新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた

高校生の現代文で登場する見田宗介先生の『南の貧困/北の貧困』。
この文章のあたりから急に内容が難しくなったと感じる人も多いよう思います。
もちろんいろいろな原因はあると思うのですが、最大の理由は「主張が直感的に分かりにくい」ところにあるのではないでしょうか。
それまでの現代文で扱う文章ならば、途中に多少難しいことが書いてあっても、比較されている内容であったり筆者の言いたいことだったりを読めば「ふ~ん」と理解することができました。
例えば『水の東西』ならば、「西洋は〇〇、日本は〇〇」と言われれば、「確かにそうかも!」という感じです。
ところがこの作品のあたりから、だんだんと主張だけ見ても直感的には理解できなくなります。
これが、『南の貧困/北の貧困』くらいから急激に難しくなる理由です。

僕は『南の貧困/北の貧困』が読めるかどうかのポイントは「それって本当に正しいの?」という視点があるかどうかだと思っていて、それを直感的に理解してもらうために、次の2つの例を出して説明します。
①背が高いと女の子にモテるから、牛乳をいっぱい飲みなさい。
②背が高いと女の子にモテるっていうけど、それって本当なの?
高校入試に出てくる文章や、これまでの現代文で習ってきた文章の多くは①のように「AだからB」という書かれ方をしているものが殆どです。
それに対して『南の貧困/北の貧困』では、「Aって言われるけど、それって本当に正しいの?」というように前提自体に疑問が投げかけられています。
それまでルールを前提に話が進められる論説文しか読んだことがなかったのに、急にルール自体が正しいのかについて書かれてしまうから、何が言いたいのか分からなくなってしまうわけです。
昨日まではミーティングでサッカーの試合に勝つための戦略を話し合っていたのに、今日顔を出したらいきなり「サッカーのルールってこれでいいのか?」という議論をし始めたみたいな感じ(笑)
『南の貧困/北の貧困』を理解するためには、まずは筆者が何に対して「それって本当に正しいの?」と言っているのかを理解する必要があります。

見田宗介先生が『南の貧困/北の貧困』で「それって本当に正しいの?」と言っているのは「貧困」についてです。
一般には「1日1ドル以下の生活をしている人は貧困でかわいそうだから、仕事を作って助けてあげよう」って言われるけど、本当にそれで貧しい人は救われるの?
細かな部分に目を瞑ってざっくりと説明すれば、筆者が言いたいことはこんな感じです。
(あくまで文章を直感的に理解するのを目的として、非常に大まかな解釈で説明を書いていますので、専門知識がある方の知識に関するツッコミはご遠慮ください 笑)

「途上国人は収入が少なくてかわそうだから仕事を作って助けてあげようっていうけど、アイツら自分で食べ物作ってるし、お金を稼げるようにすることが大切だとは限らなくない?」
これが(雑にいえば)筆者の主張です。
ドミニカやアマゾンの先住民の中には確かに1日1ドル以下で暮らしている人たちがいます。
もし日本で生きている僕たちが1日1ドルならば、毎日買えるのはコンビ二おにぎり一つくらい。
当然こんなんじゃ生きていけません。
この価値観で「1日1ドル」と聞くと、むちゃくちゃ貧しい生活に思います。
しかし、実際には彼らはご飯を買わなくても自分で作物を育てたりしています。
ドミニカやアマゾンの先住民たちには、そういった「お金で買う必要のない」生活の手段があるわけです。
お腹が空いたらスーパーやコンビニに買い物へ行かなければならない人にとっての「1日1ドル」と、食料などの生活に必要なものは自分たちで作った上での「1日1ドル」では勝手が違います。

では、そんな人たちに対して「君たちは貧しいから働き口を作ってお金を稼がせてあげよう」ということをしたらどうなるでしょうか。
たとえば、1ドルを稼ぐためにドミニカやアマゾンの先住民たちが1日8時間働くようになったとします。
そうすると、それまでやっていた農業を手放さなければならなくなるので、1ドルの稼ぎができた替わりにそれまで「無料」で手に入っていた食料は作れなくなってしまうのです。
確かに名目上は1ドルの収入が増えたことによって「貧困」は脱出できたということになりますが、彼らは食料を作れなくなった分を手にしたお金で買わなければいけません。
これでは意味がありませんよね?笑
「貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。」
「貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。」
こういった筆者の言葉は、上に挙げたようなことをいっていると解釈すればいいでしょう。

今回は『南の貧困/北の貧困』の大まかな主張についてざっくりとまとめました。
(いつになるかは分かりませんが)次回以降は段落ごとの内容について見ていきたいと思います。

 

南の貧困/北の貧困について解説した関連エントリです
テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた - 新・薄口コラム
テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」②「貧困」の定義を考えることで筆者の主張を追いかける - 新・薄口コラム

 

アイキャッチは『南の貧困/北の貧困』が収録されている見田宗介さんの「現代社会の理論」 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

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「名づけ」の観点から更木剣八の斬魄刀解放を読み解く〜斬魄刀に名前を「与えて」しまった死神〜

寄稿依頼を受けた記事のために、ここのところ「名づけ」というテーマで様々なマンガを読んでいました。

そちらの文章では複数のマンガを比較したために書くのをやめたのですが、「名づけ」という観点から非常に興味深いシーンがありました。

BLEACH』の更木剣八斬魄刀を解放するシーンです。

もともとBLEACHに出てくる剣の名前を呼ぶことで解放するという設定が「名づけ」という観点から非常に面白く思っていたのですが、特にこの場面は「名づけ」に関して様々な考察ができるように思うのです。

 

更木剣八斬魄刀の解放を考察するには、副隊長の草鹿やちるとの関係を整理することが欠かせません。

もともと剣八は名前は自分の出身地(非常に治安が悪く、スラムの最下層のような場所です)「更木」と、当代最強の死神に与えられる「剣八」の異名を組み合わせたもの。

もともと剣八呼ばれる名前を持っていませんでした。

ある日、同じく「更木」同様にスラムのようなひどく荒れた地域で、1人の少女に出会います。

その少女に名前を訪ねても答えない(=名前がない)ということで、剣八が自分の尊敬する人の名ということで「やちる」という名を、そして出会った地域の「草鹿」という姓を授け、そこから2人は行動を共にするようになります。

これが更木剣八草鹿やちるの出会い。

 

僕はこの出会いのシーンが、後の剣八の刀の解放シーンの壮大な伏線になっていたのだと思っています。

剣八が自身の斬魄刀「野晒」を解放する直前のシーンで、やちるの回想シーンがあります。

「あたしはそこで血以外の色を見たことがない〜あなたはあたしの血まみれの世界を一瞬で切り刻んでそしてあたしに名前をくれた〜あの時あなたが現れなければ今のあたしはここにない」

このやちるの台詞が、剣八斬魄刀「野晒」の解放と非常に密接に関係していると思うのです。

結論から言うと、僕はやちるは剣八斬魄刀だと思っています。

剣八とやちるの初めての出会いのシーン。

あれは、剣八が自分の斬魄刀と初めて出会ったシーンだったと思うのです。

通常であれば、斬魄刀から名前を聞き、その名前を呼ぶことで刀が解放されます。

しかし剣八は出会った女の子(=自身の斬魄刀)に自ら名前を与えてしまった。

その結果、本来の解放とは違う形の、特殊な解放になってしまったのではないかと思うのです。

 

斬魄刀が使用者に名前を教え、その名を呼ぶことで力が解放されるというのが通常ですが、これまでにも例外が出てきています。

綾瀬川弓親の斬魄刀「瑠璃色孔雀」です。

使用者の弓親は通常時に刀を解放するとき、本来の名前である「瑠璃色孔雀」ではなく、「藤孔雀」と呼んでいます。

意に沿わない名前(嫌いなアダ名みたいなもの)で呼ばれた斬魄刀は、本来の力ではない中途半端な解放をします。

弓親の斬魄刀と同様に、剣八斬魄刀も、本来の名前ではない呼ばれ方をされたために、通常とは違った解放形態になったというのが僕の解釈です。

本当ならば初めの出会いの段階で、思わぬ形で名前を授けられ、その名前を気に入ってしまったために、本来とは違う草鹿やちるという少女の形で解放されてしまった。

剣八と過ごすうちにやちるは本来の名前に気づき、最後の場面で剣八を救うために自らの名前を教えた。

それが、「野晒」という剣八斬魄刀だと思うのです。

 

剣八は初めて一護と戦った時に、「俺は霊圧が強すぎて刀を封印できない」と言っていますが、これは(本人も気づかぬうちに)やちるという名前を斬魄刀に名づけてしまったために、封印できなくなっていたのだと思うのです。

また、作中で何度か剣八斬魄刀の名前を知ろうとして、それが叶わない場面が描かれますが、それも自ら斬魄刀に「名づけ」をしてしまっているために、そもそも名前が知れない状態であったと考えることができます。

既にある名前を捨て、新たな名前で呼ぶということは、それまでの全ての関係が一度断たれることだと考えれば、自ら「名づけ」をしてしまった剣八斬魄刀の本当の名を知ることができないのも納得がいきます。

 

BLEACHの最後の戦いには、隊長と副隊長のそれまでの関係が断たれる場面が多く出てきます。

剣八の場面はそれが斬魄刀の解放です。

「野晒」という本来の名前で呼ばれ、それに呼応してしまえば、それまでの副隊長草鹿やちると隊長更木剣八という関係には戻れません。

やちるが「野晒」という名前を教える場面は、剣八を救うためにそれまでの関係を断つシーンであるように思うのです。

 

恩人が「名づけ」をしてくれた名前を返上し、自分の本来の名を教える。

更木剣八斬魄刀解放シーンには、そんな意味合いが込められていたのではないかと思うのです。

 

アイキャッチはもちろんBLEACH

 

BLEACH 22 千年血戦篇3 渇望 (SHUEISHA JUMP REMIX)

BLEACH 22 千年血戦篇3 渇望 (SHUEISHA JUMP REMIX)

 

 

 

僕たちは自分で思っているほど論理的ではないと思うんだ

「目の前にAとBの選択肢があります。あなたはどちらを選びますか?」
本来なら他の選択肢があるはずの場面で、特定の候補を並べられると、ついついその選択肢の中から選んでしまうということがよくあります。
あるいは手品の技法に、マジシャンズチョイスといって、これと似た現象を利用したものがあります。
相手に自由に選択してもらっているのに、結果的にマジシャンの意中のカードを選ばせる。
これは選択と判断を分離することで行うテクニックです。
観客は選択を行うけれど判断はしない。
ある観客が行った行動の結果生じる行動はマジシャンが決めているのです。

上に挙げたような「論理遊び」は日常でよく見かけます。
さりげなくこうしたことをやっている人をみると、凄いなと思います。
反対に、本人も自覚がないうちに論理を飛躍させてしまう人もよく見かけます。
最近、有名人に対するTwitterのリプライ観察にハマッているのですが、特に炎上している人に対するリプライを見ていると、こうした「自覚無き論理の飛躍」を多く見かけます。
で、結果どんどん議論?がおかしな方向に流れてしまう。
僕がリプライを追いかけている中で、頻繁に見かけるパターンがあります。
それが以下の6つ。
①全体の傾向の話をしている時に個別具体的な事例をあげる
②Aという前提で話しているときにBという視点から反論をする
③正誤の判断と好みの判断が一致していると思っている
④Aの最大値とBの最小値を比較する
⑤いくつも重ねたロジックをかいつまむ
⑥情報を引用する際に無自覚に自分の解釈を加える
(論理というわけではないものも含んでいますが、Twitterで多い思い違いのパターンとでも思っていただければ幸いです…)

①の全体の傾向の話をしている時に個別具体的な事例をあげるというのはデータを示している人に対するリプライでよく見かけます。
「自分の周りはそれに該当しないから、データ自体が疑わしい。」或いは「A(客観的な内容)という場合も確かにあるが、B(個別具体的な内容)という場合もある。」みたいな感じです。
僕たちが身近な体験ほどリアルに感じるのはある意味で当然であるため、それだけバイアスがかかっているということを意識しておく必要があります。

②のAという前提で話しているときにBというのは、格差等の社会問題について語られる場合に多く見かけます。
発信者は「Aで見ればBである」と言っている人に対して、「CでみたらDだから間違いだ」という具合です。
この場合、そもそも論点を明確にするために特定の前提に基づいた意見を発信している訳なので、その前提の外から意見を投げられても、受け取った側は反論できないという状態になってしまいます。

③はニュースに関連するようなつぶやきに見られる傾向です。
発信者は自信の好みとは別のところで「考え」を述べているだけなのに、そこに本人の好みが乗っかっていると考えてしまうタイプがここに該当します。
仮に「A,B,Cという要素から希望の党が多くの議席数を獲得するだろう」と言っている人がいて、それがそのまま本人の好みであるとは限りません。
希望の党が勝つと思う」と「希望の党に勝って欲しい」はまるで違う内容です。

④のAの最大値とBの最小値を比較するというのは、特定の事柄に思い入れが強い場合に発生しやすい傾向です。
一番美味しい中華料理と一番マズイフランス料理を比較して「やっぱり中華がいい!」と言っても誰からも共感が得られないように、Aのメリットを述べたいときに、Bのデメリットを比較対象に出す人がいますが、これでは正しく比較できているとは言えません。
もし正しく比較するのであれば、AのメリットとBのメリットを、あるいはAのデメリットとBのデメリットを比較すべきです。

⑤のロジックをかいつまむというのは「1→2→3→4→5」という論理を説明している意見を「1→4→5」だと解釈するみたいなイメージです。
これは、大きく炎上している発信者に対して、反射的なリプライが増えると増加するパターンです。

最後の⑥情報を引用する際に無自覚に自分の解釈を加えるというのは、人の意見を引用するときに多くあるパターンです。
ニュースサイト等が引用をする際にも時々見かけます。
原文では「100人増えた」と単に事実を述べているだけなのに、引用の際に「100人も増えた」というように「解釈」が加わってしまう。
これは無意識に付け加えられている場合が多く、それが原因でやりとりに齟齬が出るというパターンが多いように思います。

論理が飛躍しているパターンとして①~⑥を挙げましたが、僕は別に、これを以って上記に該当するようなリプライをする人が論理的でないと批難したいわけではありません。
Twitterの性質上、そういったミスを誘発しやすいというだけのお話。
それこそ、分析と主張は違います(笑)

「炎上」という現象は、SNSが普及し、誰もが発信者となり得るからこそ生まれたことだと思うので、引き続き観察したいトピックだったりします。

 

アイキャッチは論理の人、西村博之さんの新作です!

 

無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21

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ムダという「努力」が価値になる

テキストを作り、学校説明会に出つつ、テスト対策を行いetc...

また塾以外の関わらせてもらっていることも含めて、この二ヶ月くらいガラにもなく仕事に打ち込んでいました(笑)

ほぼほぼ仕事オンリーの生活です。

で、明らかに感じるのがパフォーマンスの低下。

別に休んでいないから効率が下がっているとかそういうお話ではなく、アウトプットの質が落ちているなというお話です。

元々僕は仕事柄授業時間以外はだいぶ自由な生活をしていて、朝起きてお昼まで本を読んだり情報を集めたりとインプットをしながら、ブログを書いてみたいなことが日課でした。

で、お昼からまた少し本を読んだりして、気が向いた時間に出社(笑)みたいな。

多分ここにタイムテーブルを書き出したら定時で働いている人には怒られるような生活です。

1日の大半がムダでできている(笑)

 

ただ、僕はそうした「ムダ」が結構大切であると思っています。

ムダがあるからこそ、アウトプットに個性が生まれるからです。

僕はある人が仕事でもプライベートでも何かしらのアウトプットを生み出す時にアイデアが出てくる場所を、タネを植えて目がでる土壌のようなものと考えて、「知層」と呼んでいます。

それまでに溜め込んだ膨大な知識がアウトプットの肥やしになるから知識の層で知層。

この知層を耕すには、ムダな部分が必要不可欠だと考えるのです。

 

もちろん仕事に打ち込んでいれば、仕事めんの知識や経験が膨大に積み上がり、様々な見地が得られます。

しかし、それらが蓄えられて作られる知層はかなり偏ったもの。

また仕事に打ち込んで、アウトプットも仕事関係ばかりになると、知層に埋める「タネ」も同じものばかり。

こうなってくると単作で同じ作物ばかりを育てていたら畑が痩せてしまうのと同様に、知層もどんどん貧しくなってしまいます。

僕が肌で感じているのはまさにこの部分。

 

ここ最近の僕の生活をパーセンテージにしてみると、70%が仕事で20%が人とのコミュニケーション、残りの10%がインプットという感じです。

今までは60%が仕事で35%がインプット、5%がコミュニケーションという具合。

何か興味のあるものを掘り下げたり、自分の中でグルグルと思考を巡らすインプットの時間が極端に減ったため、自分自身ではっきり分かるくらいにアウトプットに「らしさ」がなくなります。

ここ最近ブログ(や諸々の書き仕事)が書けなくなっていたのはまさにこれが理由。

自分「らしい」アイデアをひねり出すまでに、非常に時間がかかるようになってしまっていました。

 

どんな作業であれそれが仕事である以上「価値を生み出す」という部分は共通していて、その意味ではそこに差別化はありません。

価値を生み出さない部分、つまりムダにこそその人の差別化の要素があると思うのです。

ここ最近の社会では、ロジカルシンキングとか合理化といったことがもてはやされています。

もちろんそれは短期的(数ヶ月〜数年)な結果を出すためには有効な手段かもしれません。

しかし長いスパンで見たとき、徹底的にムダを省くそれらの手法は差別化という点でかなり危うい戦略に感じるのです。

論理的思考や合理的な行動が短期的な結果を出しやすいのは、他の人がする少しずつのです「ムダ」を徹底的に排することで、人より早くゴールにたどり着くことができるから。

裏を返せば、勝負の要素から「スピード」を外してしまえば何の価値もないということです。

例えばxというアウトプットを得るのにAさんは1週間、Bさんは2週間かかるとすれば、周囲に重宝されるのはどう考えてもAさんです。

しかし、スピードという視点を退けて2人の成果物を見たとき、xという成果物を出したという点ではどちらも同じ。

成果物自体に差別化の要因は含んでいないのです。

一ヶ月というタイムスパンで考えればAとBが成果物にたどり着くまでの7日という差は非常に大きなものですが、20年くらいで見たときには殆ど誤差の範囲です。

 

論理的思考と合理的な行動を突き詰めれば、行き着くのは誰が出しても同じ結論になるというのが僕の持論

「スピード」が関係ない視点でみたときに、それらに頼った結果の出し方を武器にした戦い方は非常に危ういものになります。

スピードという枠をとっぱらった時に勝敗を分けるのが、成果物自体の差別化で、その差別化を生む基盤となるのが知層。

ムダが豊かな知層を作るのだとしたら、論理的・合理的に考える際に切り捨てる「ムダ」な要素こそが最大の強みになり得ると思うのです。

当然スピードが勝負の大きな要因になっている今の社会においては、論理的・合理的な戦い方こそが勝ちパターンだと思います。

ただ、その勝負が永遠に続くかといえばそんなことはないだろうし、僕はその終わりは案外早く来るだろう(20年以内くらい)と考えています。

(速さが有効なのはあらゆる指標が右肩上がりである社会においてだと考えるからです)

 

そんなことを考えて行動を設計しているつもりだったのに、ここ最近、目の前の面白い仕事にかまけてムダを作ることをサボりがちになっていました。

日常生活にもっとムダをたくさん取り込まなければなあと反省する今日この頃です。

 

アイキャッチは「業の肯定」を唱えた談志師匠の「現代落語論」

 

現代落語論 (三一新書 507)

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RADWIMPS「おしゃかしゃま」考察~仏教的・キリスト教的世界観を「解く」~

ここ最近、宗教にハマっています 笑
といってもヤバイ感じの意味ではなく、純粋に物語として興味を持ったという意味です。
神教、キリスト教、仏教、イスラム教etc..と好奇心の赴くままに本を読み漁っているのですが、そんな中でふとRADWIMPSの『おしゃかしゃま』を思い出しました。
おしゃかしゃま』が発表されたのは僕が学大学1年生だったころ。
その時は単に神様の位置に人間を置いた人類の文明批判の歌くらいの印象でした。
しかし、改めて歌詞を見ると、キリスト教的な世界観と仏教的な世界観が混在していて、非常に面白い作品だと思うのです。

この歌の歌詞を見ていくと歌詞の中に仏教的な考え方とキリスト教的な考え方が混ざって登場します。
歌詞を追っていくと1番でAメロが3回繰り返され、その一度目は〈~けど人類は増えても増やします〉というように、人間中心主義について歌われます。
続いて2回目のAメロでは崇め奉っていた神のように人類が振る舞い始めたと歌われていますが、まずは「神」に関する具体的な表現だけを追っていきたいのでひとまずここは無視。
3回目のAメロで神に関する具体的な表現が出てきます。
〈僕は見たことはないんだ あちらこちらの絵画で見るんだ さらに話を聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ〉
このフレーズから『おしゃかしゃま』のこの時点で述べられる神は、多くの絵画でモチーフとして扱われたもので、人の形をしているということがわかります。
宗教画といって最初に思い浮かぶのはやはり、聖書の内容をテーマにした作品でしょう。
実際に「創世記」では神は自分に模して人を作ったとされており、また続くBメロで最後の晩餐などで有名な「ダヴィンチ」という名前も出ているので、ここはキリスト教的な神を想定するのが妥当でしょう。

〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
1番のサビの段階で「来世」という死生観に言及します。
死んだら生まれ変わるという輪廻転生の死生観を持つのは、完全に欲望を捨て解脱できるまで何度も生まれ変わるとされる仏教です。
一方でキリスト教では死ぬと魂は天国か地獄か煉獄に行くとされています。
〈来世があったって 仮に無くたって〉という表現は、仏教的な死生観に立ったとしても、キリスト教的な死生観に立ったとしてもという意味で読むことができます。
次の〈生まれ変わったって 変らなくたって んなこたぁどうだっていいんだ〉という歌詞も基本的には前と同じ。
どういう世界観に立つかは関係なく、欲望を貪欲に追い求めるのが人間だと歌います。

〈もしもこの僕が神様ならば〉と始まる2番のAメロはキリスト教の世界観で描かれます。
〈7日間で世界を作る〉というのは創世記に書かれている神が世界をどう作ったかというエピソードのこと。
仏教における天地創造は阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)の中に書かれており、仏教は本来創物主や絶対神のような存在を持っていないとされています。
仏教的な世界の形成をものすご~~~~くざっくりと書けば、初めに何も無い空間にカルマが働きかけることで微かな風が起こり、それが次第に大気の層のようなものになり、その上に水の層ができるとされます。
そうしてできた水の層にカルマによる風が吹くと、さながらミルクに張る「膜」のように新たな黄金の層ができ、それが大地になったとされます(キリスト教との違いを指摘するために簡単に挙げた説明ですので、細かな部分の間違いや説明不足はご容赦ください)。
このように仏教の世界観では神が世界を作ったとはされていないので2番のAメロはキリスト教について述べていると考えるのが妥当です。
続く〈増やして減らして~だから1,2,3で滅んじゃえばいいんだって〉という部分も恐らくノアの箱舟について書いたもので、これもキリスト教的な世界観を描いています。

Bメロに入ると再び仏教的な世界観が登場します。
〈馬鹿は死なないと直らない なら考えたって仕方がない さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい〉
ここではっきりと「現世」「来世」という言葉が出ていることから、仏教的な世界観の話であると分かります。
そして2番のサビ、Cメロ、最後のサビに続く。

上で見てきたように、『おしゃかしゃま』の歌詞は仏教的世界観とキリスト教的世界観が交互に出てきて、その合間で人間の愚かさを描きます。
では、一体この歌を通して作者の野田さんは何を言いたいのか?
この曲に関して、パッと聞くと人間の愚かさを歌っているようにも聞こえますが、僕はもう少し違う意図があると考えています。
ただの文明批判なら、キリスト教と仏教を両方出す必要はありません。
むしろ仏教的な考え方を入れてしまえば、神の位置に人間を置き換えることによって発達したされる近代を否定しづらくなってしまう。
僕は野田さんがあえてキリスト教も仏教も持ち出してきた理由は、どちらの宗教でも語られる考え方そのものに対する問題提起の意味があると考えています。
仏教では来世でよりよく生まれ変わる、果ては欲を捨て解脱するために今を清く生きることを、キリスト教では死後の世界で天国に行くために正しく生きることを説きます。
どちらも死後のために今の行き方を示すという点では共通しているといえます。
一方でそれは、今は将来のためにあるのだと割り切って苦しみに耐えるということで、多くの人間はそんなに強くないし、目の前で困難にあった人を必ずしも救えるとは限りません。
野田さんはこの曲を通して、来世や死後の世界を信じて生きられない強くない人間がどう生きたらいいのかという不安や怒りみたいなものを表現したかったのではないかと思うのです。

先ほど飛ばしたCメロと最後のサビを見てみます。
〈ならば どうすればいい? どこに向かえばいい いてもいなくなっても いけないならばどこに〉
〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
〈天国行ったって 地獄だったって だからなんだって言うんだ〉
ここには、仏教の神もキリスト教の神も将来のことを導いてくれているけれど、多くの人たちにとって肝心の「今」はどうしろというのだという不満や不安といった感情が書かれていると解釈することができます。
この曲が発表された2009年はITバブル後、リーマンショックで暗い空気が漂っていたとき。
おしゃかしゃま』には、「未来のために今を生きる」ではなく、「今を乗り切るため」の方法を教えてくれという心の叫びのようなものが込められているように思うのです。

 

アイキャッチは『おしゃかしゃま』が収録される「アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理

 

 

宇多田ヒカル「花束を君に」考察〜「花束を贈る」という行為に込められた想いを読み解く〜

高校生の頃、エリック・クラプトンの『Tears in heaven』を効いて以来、この曲は僕のお気に入りになりました。

もともと好きだったベートーヴェンの『ソナタ悲愴(第2楽章)』と似た空気を感じたのです。

後になって、そのころの僕には分からなかった音楽理論を知ることで、これらは悲しい歌なのに長調で構成されているという共通項に気がつきました。

明るい曲調で悲しみを歌い上げた曲。

宇多田ヒカルさんの『花束を君に』は僕の中では『Tears in heaven』や『悲愴』と同じ明るい悲しみを表したジャンルにカテゴライズしています。

 

花束を君に』が収録されているFantomeというアルバムは、宇多田ヒカルさんの母親が亡くなった時期に制作された作品なのですが、全編を通して母への思いが感じられます。

特に『花束を君に』は、単体で聞くと好きな人への気持ちを伝えるような歌にも聞こえるのですが、このアルバムの文脈で聞くと、まるで違う見え方になる楽曲であるように思うのです。

 

僕は『花束を君に』を、母への思慕と母からの解放の思いが込められた歌であると考えています。

以前「母への想いを託した曲~宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察~ - 新・薄口コラム」というエントリでも書いたように、宇多田ヒカルさんの母、藤圭子さんは、圧倒的な才能を持つミュージシャンで、ある意味で宇多田ヒカルさんにとって、追いつきたいと憧れていたであろう存在です。

一方で私生活は様々な噂が流れるほどに奔放で、それによって宇多田ヒカルさんが苦労したというエピソードも、雑誌の記事などを読んでいるとみかけます。

いつか追いつきたいと思う一方で呪縛から解放されたい存在。

それが宇多田ヒカルさんにとっての母だったのではないかと思うのです。

 

花束を君に』を祝福の歌として効いていると、いくつも違和感のある表現にたどりついてしまいます。

しかし亡くなってしまった母への「献花」、そして母への思慕と母からの解放という複雑な感情をそのまま描いた楽曲として聞くと、歌詞が繋がるのです。

 

<普段からメイクしない君が薄化粧した朝>

こう続くAメロが一見すると結婚式の日の朝のように感じられるため、この曲を「結婚の曲」と読む人も多いと思うのですが、僕はこれが御葬式の出棺の儀に聞こえました。

普段はメイクをしない母が、「薄化粧」をして眠っている。

結婚式ならば「薄化粧」である必要がありません。

棺で眠る母が化粧を施された。

その表情を見て<始まりと終わりの狭間で 忘れぬ約束した>というのが僕のAの解釈です。

 

そしてそのまま突入するサビの部分。

花束を君に贈ろう>

こういった直後に愛しい人と言っているのですが、5〜8小節目で<どんな言葉並べても 真実にはならないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に>と、何か含みのある表現になっています。

僕は<どんな言葉並べても真実にはならない>という所には、宇多田さんが「君」に対して抱く複雑な感情が込められており、そしてそれが母への(からの)思慕と解放だと思うのです。

ようやく母から解放されたという気持ちの一方で慕っていた、背中を追いかけていた母を失った喪失感。

そんなものとても言葉にできないので、今はただ送り出したい。

<今日は贈ろう 涙色の花束を君に>という歌詞に描かれているのはそんな気持ちなのではないかと思います。

 

2番のAメロでは、「苦労や悲しみがなく楽しかったことだけなら愛を知らずに済んだ」というような気持ちが歌われます。

ここには、苦労もしたけれど楽しいこともあったので、「君」を愛してしまったという気持ちが現れます。

これが宇多田ヒカルさんの気持ちを歌ったものだと仮定したら、「君」は楽しいことだけでなく苦労や淋しさを与える存在ということになります。

そしてその両方を送ってくれた人だからこそ、今愛情を感じてしまっている。

Aメロの終わりの<愛なんて知らずに済んだのにな>という表現には、「君」からの愛情を知りたくなかったというニュアンスが伺えます。

そしてそれは、「君」を失ったからこそ出てきた感情だというのが僕の解釈です。

 

2番のサビでは、<花束を君に贈ろう 言いたいこと言いたいこと きっと山ほどあるけれど 神様しか知らないまま 今日は贈ろう 涙色の花束を>と続きます。

言いたいことは山ほどあるけれど神様しか知らないままというのは、言いたいことことの真実は神様しか知らないままであなたを贈り出すという意味だと思うのです。

やはりここでも、1番のサビにあった「君」に対する複雑な心境が描かれています。

色々な真実や聞きたいことは山ほどあむたけれどそれはあえて聞かないでおくことにした、というか突然死んでしまったあなたに聞きたいことがあったけれどそれは今は忘れよう。

そんな気持ちが読み取れます。

 

2番のサビでは自分の本当は確かめたかった複雑な感情を描いた一方で、3番のサビで「君」への感謝が描かれます。

<君の笑顔が僕の太陽だったよ 今は伝わらなくても 真実には変わりないさ>

ここは自分の抱いた「君」(僕の解釈では母)へのある意味で懺悔のようにも感じられます。

「君」のことを本当はとても慕っていたのに、その気持ちを伝えられなかった。

だから伝わらなくても真実だといって気持ちを伝える。

そして<抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に>と続きます。

歌詞に読点を用いることの少ない宇多田ヒカルさんがここで用いた読点には、思わず気持ちが溢れる様が投影されているように見えます。

「抱きしめてよ」そう気持ちを言った途端に目の前の現実が目の前に現れる。

<さよならの前に>からは、本当は君と別れる前に一度本心を伝えて、抱きしめて欲しかったという気持ちが読み取れます。

ここにきて(そしてここだけに)初めて、「悲しみ」が描かれるのです。

そして最後のサビに向かう。

<どんな言葉並べても 君を讃えるには足りないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に

最後はあなたを讃えるにはどんな言葉でも足りないから、様々なニュアンスを「花束を贈る」という行為にこめて伝えることにする。

そうやって歌が綴じられます。

 

相手への祝福、門出に対する餞けetc...

「花束を贈る」というのは様々な場面で行われますが、それらのいずれもが、「特別な人に気持ちを伝える」という目的のための行為です。

宇多田ヒカルさんは、母に対する気持ちを正直に言ってしまえばネガティヴなものもでてきてしまう。

だからといって嫌いなわけはなく、憧れていたし好きだった。

そのどちらか一方を表現しても嘘になってしまうから、どちらも伝えられる歌にしたかった。

その手段として選んだのが「花束を贈る」という行為をテーマに選ぶことだったのではないかと思うのです。

もちろん僕は宇多田ヒカルさんの実生活を知っているわけでなく、どんな人かなど知らないので、歌詞から受け取った印象をそのまま言葉にしただけです。

だから、本当は全く違う歌なのかもしれません。

ただ、Fantomeというアルバムの文脈で聞くとこういうようにも聞くこともできると思うのです。

色々な解釈の余地のあるこの歌。

皆さんはどのように聞きますか?

 

他の曲の歌詞考察です。よかったらこちらもお願いします。

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花束を君に

花束を君に

 

 

 

野良猫奇譚

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珍しく人なつっこい我が家の飼い猫ソラ(上)と逃げはしないケド嫌悪感をあらわにする母の実家の飼い猫ナナ(下)

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久しぶりに母方のばあちゃんの家に行った。

ばあちゃんの家にはナナというネコがいる。

爪を切るために病院に行けば自ら手を前に出し、お客の腕の中ではいつまでも大人しくしているという事で近所で礼儀のいいと評判のネコだ。

 よく僕の実家にいるソラと比較される。

自分で言うのもなんだがソラは行儀が悪い。

ケガをして倒れていたのを母が拾ってきたのだがうちに来たばかりは野良猫そのものだった。

父があげようとしたエサには見向きもせず、ひょいと食卓に飛び乗って父のサンマを取って逃げていく。

そんなのが当然だった。

あの時の父の切ない顔は今でも覚えている。

ときが経つにつれ幾分大人しくなりはしたが、それでも未だに行儀が悪い。

ソラは人が食事をしているとすぐによこせと言ってくる。

食べ物を渡さないとすぐに噛み付く。

 

高2の時あまりにも噛み付くので指先にアロエを塗って待っていたことがある。

案の定ソラはオヤツをあげなかった僕の右手に噛み付いた。

その時のソラの顔は今思い出しても面白い。

有吉並に顔のパーツが近づいていた。

5年間ソラと暮らしていて唯一の白星だ。

まあそんなソラと比べると一層ナナの大人しさが際立つ訳だ。


本当にナナは行儀がいい。

周りの人びとはナナは一度も怒ったりした事がないと思っている。

しかし僕は一度だけ,本当にその時だけだがあの何をされても怒らないナナが本気で怒ったところをみた事がある。


それは夏の暑い日の午後だった。

ばあちゃんが廊下で股を広げて寝ていた。

その広げた股の間でナナは丸くなっていた。

すやすや眠っていたように思う。

やがてばあちゃんの頭の方からすさまじいいびきが聞こえ始めた。

僕と母のいびきのうるささはきっとここから来ているのだろう。

そんないびきに迷惑そうに目を覚ましたナナだったがそのときは怒りもせずそこでじっとしていた。


時が経ちばあちゃんの地鳴りは収まった。

そしてしばらくすると
「ぷぅぅぅっ~」 という音が聞こえた。

もちろん頭でなく尻からだ。

同時に 「ニャッッー!!?」 という叫び声が廊下に響いた。

股に挟まっていたナナには相当こたえたのだろう,振り向いた時にはナナの牙がばあちゃんの太腿に食い込んでいた。

今度は 「ぎゃっっー!!?」 という悲鳴があがる。

ばあちゃんが痛みで跳び起きた。

その時のばあちゃんは何が起こったのかわからないという表情をしていた。


それ以来ナナの怒った姿は誰も見ていない。

おそらく理由まで含めて怒ったナナを知っているのは自分だけだろう。

ナナを抱きながら僕はふと思いだし笑いをした。