新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



芸術を見る理由と相対的に「科学」を見るということ

「芸術って見ているヤツが自分に酔っているだけでしょ?」
僕の大好きな友達がよく言っていることです。
もちろん僕が芸術を好きなことを十分に知った上での発言(笑)
別にケンカを売られたというわけではないですし、実際に僕自身そういう人も多いだろうなと思うのでこの意見についてどう思うということはないのですが、「芸術の意味」について考えてみることには価値があるように思います。
僕は芸術に関して、単なる趣味ではなく社会に価値を生み出すものであると考えています。
これは他のエントリでいつか書こうと思っている(もうどこかで書いているかも…)のですが、僕は現在は偶然近代社会の発展に適した「科学」の説明が馴染んでいるために科学が過度に重宝されていると考えています。
開国以前の日本を振り返れば、戦国時代ならば武力を持っていることが重宝されていたし、農業革命が起こった卑弥呼がいた時代とかならば来年度の食料を安定して手に入れるために天候をコントロールできる呪術的な力が重宝されていました。
こんな風に、その時代を構成する要素に適した「技術」がその時代には重宝され、産業革命以後の世界に適していたのが「科学技術」であったと思うのです。


社会を説明する方法にはいろいろあって、現状最も上手く世の中を説明していて、なおかつ現在の社会に馴染んだのが「科学」であるというというのが僕の考え方です。
世界を説明することに挑戦した結果最も上手くそれができたものが科学であるとしたら、未完成の他の説明、あるいはたまたま今の社会のルールにおいては脚光を浴びなかったロジックも多くあるはず。
それならば「科学」という説明の光にかすんだ別のさまざまな「説明」を知りたいというのが僕の個人的な興味のあるところだったりします。
こうした観点で見たときに、「科学」以外の様々な世界の説明の仕方の可能性が示されているのが芸術だと思うのです。
遺跡などの残った断片から文明を明らかにしていくのが考古学であるとしたら、僕にとって時代に埋もれてしまった世の中の説明のしかたを絵画や音楽から明らかにするのが芸術を見る理由だったりします。

音楽や絵画の世界では、今僕たちが生きている世界ほど「科学」が覇権を持っていません。
そのため、他の「論理」(この言葉自体が科学にねざしているのでここで使うのが適切かはわかりませんが)が数多く残っています。
例えば音楽の世界における科学はバッハが構築した平均律
(ひじょーにざっくりいえば)この中で音は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」名づけられ、これに「ド・レ・ミ」「ファ・ソ・ラ・シ」の間の音を加えて作られた12音を用いるのが現在の西洋音楽の基本です。
ただ、音が波であることを考えると当然この「区分」の間にも音は存在するんですよね。
その辺が民族音楽には残っていて、彼らの音楽は12音階とは違うロジックで確かに存在しています。
例えばアラビアの音楽なんかがまさにそう。
もちろんアラビアの音楽を12音階に当てはめてオリエンタルスケール(C D Eb F# G Ab B)なんて呼ばれ方もしますが、これは平均律でアラビア音楽を説明したものであって、微分音(#や♭では表せない区別)を切り捨てたとりあえずの「説明」です。
このように、一見正しい説明でも、特定のロジックで説明するために細部の情報を切り捨てられている場合があります。
これと同じ事が「科学」と実社会の関係においても存在すると思うのです。

絵画の世界において「科学」に相当するものを考えたら、それはレオナルド・ダ・ヴィンチが作った「透視遠近法」が該当します。
僕たちの目には近くにあるものほど大きく見え、遠くにあるものは小さく見えるという遠近法。
それに基づいて絵を描くときに、画面上の一点から放射状の線に沿って描くと「正しく」見える。
僕たちはこの遠近法を「正しい」と思っています。
でも、例えば太陽が空にある解きと夕方みると大きさが違うこともそうですが、必ずしも近いものが大きく見え、遠いものが小さく見えるとは限らないんですよね。
たとえば日本画を見ると、極めて平面に見えますし、エジプトの壁画をみると手と顔は横を向いているのに体は正面みたいなちぐはぐな人体が描かれています。
透視遠近法的な空間認識をする僕たちにとってはこうした絵は世界を正確に描写できていない「拙い絵」に見えてしまいますが、もしかしたら、それを描いた人たちにとっては実際にそこに描かれているように世界は見えていたし、そういう空間認識があったのかもしれません。
あるいは透視遠近法的な見方が根付いた社会を生きながら別の見方の可能性を模索したのがセザンヌのリンゴの絵やサントヴィクトワール山の絵の描き方やピカソやジョルジュブラックのキュービズムの絵かもしれません。
昔東大で出題された英文に、キュービズムが世界を正確に描いていないという批判に対して「君は『僕の絵のように正確に描いたらどうだ』と僕に言うが、君の奥さんはそんな小さなサイズでぺらっぺらなのかい?」と述べたピカソのエピソードが載っていたのですが、まさに僕たちが「正確」と思っている見え方は、偶然最も支持されてきた「見方」の一つかもしれないんですよね。

或いは経済学では現在新古典派の説明が主流となっていますが、世界を自分のロジックで説明しようとしたマルクス経済学みたいなものだってあります。
僕は現時点において「科学」が最も正確に世界を表現しているということに反論がなければそれよりも適切な説明が生まれてくるとも思っていません。
ただ、適応する範囲をごくごく絞った場合においては科学よりも正確に世の中を正確に説明しうるものはあると思うのです。
そして、現在の社会は産業革命以降の平準化・マス化の動きから細分化に向かっている。
その中では科学的な説明や合理的な思考ではない、全く違うアプローチの思考が役に立つ素地があるように思います。
芸術に触れると、こうした「他の世界の説明する可能性」に対する感度が開かれる。
これが僕の考える芸術を「学ぶ」意味です。
もちろん僕は科学的見方も論理的思考もむちゃくちゃ利用していますが、それとは別に全く違う「方法論」の可能性にも目を向けておきたい。
芸術に触れるのは、そちらの可能性に手を触れる行為だと思い、だからこそ安易に「意味のないもの」と切り捨ててしまうのは勿体無いのかなと思ったりします。
というのが、僕の「芸術を見てどうするの?」に対する回答です(笑)

 

アイキャッチは僕が一番共感する思考法をしておられる養老先生の本。

 

サービスとしての個別指導の抱える問題点をサプライサイドとデマンドサイドから考える

前回の続きです。

ここ最近、特に個別指導の戦略について色々考えています。

大量生産大量消費からニーズの細分化に向かってきた社会の流れに違わず、教育もニーズが細分化されつつあります。

特に僕の住む京都市には全国の市町村で7番目に多い53の高校があり、日本の中でもかなり教育の細分化が進んでいる地域といえます。

 

子供たちの学びの中心である学校教育が細分化されつつあるということは、当然塾業界にもその影響がきます。

何の雑誌か忘れましたが、教育についての特集記事を読んだ時、個別指導の需要が急速に高まっているということが書かれていました。

学校教育の細分化されていく現状を見れば、納得の結果です。

 

一方で、サービスを提供する側として個別指導という「商品」を見たとき、コスト面からもサービス面からも、まだまだ洗練されたサービスに落とし込めてはいない商材であると感ぜずにはいられません。

ここ最近、色々な塾のお話を聞いているのですが、やはりどの塾をとってみても、そもそもサービスの明確な定義やシステム化ができておらず、問題を抱えています。

市場のニーズに対して、提供する側のサービスの成熟が追いついていないというのが、あらゆる塾の本音だと思います。

 

個別指導というサービスを考えるとき、コスト面とサービス面のどちらで話を進めていくのかで全く議論が分かれる所だと思いますが、とりあえず僕はサービス面から何が必要かを考えて、それをコスト面の制約のなかで実現するというのが現実解であると考えています。

さらにサービスの側から個別指導をみたとき、サプライ側とデマンド側から考えることができます。

後者は比較的どの塾でも考えられています。

それに比べて手薄になっているのが前者の視点。

そもそも「自分たちはどのようなサービスを提供しているのか」という視点が決定的に欠けているように思うのです。

 

僕は個別指導の授業スタイルを考える上で、横軸に積極的介入と消極的介入を、縦軸にインプット重視かアウトプット重視かの基準を置いた次の図を考えています。

積極的介入/消極的介入というのは、どの程度子供たちを引っ張っていくかということ。

積極的介入は勉強の仕方や計画をこちらが提案して引っ張っていくタイプなのに対し、消極的介入はあくまで子供たちの勉強の補完をするイメージです。

ここに優劣はなく、どちらをとるのかは完全にニーズの問題です。

インプット重視/アウトプット重視の区分は書いた通りで、基礎が十分に定着していないからゼロから知識を教えて欲しいというニーズに応えるのがインプット型、基礎はできているから演出でアシストが欲しいというながアウトプット型です。

僕はこの軸で分けた4つの指導スタイルを①ティーチャー(積極的介入×アウトプット重視、②インストラクター(積極的介入×インプット)、③コンサルタント(消極的介入×インプット)、④チューター(消極的介入×アウトプット)と呼ぶことにしています。

当然①〜④のいずれにもニーズはあるので、そこにサービスとしての優劣はありません。

一方でサプライサイドに立ってみると、どうしても提供するサービスは①と④に偏ってしまいます。

どうしても1人ないし2、3人の生徒に対して1人の講師が必要な個別指導では、コストの観点からアルバイトに頼らざるを追えません。

そうするとどうしても提供できるサービスは偏りが生じてしまいます。

僕の肌感覚では、上の4区分に対するニーズの比率が①:②:③:④=25:25:25:25なのに対して、現在多くの塾で提供されている個別指導というサービスは①:②:③:④=35:5:20:40くらいな気がします。

で、サービス利用者からすれば②や③を求めているのにいざ入塾すると①や④のサービスが無理やり充てがわれミスマッチが起こり、一方でサービス提供者側の塾を見てみると確保した人材の育成やらホスピタリティやらで、ニーズが50%の所に供給が75%という明らかに供給過多な③と④というサービス提供という枠組みの中で食い合っている。

現在の個別指導はこの辺に本質的な問題があるように思うのです。

 

明らかにニーズの高まっている個別指導に対して提供者の側が最適解を見出せていないというのは大きなチャンスだと思います。

一方でそうした状態にも関わらず、少子化が叫ばれる反面で加熱する教育市場に押されプレイヤーはどんどん増えて、既にレッドオーシャンになってしまっている。

教育というとどうしても指導力と熱意みたいなフワフワした言葉で語られがちです。

だからこそ一歩引いた戦略が必要なのではないかと思ったりするわけです。

「王道」以外の、自分の得意な戦い方を知っておく

このブログはそもそもマーケティングや差別化を考えないということをコンセプトに運営しているのですが(というかそもそもただの趣味なので差別かも何もないのですが…笑)、一応僕も塾人としてご飯を食べている以上、塾の指導に関しては自分なりの差別化戦略であったり、マーケティングを考えたりしています。
その一貫として僕がよく考えるのが次の表です。

f:id:kurumi10021002:20171025183415g:plain

今は競争心の欠片もない僕ですが、学生の時はかなり負けず嫌いで、アルバイトをしていた塾で一緒に働いていた先輩に勝つために戦略を練るために作ったのがこの表でした。
横軸に見ていくと、そのジャンルでどのような差別化をすればライバル、つまり同じく一緒に働いているバイトメンバーに勝てるか(笑)で、縦軸で比較すると、どこで競合と差別化を図るか、或いはどうやったら弱点を補うことができるかを分析できるようになっています。

当時の僕が行っていたのは1:2の個別指導と少人数の集団授業(表でいくと個人塾に該当します)でした。
僕がまずとった戦略は、個別指導で差別化を測ること。
指導力とサポートが穴だと考え、そこを徹底的に攻めることに決めました。
集団指導のために積み上げた予習や教材研究をそのまま個別指導に持ち込み指導力の面で差別化を、他の先生が授業が終わったらすぐ帰る(時給制なので当然です)中で、終わったあとも残って質問対応をするという形でサポート面の差別化をといった具合で、他の先生に勝とうとしていました。

当時の僕の姑息な戦略と幼稚な競争心はともかくとして、塾の先生にとって差別化を意識ことは非常に重要だと思っています。
同じ教室内で食い合っても意味がありませんが、他塾との関係を考える場合には特に重要です。
僕がお世話になっている塾の近くには個別指導塾から予備校まで10以上の塾があり、特にここ最近になって生徒の取り合いがはげしい地域になってきました。
そのため去年くらいから当時作った成分表をもとに、再び戦略を意識するようにしています。
まずは個別指導について。
どうしても個別指導は人件費がかさむため、殆どの塾で学生バイト頼みになってしまいがちです(ウチはなぜか専任講師がやたらと個別授業を持っていますが 笑)。
そこでこれまで投資してきた労力を活かして指導力で差別化を。
もう一つ、個別指導に関してはその性質上講師による授業外のサポートが薄くなるため、その部分をかなり意識的に増やしています。
それに加えてもともと1:1の指導体制をとっているため、[1:n]という体制の塾とはシステムの時点で差別化ができています。
その上で、ウィークポイントである指導力とサポート面で差別化をする。
これが僕の個別の(今の)基本戦略です。

集団授業の方では、サポート面と相互性をかなり意識的に差別化要因にしています。
僕のいる塾の周りは予備校・大手塾と個別指導塾がそれぞれ4つくらいあります。
逆に同じ系統の個人塾は殆どありません。
そのため、同業での差別化(横軸でウィークポイントを克服する戦術)はほとんど意味がないので、比較優位のあるサポート面と相互性を武器にするようにしました。
大学生のころの僕の授業は予備校の先生の授業をベースにしたもので、殆ど子どもたちとのインタラクティブなやりとりはありませんでした。
それをコミュニケーションの側に大幅に振り切って、相互のやり取りを意図的にとりこんでいます。
もう一つ、サポートという面も同じ。
アルバイトや有名な先生との事業委託契約では、どうしても授業外のサポートが薄くなります。
質問対応はともかく、作文の対策や学年を遡って復習をするみたいな個別対応は物理的に困難です。
そのため、常駐でなければ不可能なサポートをかなり意識するようにしています。

何をするときでもそうなのですが、僕の基本戦略は「優位な環境下で勝負をする」です。
全く同じ条件下で手数とスピードで勝負するのは(仮に勝てる場合であっても)好きではありません。
自分の得意な戦い方をしっかりと覚えておくことが大切なのかなあと思ったりします。

2017年京都女子大学公募推薦入試11/20「唐物語」現代語訳

公募推薦が近づいてきたので京都女子大学の問題集から一本現代語訳を作りました。

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。

また、ざっと訳したものなので、所々解釈の間違えがあるかもしれませんが悪しからず...

 

昔、眄眄という女が張尚書と結婚して、何年経っても露や塵のように片時でもお互いのことを裏切るようなことはなかった。花の咲く春の朝も、月の出る秋の夜も、一緒に舞を見て歌を聞き、二人で遊び戯れる以外はしなかった。
こうして睦ましく暮らしていたのだけれど、世の中は若い者にもまた年老いた者にも無常であることの恨めしさか、早くして夫が亡くなってしまった。女は、夫に先立たれたことを悲しみ、別れの涙は乾くことを知らなかった。姿・容姿・性格のどれをとっても非常に素晴らしく、世間の噂になったため、帝を始め色(恋)を好む男は皆熱心に言い寄った。女はそれを限りなくつらく感じていた。秋の夜に、曇りのない月が出ているのを見ても、昔亡くなった夫と見た月の光がまず思い出されて、
あの人と二人で見た月の光の方がまさっていたからなのでしょうか、夫が死んでから見るこの月は、同じ秋の月なのに心なしか寂しく見えてしまいます。
「命には限りがあるというのに夫に先立たれても尚、こうして生きながらえてしまう私身の薄情さはなんなのでしょう」などと思い、悲しみに暮れ、気持ちが乱れていた。
こうして月日も過ぎていくうちに、張尚書に建ててもらった高殿の燕子楼の中もすっかり荒れ果てて、床の上で一人寄り添う人もおらず悲しんでいる時は、夫が着ていた唐衣を取ってそれに触れてみるのだけれど、かつての香りさえすっかり消えてしまっていて、いっそう涙で褄を濡らす(妻が掛詞になっていますが、文脈上省略します)ばかりであった。
 唐衣を目にするとあなたに先立たれてから経た月日を思い出して、見るたびに恨みが深くなっていくようです。
こうして十二年を過ごした後、春を迎え、秋が過ぎ去った頃に、ついに女は亡くなった。

アイキャッチは唐物語

 

唐物語 (講談社学術文庫)

唐物語 (講談社学術文庫)

 

 

テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」②「貧困」の定義を考えることで筆者の主張を追いかける

以前のエントリで、『南の貧困/北の貧困』を一言で表すと「それって本当に正しいの?」という問いかけになるという話を書きました。
さすがにこの書き方だけでは何が言いたいのか分からないと思うので、実際に文章内容を追いかけてみたいと思います。
『南の貧困/北の貧困』は世界銀行で用いられている貧困の定義を紹介するところからはじまります。
その定義によれば1日あたりの生活費が1ドル(2017/10/19の時点だと1ドル約113円です)が貧困ライン、1日あたり75セント(1日あたり約85円)で暮らす人を極貧層とされています。
本文から少し離れてしまいますが、一旦110円で1日を過ごすことを想像して下さい。
コンビ二で買うならせいぜい安い菓子パンひとつ。
こんなんじゃとても生活できないですよね?(笑)
僕たちの生活に照らし合わせると1日1ドルはとても生活できない「貧困」ラインなので、この世界銀行の定義は正しいように思いますが筆者は「貧困のこのようなコンセプトは正しいだろうか?」と言っています。
これが冒頭で述べた「それって本当に正しいの?」という問いかけです。
僕たちからするとまるで疑問を持たない「1日1ドル」という貧困ライン。
筆者はここから、僕たちが「当たり前」と思うこの「貧困」の定義についてさまざまな具体例を用いて説明をしていきます。

ここからの内容を読み進める前に、一度「貧困」という言葉について整理をしておきたいと思います。
皆さんは「貧困ってなに」と聞かれたらどうやって答えますか?
恐らく「お金がないこと」とか「生活ができないこと」とか、さまざまな答えが返ってくると思います。
この「さまざまな答えが返ってくる」というのがポイントです。
複数人に聞いたらいろいろな答えが返ってくるように、「貧困」にはさまざまな要因があるのです。
その中で一番計測しやすいのが「お金」です。
あくまで1要素でしかないのに、それを絶対的な数値として扱うのはどうなの?他の可能性にも目を向けようよと言っているのが筆者の言いたいことなのです。

本文に戻ります。
少し上に書いたように、貧困(というより人々の生活の豊かさ)を測る指標はお金ばかりではありません。
お金以外の生活の豊かさの例として紹介されているのが中国の巴馬瑶(パーマーヤオ)族です。
本文で筆者も「長寿が幸福とは限らないが、九十代くらいまでは元気で『悩みがない』ということは、よい人生だと想像するほうが素直だろう。」といっている通り、巴馬瑶族の長寿は豊かさの一つの指標といえます。
この視点からみれば、巴馬瑶(パーマーヤオ)族は決して「貧困」ではありません。
しかし彼らの生活を「お金」という尺度から見たら1日あたり0.13ドルという生活水準で、世界銀行の定義する数値でいけば紛れもなく「貧困」に分類されるのです。
これって本当に正しいのでしょうか?
次段落ではアメリカの先住民の例がつづきますので、次回はその辺から筆者の主張について迫っていこうと思います。

 

 

アイキャッチは『ブラックジャックによろしく』(Amazonでは「ブラックジャックによろちんこ」)の作者で度々議論を巻き起こす佐藤秀峰先生の『漫画貧乏』

 

漫画貧乏

漫画貧乏

 

  南の貧困/北の貧困について解説した関連エントリです

テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた - 新・薄口コラム

AO・推薦入試で周りに差をつける視点①受かる人は「顧客視点」と「コンセプト」がはっきりしている

AO入試公募推薦の面接や志望動機について、毎年生徒さんから添削を頼まれます。
添削をする際、「素材をより良くする」が僕のスタンスです。
だから、まずはその生徒さんが書いた志望動機(箇条書きでも何でもいいので、まずは自身の考えたもの)を用意してもらうところからはじめます。
で、実際に読んでみて僕が持つ感想は、大体「分からない」と「もったいない」です(笑)
ごく稀に、一発目で僕が添削して手を加えるなんて恐れ多いというようなものを書いてくる人もいますが、たいていは上の二つの感想に落ち着きます。
(もちろん、何もアドバイスをしていないので当然ですが…)

面接の内容や志望動機を考える際、僕はまず「顧客視点」と「コンセプト」を持てという話からはじめます。
コンセプトは後に語るとして、まずは分かりにくい「顧客視点」から。
顧客視点とは、相手が何を求めているのかを考えるということです。
誤解の無いよう断りを入れておくと、ここでいう顧客視点とは「相手が何を求めているのかを考える」ことで、決して「相手が言って欲しいことにあわせる」ということではありません。
「相手の意図を考える」ことと「相手に合わせる」ことはまるで違います。
面接で話す内容にしても、志望理由書の内容にしても、それを課した学校側の意図に頭をめぐらせているか否かで、伝わる情報の密度は全く異なってしまうのです。

大学側が面接や志望理由書で見たいことは、その学校がAO入試なり公募推薦入試をどういう位置づけと考えているかで2つに分かれます。
一般入試で募集定員の何倍もの志願者が集まる学校の入試課の先生になったつもりで、公募推薦入試やAO入試でどういう生徒が欲しいか考えて下さい。
一般入試で十分な人数を確保できる場合、公募推薦AO入試で人を確保するという緊急性はありません。
そうした状況で公募推薦AO入試を設定する必要性があるのは、一般入試では確保することのできない学生、つまり筆記試験では測れない優秀な学生が欲しい場合でしょう。
したがって、上位~中堅国公立や人気の私立大学の公募推薦入試やAO入試では、他の受験生と比較したときにはっきりと印象に残る内容を組み立てる必要が出てきます。

毎年募集定員の何倍もの志望者が来る学校がある一方で、大半の学校はそう何倍もの志願者が出てくるわけではありません。
そうした学校における公募推薦AO入試の位置づけを考えてみてください。
志願者が殺到するような学校で無い場合、公募推薦AO入試は「母数の確保」という側面が出てきます。
この場合に学校が求めるのは、どこの学校からも引く手数多な輝かしい実績ではなく、勉強意欲があるということや大学を辞めないという安心感です。
毎年何千人と入学する総合大学ならともかく、手厚いフォローを売りにする小規模の大学にとっては、意欲がなく学校に来なくなる学生や入学したはいいけれどすぐに退学してしまうような学生が数人出るだけで大打撃です。
そういったことにならないかをしっかり見定める役割があるのが小規模大学の募推薦入試やAO入試です。

これが僕のいう顧客視点です。
顧客視点を持ってしっかりと相手が何を求めているのかを考えることができたら、次はコンセプトです。
しばしば、自己PRを見ていると自分の良さとアピールしている内容が全く違う人を見かけます。
ちぐはぐな志望理由になるのはコンセプトがブレッブレになってしまっていることが原因です(笑)
次回は自分のアピールの核となる「コンセプト」についてまとめたいと思います。

 

アイキャッチはそこらの大学入試の面接本より断然役に立つ就活の本(笑) 

内定力

内定力

 

僕たちは場に立たせようとする人に牙を向く

テレビの最大のタブーは特定の芸能プロダクションの批判でも韓国批判でもスポンサーの批判でもなく、視聴者をバカにすることである。

大分前に岡田斗司夫さんが自身の番組で語っていた言葉なのですが、本当にその通りだと思います。

芸能人プロダクションの顔色を伺うのは、芸能プロに権力があるからではなく、視聴者の関心のある芸能人を提供してもらえなければ困るから。

お金を出してくれるスポンサーも確かに大切ですが、そのスポンサーがお金を出してくれるのは、テレビが「視聴者」という商品を持っているからです。

テレビは出演者に拒否されても、スポンサーに離れられてもビジネスモデルは維持できますが、視聴者を敵に回して誰も見なくなってしまえばモデルが壊れてしまうんですよね。

だから、視聴者をバカにすることは絶対に避けなければないことなのです。

 

僕の大好きな言論人に、今回の選挙戦に関して投票を棄権するという署名をしたことで絶賛炎上中の東浩紀さんがいます。

僕は今回の炎上に関して、根っこのところには上に書いたテレビにおける最大のタブーと同じ構造が見られるのではないかと思っています。

政治に関して、様々な主張や様々な批判を目にします。

そのほとんどで、批判の矛先歯は政治家やメディアといった「権力」に向いています。

様々な意見を述べている「僕たち」は、そのフィールドに立っていません。

ところが東さんの主張は違います。

あくまで僕の解釈なので、東さんの言わんとするところと違うかもしれませんが、東さんは選挙を集団で棄権することによって国民が今の政治に辟易としていることを示そうといっています。

ここには政治に対する自分たちの意思表明と同時に、選挙というルールそのものを疑ってみたらどうなの?という、国民に対する問題提起も含まれています。

 

僕は東さんの今回の主張が、政治家でもメディアでもなく僕たち自身を対象としている点で他の選挙に関する意見とは決定的に異なっていると考えています。

東さんの選挙棄権の呼びかけは、選挙に行って投票することが「当たり前」だと思っている僕たちに対して、そもそも「選挙に行くこと」を疑ったらどうなの?と言ってきているのです。

やや大げさに言えば、僕たちの投票態度に対する「批判」と考えることもできます。

また、ただ投票という行為は選択肢の中から選ぶだけなのに対し、投票を棄権するというのは自らの意思を表明しなければなりません。

投票は「審査員」でいられるのに対して、棄権は「プレイヤー」にならなければいけないのです。

僕たちに「お前ら前提を疑ってみることくらいしたら?」と言った上に、審査員というある種責任の生じない安全な位置であることを降りさせプレイヤーになることを求める。

もちろんそんな風に考えて東さんを批判している人は多くないと思いますが、少なからずそうした「雰囲気」を無意識に嗅ぎ取って気を逆立てているというところはあるのではないかと思うのです。

 

アイキャッチ東浩紀さんのゲンロン0

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学