新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



日本人が大好きな「空気を読む」を細かくカテゴリーに分けてみる

「彼らを見つけ出すたびに、そっと、子共たちは、ラベルを剥がしてみる。そのことが、教師を喜ばせ、休息を伴った自らの地位の向上に役立つのを知っていたからだ。…〈中略〉…教師に意味嫌われる子供は、その方法を、知らないのだった。修得してしまえば、これ程便利なものの存在に気付いていないのだ。鈍感さのために。あるいは、知ろうとしない依怙地さのために。」
山田詠美さんの『眠れる分度器』の中に出てくる一節です。
ここ最近、日本人の空気を読む文化についてあれこれ考えていて思い出しました。
少し前に2ちゃんねるの管理人であるひろゆきさんが自身の番組で「日本には法律とは別に守らなければならないルールがある」と言っており、僕はそれを一般的には「空気」と呼ばれていると考えているのですが、この「空気」を読むというのが非常に面白いなと思っています。

毎年中学生の夏休みの課題として「税」に関する作文が多くの学校で課題に出されます。
学校によってはどういった切り口で書けばいいのかという具体例が書かれたプリントが配布されるのですが、そこに書かれていた切り口が全て「納税」に関するものであったのが非常に印象的でした。
本来なら「税」というテーマであれば、「払いすぎた税金は戻ってくる」という切り口をはじめ様々な角度から作文を書く事ができます。
しかしながら、具体例として書かれているのはどれも「納税」に関するものばかり。
学校で課された「税」の作文が求めているのは、実際には「納税」の作文であるわけです。
別に僕はこれに対して「学校教育は思想を植えつけている」みたいなことがいいたいわけではありません。
おそらく、いろいろなアイデアを出した結果、そもそも「納税」の切り口しか出なかったのだと思うのです。
僕はここに、日本人の「空気を読む」が端的に表れていると思っています。
誰も意識もせずに、「税」の作文を「納税」の作文として考えている。
これがひろゆきさんのいうところの日本に存在する「法律とは別に守らなければならない」何かだと思うのです。

「あいつは空気が読めない」といった言葉に表れるように、僕たちはしばしば「空気が読める/読めない」という二つの区分で考えがちですが、実際は日本人の「空気」に対するスタンスはもう少し複雑であるというのが僕の考えです。
先に挙げた学校の「税」の作文の例のようにそもそも無意識のうちに空気を読んでいる人が大多数だと思うのです。
ちょっと前に話題になった「忖度」という言葉だってこれと同じです。
彼らは空気を読んだのではなく、そもそも無意識にやっていると思うのです。
ここに属する人はそもそも空気を読む必要がありません。
したがって日本人の「空気」に関するスタンスを表すのなら、まずは「空気を読む必要がある人/空気を読む必要がない人」という区分が先にくるのが適切です。

「空気を読む必要がある人」という区分の中に初めて「空気を読める/読めない」という区分けが生まれます。
ただし、ここも単順に「空気を読める/読めない」とするのではなく、もう少し細かくする必要があります。
僕は「空気を読む必要がある人」はさらに「空気を読める人」と「空気を読むべき人」にわけられると考えています。
その上でさらに、「空気を読むべき人」の中に「空気を読まない人」と「空気を読めない人」がいると思うのです。

僕の考える日本人の「空気」に対するスタンスを改めて並べると以下のようになります。
①空気を読む必要がない人
②空気を読める人
③空気を読まない人
④空気を読めない人
先ほどの税の作文に対するスタンスでこの4区分を表現すると、税の作文が課題として与えられたときに意識しなくても「納税」の作文が書ける人が①、税の作文が課されて「納税」以外の作文のアイデアが頭に浮かんだけれどあえて「納税」の作文を書く人が②、税の作文の課題に俺は「納税」以外の観点から書いてやると考えて意図的に「納税」以外の観点から書く人が③、税の作文に対して本人は意識もしていないのに「納税」意外の観点から作文を書いてしまう人が④です。
感覚値ですが、それぞれの比率は80:10:5:5くらいな気がします。

さらに、カテゴライズをしていくと、僕の中では①に当てはまる人の中で競争が起こり、その上位にいる人がいわゆる世間で言われる優秀な人で、僕は彼らを「エリート」、それ以外の人を「いい人」と分類しています。
②の「空気を読める人」に関しても、空気を読めるからそれを利用して上手く立ち回る人と、空気を読めるからこそ「空気」自体を憂う人がいて、前者を「上手い人」、後者を「ひねくれ者」としました。
③の「空気を読まない人」に関してはこれ以上細分化する必要がないので「ずるい人」としておきます。
そして最後④の「空気を読めない人」はたまたま成功してしまう一握りの人とそうでない大量の人がいて、成功した人が「天才」、そうでない人が「落ちこぼれ」と名づけてみました。
おそらく、僕たちが人に対して持つ印象はこんな感じが近いのではないでしょうか。

日本人の空気の好きさ加減を「読める/読めない」の2区分に分けるのはあまりに勿体無いと思ったので、日本人の繊細な「空気」に対するスタンスを細かく分類してみました。

 

アイキャッチはもちろん山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」

 

ぼくは勉強ができない (文春文庫)

ぼくは勉強ができない (文春文庫)

 

 

 

悪用厳禁!?メルカリでブランド服をほぼ送料のみで楽しむ裏技

いかにもネットに量産されるコピペ記事みたいなタイトルにしてみました(笑)

たまには「釣りタイトル」っぽいのもいいかなあと...

僕はそもそもファッションに興味がないということと古着が苦手ということでオークションやフリーマーケットには殆ど興味がないのですが、仮に僕が使うのなら洋服のレンタルサービスみたいな使い方をするだろうなと思ったので、そのアイデア?を紹介したいと思います。

 

「この車のお値段は○○ですが、3年で下取りに出して頂ければ××円ほどで下取りさせて頂くので、実質の負担は△△円(元の値段から下取り価格を引いたもの)です。

昔、こんな車の営業トークを聞いていて上手いなと思ったことがありました。

確かに、買って終わりと考えたらその値段自体が負担額ですが、下取りを前提に考えたら、実質の負担額が変わってきます。

仮に300万円くらいの車があったとして、中古車の買取市場で150万円くらいで取引されていたとしたら、実質的には150万円の負担で購入できると考えられます。

車の場合は長く乗るので、その間に車体の劣化や人気の低下、或いは売る時に仲介者を挟む分だけ色々なリスクがありますが、逆に言えば、①商品の劣化が殆どなく、②人気が維持された状態で、③マージンをとる仲介者を挟まなければ、殆ど購入時と同じ値段で売却することができ、商品を購入する際の実質的な値段はほぼゼロに抑えられるのではないかと思うのです。

で、①〜③の条件を満たしやすいのではと思ったのがメルカリです。

例えば5万円のジャケットが非常に人気があって、多くの人が出品していたとして、その商品を購入して2、3回着て、他の出品者と比べてほんの少しだけ安い値段(ここでは49500円とします)ですぐに出品して購入されれば、実質負担金は500円(+送料)で5万円の服が楽しめることになります。

しかもケータイ払いとかにしておいて引き落とし日までに商品を捌けるように計算しておけば、自分の懐は痛みません。

こんな風な方法をずっと回し続ければ、ほとんどフリマアプリをタダ同然で好きな服を借り放題のクローゼット的に利用することができるのではないかと思ったのです。

 

ここからは僕ならこうやるという方法を書いていきたいと思います。

まず、改めて出品した時に売れなければ元も子もないので、ざっと見て多くの人が出品していて、且つよく購入されている洋服を探します。

そして、その中から自分が着たいものを選んで購入。

家に届いたらまず始めに商品の写真を撮って、その場で商品を出品してしまいます(相場と比べてほんの少し安い値段に設定)

そして、購入者が決まるのを待ちながら1回か2回その服を楽しんで、購入されたら即梱包して発送。

(届いた箱とかも全部残しておいて、それをそのまま利用します。)

どうせ平日は仕事なので、ちょうど商品が週末に届くように調整して、土・日にその服を使用、月曜の朝には新たな購入者に発送みたいなルーティンにします。

 

仮に送料や購入時と売却時の値段の差で1回あたり1000円かかるとして、5万円の服であれば着る回数が50回未満であればこちらの方法の方が得になります。

実際に(仮に休日にしか着ないとして)一つの洋服を着る回数は、ワンシーズンあたり10回くらいではないでしょうか?

それなら、同じ値段の服の中から毎週着たいものを選んで購入&即売却のルーティンを回した方がいろいろな服を楽しめる分、特であるように思います。

ブランドの人気服を購入&即出品。

そして購入者が決まるまでの間に数回その服を楽しむというサイクルを回し続けるというのが、僕が仮にメルカリというサービスを上手く使おうと思った時にやるだろう方法です。

ただ、これが利用規約的に大丈夫なのかを知らなければ、実際にそんなに都合よく回すことができるのかの実証をしたわけではありません。

(そもそも、サービスをこういう使い方をするという考え方自体が受け付けないという人もいるかもしれません)。

あくまで僕の思いつきで、実現可能性は分からないから「悪用厳禁」としました(笑)

(こんな面倒なことする人はいないと思いますが)仮に実践してみる場合は、あくまで自己責任でお願いします。

 

 アイキャッチは「メルカリ」で検索したら出てきたメルカリ活用本。

絶対僕が書いたような「活用」法は載っていないと思う(笑)

 

 

aiko「カブトムシ」考察~語感で語りかける歌詞の構成とカブトムシを選んだワケ~

センター試験に代わって2020年度から始まる「大学入学共通テスト」。
今年の夏に国語の例題が発表されました。
そこで例題として出題されていたのは和歌の鑑賞文。
その和歌が「視覚情報」であるのか、「触覚情報」であるのかというような内容でした。

この文章を読んで以降いろいろなJ-POPについて、この歌はどの感覚器官からの情報をもって歌にしているのかという視点で色々な歌を聞いているのですが、そうするといろいろなアーティストの癖が発見されて、アーティストやその歌にいろいろ驚かされることがあります。
その中でも僕が改めて凄いと思った一曲がaikoさんの「カブトムシ」です。
もともと好きな曲ではあったのですが、「どの感覚からの情報を歌ったものであるのか」という視点で見たときに、「嗅覚情報」「視覚情報」「触覚情報」「聴覚情報」が散りばめられていて、そこから伝わる情報量に圧倒されました。
例のごとく著作権に気を配りつつ、あくまで解説が主になるように歌詞を見ていきたいと思います。

僕がこの歌について最も気になっているのは、1番のAメロの後半〈「どうしたはやく言ってしまえ」 そう言われてもわたしは弱い〉という部分です。
ここの「わたし」が言われる言葉が何なのかを、他の歌詞から得られる情報を元に考えていきたいと思います。
まず冒頭の〈悩んでる身体が熱くて 指先は凍える程冷たい〉についてです。
冒頭は「体温」という情報から始まります。
〈指先は凍える程冷たい〉という表現から、季節が秋の終わりから冬にかけてと考えられます。
(後に〈琥珀の弓張月〉と出てきますが、これが秋の季語ということも根拠の一因です。)
外の寒さにも関わらず、気持ちが高まって身体は暑いというのがここの状況です。
そして先に挙げた〈はやく言ってしまえ〉のセリフ。
主人公であろう〈あたし〉がaikoさん自身を投影していると考え、またその口調からも考えれば、〈はやく言ってしまえ〉と言っているのは男性であると考えることができます。
男性のこの言葉に、主人公は〈そう言われてもわたしは弱い〉とためらいを示します。
直後2回目のAメロでは「将来のことなんかより今が大切」という主人公の心情が歌われます。
そしてBメロに入って突如として出てくる「メリーゴーランド」。
もちろんこのメリーゴーランドが実際に遊園地にいることを示しているという見方もできるとは思いますが、僕は〈白馬のたてがみが揺れる〉という実際には起こり得ないことで幻想的な描写にしているこの部分を、気持ちや二人のこれからを暗示したものであると解釈しています。
言わずもがな、遊園地のメリーゴーランドは楽しいアトラクションです。
そこには二人で過ごした楽しい日々というものが重ねられているように思います。
また、なぜ数あるアトラクションの中でメリーゴーランドであるのかということを考えると、永遠に続くと思っていた日々が、クルクルと周るメリーゴーランドに重なります。
メリーゴーランドがゆっくりと止まろうとしている。
そこには、二人の楽しかった日々が終わることが暗に示されています。

そしてサビに入ります。
〈少し背の高い あなたの耳に寄せたおでこ〉
この一節から、二人の身長差や距離感が分かります。
そして耳に触れるくらいの距離に近づいたときに香る〈甘い匂い〉。
嗅覚情報が入ることで二人の距離感が改めて聞き手に伝わります。
そして、〈甘い匂い〉が感じられるほど彼に近づくとその後ろで流れ星が流れる姿を目にします。
ここは視覚情報。
こうした距離感の中で胸を痛めながらあなたのことは生涯忘れないだろうと思っている。
主人公の気持ちがストレートに語られて一番が終わります。

2番のAメロは四季をあえて2小節ずつ使ってゆっくりと表現されます。
四季は「巡る」ものであり、それをひとつずつ丁寧に回想している。
これは、1番のメリーゴーランドを受けての表現と捉えるのが適切でしょう。
メリーゴーランドとの繋がりも去ることながら、1番のAメロは「感覚情報」にも注目する点が多々あります。
〈春〉は〈鼻先をくすぐる〉ということで嗅覚の情報、空の青さを見て感じる視覚情報としての夏。
そして袖を風が過ぎる触覚情報として秋を感じ、最後にふと気がつくと冬になっている。
それぞれの季節を感じる感覚器官を変えているところも非常に上手いなと思います。

2番のBメロになると、〈息を止めて見つめる先には 長いまつげが揺れてる〉という視覚情報が登場します。
この表現からはまつげの揺れが感じ取れるくらい近くにいるということが読み取れます。
距離を示す表現が全くないのに聞き手に距離感を伝えてしまうaikoさんの表現力はさすがです。

〈少し癖のあるあなたの声耳を傾け〉
2番のサビで再び聴覚情報が歌われます。
Bメロのおかげで耳を傾けなければ伝わらないくらいの声の大きさに〈深い安らぎ〉を覚えている主人公が想像でいます。
そして再び〈琥珀の弓張月〉という情景描写が登場します。

弓張月とは、ちょうど弓のように見える半月のことで、大体一ヶ月の中で7~8日か、21~22日くらいを表します。

〈気がつけば真横を通る冬〉という表現と合致する日付を考えるとしたら、11月の下旬と捕らえるのが妥当でしょう。

(11月の7~8日では冬には少し早く、12月の7~8日では遅い気がします)
また、やや強引になってしまいますが、ここにも「満ちては欠ける」という月にメリーゴーランドや四季と同じモチーフを見出すことができなくもありません。
そして、〈生涯忘れることはないでしょう〉ともう一度続く。
改めてみてみるとそれほど言葉も多くないのに、その中でみごとに物語が表されています。

最後に、この歌について最も疑問に残る「カブトムシ」について。
何を思ってaikoさんは恋愛の歌に昆虫の名前なんて付けたのかということについて考えてみたいと思います。
この「カブトムシ」という題名を読み解く鍵は、aikoさんが想定している季節を考える必要があります。
冒頭でも述べた通り、「弓張月」は秋の季語。
また、1番に〈指先は凍える程冷たい〉、2番で〈気が付けば真横を通る冬〉とあることから冬の始まりくらいと考えられます。
カブトムシは冬を越せない昆虫として知られており、そんな虫に〈私はカブトムシ〉というように自分を重ねるということは、ここでもやはり「もうすぐ終わる二人の関係」を暗示しています。
止まりかけのメリーゴーランド、冬へ向かう四季の移ろい、そしてカブトムシ。
一見すると意外性を狙ったようにみえるタイトルですが、ここにもしっかりとモチーフが含まれて居ます。

歌詞の内容を全部見てきたところで、最初の疑問である〈「どうしたはやく言ってしまえ」 そう言われてもわたしは弱い〉という部分に書かれた「言ってしまえ」と主人公が言われた言葉について考えたいと思います。
ここまでの僕の解釈で見ていただいたとおり、僕は「カブトムシ」の随所に散りばめられている「近いうちに直面する別れ」の歌と考えています。
その観点から僕が思う主人公がっているセリフは別れの言葉。
皆さんは主人公がためらったのは、どんな言葉だと思いますか?

 

アイキャッチaikoさんの「カブトムシ」

 

カブトムシ

カブトムシ

 

 

芸術を見る理由と相対的に「科学」を見るということ

「芸術って見ているヤツが自分に酔っているだけでしょ?」
僕の大好きな友達がよく言っていることです。
もちろん僕が芸術を好きなことを十分に知った上での発言(笑)
別にケンカを売られたというわけではないですし、実際に僕自身そういう人も多いだろうなと思うのでこの意見についてどう思うということはないのですが、「芸術の意味」について考えてみることには価値があるように思います。
僕は芸術に関して、単なる趣味ではなく社会に価値を生み出すものであると考えています。
これは他のエントリでいつか書こうと思っている(もうどこかで書いているかも…)のですが、僕は現在は偶然近代社会の発展に適した「科学」の説明が馴染んでいるために科学が過度に重宝されていると考えています。
開国以前の日本を振り返れば、戦国時代ならば武力を持っていることが重宝されていたし、農業革命が起こった卑弥呼がいた時代とかならば来年度の食料を安定して手に入れるために天候をコントロールできる呪術的な力が重宝されていました。
こんな風に、その時代を構成する要素に適した「技術」がその時代には重宝され、産業革命以後の世界に適していたのが「科学技術」であったと思うのです。


社会を説明する方法にはいろいろあって、現状最も上手く世の中を説明していて、なおかつ現在の社会に馴染んだのが「科学」であるというというのが僕の考え方です。
世界を説明することに挑戦した結果最も上手くそれができたものが科学であるとしたら、未完成の他の説明、あるいはたまたま今の社会のルールにおいては脚光を浴びなかったロジックも多くあるはず。
それならば「科学」という説明の光にかすんだ別のさまざまな「説明」を知りたいというのが僕の個人的な興味のあるところだったりします。
こうした観点で見たときに、「科学」以外の様々な世界の説明の仕方の可能性が示されているのが芸術だと思うのです。
遺跡などの残った断片から文明を明らかにしていくのが考古学であるとしたら、僕にとって時代に埋もれてしまった世の中の説明のしかたを絵画や音楽から明らかにするのが芸術を見る理由だったりします。

音楽や絵画の世界では、今僕たちが生きている世界ほど「科学」が覇権を持っていません。
そのため、他の「論理」(この言葉自体が科学にねざしているのでここで使うのが適切かはわかりませんが)が数多く残っています。
例えば音楽の世界における科学はバッハが構築した平均律
(ひじょーにざっくりいえば)この中で音は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」名づけられ、これに「ド・レ・ミ」「ファ・ソ・ラ・シ」の間の音を加えて作られた12音を用いるのが現在の西洋音楽の基本です。
ただ、音が波であることを考えると当然この「区分」の間にも音は存在するんですよね。
その辺が民族音楽には残っていて、彼らの音楽は12音階とは違うロジックで確かに存在しています。
例えばアラビアの音楽なんかがまさにそう。
もちろんアラビアの音楽を12音階に当てはめてオリエンタルスケール(C D Eb F# G Ab B)なんて呼ばれ方もしますが、これは平均律でアラビア音楽を説明したものであって、微分音(#や♭では表せない区別)を切り捨てたとりあえずの「説明」です。
このように、一見正しい説明でも、特定のロジックで説明するために細部の情報を切り捨てられている場合があります。
これと同じ事が「科学」と実社会の関係においても存在すると思うのです。

絵画の世界において「科学」に相当するものを考えたら、それはレオナルド・ダ・ヴィンチが作った「透視遠近法」が該当します。
僕たちの目には近くにあるものほど大きく見え、遠くにあるものは小さく見えるという遠近法。
それに基づいて絵を描くときに、画面上の一点から放射状の線に沿って描くと「正しく」見える。
僕たちはこの遠近法を「正しい」と思っています。
でも、例えば太陽が空にある解きと夕方みると大きさが違うこともそうですが、必ずしも近いものが大きく見え、遠いものが小さく見えるとは限らないんですよね。
たとえば日本画を見ると、極めて平面に見えますし、エジプトの壁画をみると手と顔は横を向いているのに体は正面みたいなちぐはぐな人体が描かれています。
透視遠近法的な空間認識をする僕たちにとってはこうした絵は世界を正確に描写できていない「拙い絵」に見えてしまいますが、もしかしたら、それを描いた人たちにとっては実際にそこに描かれているように世界は見えていたし、そういう空間認識があったのかもしれません。
あるいは透視遠近法的な見方が根付いた社会を生きながら別の見方の可能性を模索したのがセザンヌのリンゴの絵やサントヴィクトワール山の絵の描き方やピカソやジョルジュブラックのキュービズムの絵かもしれません。
昔東大で出題された英文に、キュービズムが世界を正確に描いていないという批判に対して「君は『僕の絵のように正確に描いたらどうだ』と僕に言うが、君の奥さんはそんな小さなサイズでぺらっぺらなのかい?」と述べたピカソのエピソードが載っていたのですが、まさに僕たちが「正確」と思っている見え方は、偶然最も支持されてきた「見方」の一つかもしれないんですよね。

或いは経済学では現在新古典派の説明が主流となっていますが、世界を自分のロジックで説明しようとしたマルクス経済学みたいなものだってあります。
僕は現時点において「科学」が最も正確に世界を表現しているということに反論がなければそれよりも適切な説明が生まれてくるとも思っていません。
ただ、適応する範囲をごくごく絞った場合においては科学よりも正確に世の中を正確に説明しうるものはあると思うのです。
そして、現在の社会は産業革命以降の平準化・マス化の動きから細分化に向かっている。
その中では科学的な説明や合理的な思考ではない、全く違うアプローチの思考が役に立つ素地があるように思います。
芸術に触れると、こうした「他の世界の説明する可能性」に対する感度が開かれる。
これが僕の考える芸術を「学ぶ」意味です。
もちろん僕は科学的見方も論理的思考もむちゃくちゃ利用していますが、それとは別に全く違う「方法論」の可能性にも目を向けておきたい。
芸術に触れるのは、そちらの可能性に手を触れる行為だと思い、だからこそ安易に「意味のないもの」と切り捨ててしまうのは勿体無いのかなと思ったりします。
というのが、僕の「芸術を見てどうするの?」に対する回答です(笑)

 

アイキャッチは僕が一番共感する思考法をしておられる養老先生の本。

 

サービスとしての個別指導の抱える問題点をサプライサイドとデマンドサイドから考える

前回の続きです。

ここ最近、特に個別指導の戦略について色々考えています。

大量生産大量消費からニーズの細分化に向かってきた社会の流れに違わず、教育もニーズが細分化されつつあります。

特に僕の住む京都市には全国の市町村で7番目に多い53の高校があり、日本の中でもかなり教育の細分化が進んでいる地域といえます。

 

子供たちの学びの中心である学校教育が細分化されつつあるということは、当然塾業界にもその影響がきます。

何の雑誌か忘れましたが、教育についての特集記事を読んだ時、個別指導の需要が急速に高まっているということが書かれていました。

学校教育の細分化されていく現状を見れば、納得の結果です。

 

一方で、サービスを提供する側として個別指導という「商品」を見たとき、コスト面からもサービス面からも、まだまだ洗練されたサービスに落とし込めてはいない商材であると感ぜずにはいられません。

ここ最近、色々な塾のお話を聞いているのですが、やはりどの塾をとってみても、そもそもサービスの明確な定義やシステム化ができておらず、問題を抱えています。

市場のニーズに対して、提供する側のサービスの成熟が追いついていないというのが、あらゆる塾の本音だと思います。

 

個別指導というサービスを考えるとき、コスト面とサービス面のどちらで話を進めていくのかで全く議論が分かれる所だと思いますが、とりあえず僕はサービス面から何が必要かを考えて、それをコスト面の制約のなかで実現するというのが現実解であると考えています。

さらにサービスの側から個別指導をみたとき、サプライ側とデマンド側から考えることができます。

後者は比較的どの塾でも考えられています。

それに比べて手薄になっているのが前者の視点。

そもそも「自分たちはどのようなサービスを提供しているのか」という視点が決定的に欠けているように思うのです。

 

僕は個別指導の授業スタイルを考える上で、横軸に積極的介入と消極的介入を、縦軸にインプット重視かアウトプット重視かの基準を置いた次の図を考えています。

積極的介入/消極的介入というのは、どの程度子供たちを引っ張っていくかということ。

積極的介入は勉強の仕方や計画をこちらが提案して引っ張っていくタイプなのに対し、消極的介入はあくまで子供たちの勉強の補完をするイメージです。

ここに優劣はなく、どちらをとるのかは完全にニーズの問題です。

インプット重視/アウトプット重視の区分は書いた通りで、基礎が十分に定着していないからゼロから知識を教えて欲しいというニーズに応えるのがインプット型、基礎はできているから演出でアシストが欲しいというながアウトプット型です。

僕はこの軸で分けた4つの指導スタイルを①ティーチャー(積極的介入×アウトプット重視、②インストラクター(積極的介入×インプット)、③コンサルタント(消極的介入×インプット)、④チューター(消極的介入×アウトプット)と呼ぶことにしています。

当然①〜④のいずれにもニーズはあるので、そこにサービスとしての優劣はありません。

一方でサプライサイドに立ってみると、どうしても提供するサービスは①と④に偏ってしまいます。

どうしても1人ないし2、3人の生徒に対して1人の講師が必要な個別指導では、コストの観点からアルバイトに頼らざるを追えません。

そうするとどうしても提供できるサービスは偏りが生じてしまいます。

僕の肌感覚では、上の4区分に対するニーズの比率が①:②:③:④=25:25:25:25なのに対して、現在多くの塾で提供されている個別指導というサービスは①:②:③:④=35:5:20:40くらいな気がします。

で、サービス利用者からすれば②や③を求めているのにいざ入塾すると①や④のサービスが無理やり充てがわれミスマッチが起こり、一方でサービス提供者側の塾を見てみると確保した人材の育成やらホスピタリティやらで、ニーズが50%の所に供給が75%という明らかに供給過多な③と④というサービス提供という枠組みの中で食い合っている。

現在の個別指導はこの辺に本質的な問題があるように思うのです。

 

明らかにニーズの高まっている個別指導に対して提供者の側が最適解を見出せていないというのは大きなチャンスだと思います。

一方でそうした状態にも関わらず、少子化が叫ばれる反面で加熱する教育市場に押されプレイヤーはどんどん増えて、既にレッドオーシャンになってしまっている。

教育というとどうしても指導力と熱意みたいなフワフワした言葉で語られがちです。

だからこそ一歩引いた戦略が必要なのではないかと思ったりするわけです。

「王道」以外の、自分の得意な戦い方を知っておく

このブログはそもそもマーケティングや差別化を考えないということをコンセプトに運営しているのですが(というかそもそもただの趣味なので差別かも何もないのですが…笑)、一応僕も塾人としてご飯を食べている以上、塾の指導に関しては自分なりの差別化戦略であったり、マーケティングを考えたりしています。
その一貫として僕がよく考えるのが次の表です。

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今は競争心の欠片もない僕ですが、学生の時はかなり負けず嫌いで、アルバイトをしていた塾で一緒に働いていた先輩に勝つために戦略を練るために作ったのがこの表でした。
横軸に見ていくと、そのジャンルでどのような差別化をすればライバル、つまり同じく一緒に働いているバイトメンバーに勝てるか(笑)で、縦軸で比較すると、どこで競合と差別化を図るか、或いはどうやったら弱点を補うことができるかを分析できるようになっています。

当時の僕が行っていたのは1:2の個別指導と少人数の集団授業(表でいくと個人塾に該当します)でした。
僕がまずとった戦略は、個別指導で差別化を測ること。
指導力とサポートが穴だと考え、そこを徹底的に攻めることに決めました。
集団指導のために積み上げた予習や教材研究をそのまま個別指導に持ち込み指導力の面で差別化を、他の先生が授業が終わったらすぐ帰る(時給制なので当然です)中で、終わったあとも残って質問対応をするという形でサポート面の差別化をといった具合で、他の先生に勝とうとしていました。

当時の僕の姑息な戦略と幼稚な競争心はともかくとして、塾の先生にとって差別化を意識ことは非常に重要だと思っています。
同じ教室内で食い合っても意味がありませんが、他塾との関係を考える場合には特に重要です。
僕がお世話になっている塾の近くには個別指導塾から予備校まで10以上の塾があり、特にここ最近になって生徒の取り合いがはげしい地域になってきました。
そのため去年くらいから当時作った成分表をもとに、再び戦略を意識するようにしています。
まずは個別指導について。
どうしても個別指導は人件費がかさむため、殆どの塾で学生バイト頼みになってしまいがちです(ウチはなぜか専任講師がやたらと個別授業を持っていますが 笑)。
そこでこれまで投資してきた労力を活かして指導力で差別化を。
もう一つ、個別指導に関してはその性質上講師による授業外のサポートが薄くなるため、その部分をかなり意識的に増やしています。
それに加えてもともと1:1の指導体制をとっているため、[1:n]という体制の塾とはシステムの時点で差別化ができています。
その上で、ウィークポイントである指導力とサポート面で差別化をする。
これが僕の個別の(今の)基本戦略です。

集団授業の方では、サポート面と相互性をかなり意識的に差別化要因にしています。
僕のいる塾の周りは予備校・大手塾と個別指導塾がそれぞれ4つくらいあります。
逆に同じ系統の個人塾は殆どありません。
そのため、同業での差別化(横軸でウィークポイントを克服する戦術)はほとんど意味がないので、比較優位のあるサポート面と相互性を武器にするようにしました。
大学生のころの僕の授業は予備校の先生の授業をベースにしたもので、殆ど子どもたちとのインタラクティブなやりとりはありませんでした。
それをコミュニケーションの側に大幅に振り切って、相互のやり取りを意図的にとりこんでいます。
もう一つ、サポートという面も同じ。
アルバイトや有名な先生との事業委託契約では、どうしても授業外のサポートが薄くなります。
質問対応はともかく、作文の対策や学年を遡って復習をするみたいな個別対応は物理的に困難です。
そのため、常駐でなければ不可能なサポートをかなり意識するようにしています。

何をするときでもそうなのですが、僕の基本戦略は「優位な環境下で勝負をする」です。
全く同じ条件下で手数とスピードで勝負するのは(仮に勝てる場合であっても)好きではありません。
自分の得意な戦い方をしっかりと覚えておくことが大切なのかなあと思ったりします。

2017年京都女子大学公募推薦入試11/20「唐物語」現代語訳

公募推薦が近づいてきたので京都女子大学の問題集から一本現代語訳を作りました。

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。

また、ざっと訳したものなので、所々解釈の間違えがあるかもしれませんが悪しからず...

 

昔、眄眄という女が張尚書と結婚して、何年経っても露や塵のように片時でもお互いのことを裏切るようなことはなかった。花の咲く春の朝も、月の出る秋の夜も、一緒に舞を見て歌を聞き、二人で遊び戯れる以外はしなかった。
こうして睦ましく暮らしていたのだけれど、世の中は若い者にもまた年老いた者にも無常であることの恨めしさか、早くして夫が亡くなってしまった。女は、夫に先立たれたことを悲しみ、別れの涙は乾くことを知らなかった。姿・容姿・性格のどれをとっても非常に素晴らしく、世間の噂になったため、帝を始め色(恋)を好む男は皆熱心に言い寄った。女はそれを限りなくつらく感じていた。秋の夜に、曇りのない月が出ているのを見ても、昔亡くなった夫と見た月の光がまず思い出されて、
あの人と二人で見た月の光の方がまさっていたからなのでしょうか、夫が死んでから見るこの月は、同じ秋の月なのに心なしか寂しく見えてしまいます。
「命には限りがあるというのに夫に先立たれても尚、こうして生きながらえてしまう私身の薄情さはなんなのでしょう」などと思い、悲しみに暮れ、気持ちが乱れていた。
こうして月日も過ぎていくうちに、張尚書に建ててもらった高殿の燕子楼の中もすっかり荒れ果てて、床の上で一人寄り添う人もおらず悲しんでいる時は、夫が着ていた唐衣を取ってそれに触れてみるのだけれど、かつての香りさえすっかり消えてしまっていて、いっそう涙で褄を濡らす(妻が掛詞になっていますが、文脈上省略します)ばかりであった。
 唐衣を目にするとあなたに先立たれてから経た月日を思い出して、見るたびに恨みが深くなっていくようです。
こうして十二年を過ごした後、春を迎え、秋が過ぎ去った頃に、ついに女は亡くなった。

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唐物語 (講談社学術文庫)

唐物語 (講談社学術文庫)