。

この考え方だと、そもそもアツいだけで熱量が低い人という可能性にそもそも視野が向かないため、結果として結果といて全く熱量の高くない人を集めてしまいがちです。

こうした可能性があるので、僕は性格とエネルギー量は分けて考えるべきだとおもうのでうす。

 

では、どうやったらエネルギー量の多い・少ないを確認することができるのでしょうか。

僕は昔から、その人のエネルギー量の多きは、性格的なアツさとまるで関係ないと思っています。

エネルギー量はただ、①どこまで気付いているか、②どこまで考えているか、③どこまで行動しているかの3点のみで測られる。

これが僕の持論です。

これらの指標には性格的な「アツさ」は関係ありません。

 

エネルギー量の低い人がエネルギー量の高くなりたくて自己啓発本等をみても熱量は上がりません。

自己啓発本で手に入るのは「やる気」であり、熱量を構成する要因では無いからです。

熱量を上げるには①特定の分野で気付く感度を上げる、②その分野に関して考え抜く、③特定の分野に関して行動する、の3要素に尽きます。

熱量と性格をリンクさせないように見ることは、自分自身の熱量を上げたいと思うときにも役に立つ考え方であるように思います。

 

アイキャッチはアツい上にしっかりエネルギー量も高い武井壮「勝つ人」

 

勝つ人 13人のアスリートたち (Sports graphic Number books)
 

 

 

「就活生、スーツに着られている」問題と就活生コスプレ仮説

4月に急遽後輩を集めて飲み会を開いたときに、就活中の子たちがたくさんいて、そのときに「就活生、スーツに着られてるくない?」という話になりました。

街を歩いているときや駅のホームで電車を待っているときに、同じスーツを着ているはずなのに、なんとなくパッと見で就活生だと分かるんですよね。

このエントリを書いている平日昼間のカフェでも、「あっ、この人就活生だ」と明らかに分かる人がチラホラと入ってきます(笑)

で、「就活生スーツに着られている」問題について数週間考えている中で、一つの仮説にたどり着きました。

それが就活生コスプレ仮説です。

 

僕は基本的にスーツや制服というのは「である」ことを証明するためのツールであると考えています。

制服を着ていれば高校生、スーツを着ていたら社会人みたいに、自分が今何をしているかを周囲に認知してもらうための道具が、スーツなり制服なりだと思うのです。

社会人がスーツを着ていたり、学生が制服を着ていたりしても全く違和感が湧かないのは、彼らが服装で示される属性をしているからです。

仕事をしている人がスーツを着ている、学生をしている人が制服を着ている

だから、それらを着ている姿を見ても違和感が無いのです。

 

僕が就活生のスーツに感じる違和感が、「である」ことを示す服装と実際にしていることの不一致によるものであるとしたら、恐らくテレビでタレントが着る学ランやAVに出ている女の子の着るセーラー服と構造的には同じものであるはずです(笑)

しかし、僕はそういったものにはあまり違和感を覚えないんですよね。

だからこそ、なぜ就活生のスーツだけが不自然かと納得できる理由が見つけられずにいたのですが、それも就活生コスプレ仮説である程度解消されました。

テレビタレントでもAV女優でも、服装によって「である」ことを示す前に、その人が何をしているのかというキャラがはっきりしています。

だから、制服やスーツに「着られている」という印象は受けないのです。

スーツを着ているサラリーマンや制服を着ている学生は、ちょうどキャラクターと服装が示す印象が同じベクトルを向いている。

だから違和感が無いのです。

それに対して就活生の場合、まず自分のキャラクターありきではなく(それどころか押し殺そうとする勢いで)、スーツを着て就活生「である」ことを演じようとする。

コスプレイヤーの人から「キャラクターをどう演じるか」という話を聞いたのですが、まさにそれと同じ印象でした。

コスプレイヤーの場合は、それを見る側の人間も、キャラになりきった演者としてのその人を求めています。

だから、なりきればなりきるほどよい。

これはテレビドラマに出ている俳優も同じです。

彼らは消費者から「演じている役」を求められているから違和感がない。

むしろ役者やコスプレイヤーが「自分」を出したら不自然になってしまいます。

彼らはある意味で役を引き立てる「裏方」に回って初めて役割を全うできるのです。

しかし就活生は違います。

就活生が消費者(この場合は面接官)に求められているのはあくまでその人がどんな人であるのかという部分です。

にも関わらず、スーツを着ることで就活生(これが「社会人」でないというところもポイント!)を演じようとしてしまう。

就活生だからピンと気を張っていなければならない、就活生だからできる人っぽい表情をしなければならない。

そんなスーツを着ることにより「演じる就活生」になってしまうからこそ、パッと見で就活生だと分かる空気になってしまうのだと思うのです。

 

こうしたコスプレ状態にならないためにはどうしたらいいのか?

就活生の方々がスーツを着た瞬間に無意識に「就活生」を演じてしまっているのなら、予め自分らしさを意識しておけばこの問題は解決します。

自分は普段どんな人なのかという「自分らしさ」を一度言語化してみる(これは就活における自己分析のようなものではありません)。

そして、「就活生らしさ」ではなく、「自分らしさ」を演じればいいわけです。

自分らしさを演じるなんていうと矛盾があるように思いますが、普段の自分を自覚している人は案外多くありません。

だからこそ、それを知っているだけで、スーツをきると無意識に「就活生」らしさを演じてしまうという状態をさけられるようになると思うのです。

殆どの人が「就活生」らしさを演じる中で1人だけ「自分らしさ」を演じることが出来れば無双状態です。

だって、面接官は「自分らしさ」を求めているのだから。

 

っというのが、僕の「就活生スーツに着られている」問題に対する答え。

 

 アイキャッチはお世話になっている(入り浸っている)お店の大将が書いた就活本

内定力

内定力