新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



就活が始まった時点で圧倒的な差をつけるための思考法

「動き出す時点で準備を終えておく」

これは僕が学生時代に何かを行うにあたって結構重視していた考え方です。

社会に出るまで学生の勝負は(というか、ノルマが定められたあらゆる勝負が)、構造的にスタートとゴールの瞬間が一緒であることが少なくありません。

こういった勝負をする際に僕が意識するのが事前準備です。

 

僕は仕事がら大学生の方と関わることが多い(かつての教え子や仕事を手伝ってもらっている子など)のですが、彼らからもらう相談で多いものの一つが就職活動に関するお話です。

「どんなことをすればいいのか」「エントリーシートに何を書いたらいいのか」「面接がうまくいかない」etc…

こういった相談を受けたときに僕がいつも話すのが冒頭に書いた「動き出す時点で準備を終えておく」ということだったりします。

 

少し話が飛びますが、自分が所属する塾で働く大学生の子で、僕に指導法についてのアドバイスを求めてきてくれる子がいる場合、僕は必ず「ノートを持ってメモをする習慣をつけよう」というお話をします。

これには指導面で次の二つの意図があります。

 

①情報を残すことで指導を点から線にする

②細かな部分に気づける「細やかさ」を身につける

 

①に関してはそのままなのですが、とにかく気になったことやその日の指導を何でもメモに残しておくことで、前回の授業を振り返ることができ、それにより指導に繋がりが生まれます。

それだけでもコツコツ積み上げれば、指導力としてはかなり変わってくるでしょう。

②に関しては間接的な効果を期待したものなのですが、メモを取る意識を持つことで、さまざまなことを言語化する意識を持つことが期待できます。

そしてその意識があると、今まで以上に細かな部分を意識するようになる。

この意識が磨かれるとほかの人が気づかないような子供の変化や、また教材の意図にも気づけるようになるわけです。

 

こうした効果を意図してノート作りのアドバイスをするのですが、学生さんに関してこのアドバイスをするのにはもうひとつ意図があります。

それが、「就活のときの大きな武器を仕込む」ということです。

 

たいていの学生さんが就職活動を始める段階で志望動機やエントリーシートを書く必要性に迫られ、自己分析を始めることでしょう。

そしてそのときに性格診断を行ったり、自分のしてきたことや強みみたいものを振り返ることになります。

しかしながら、そのときに思い返すのはかなり抽象化された、そして自身の認知バイアスにより美化された情報です。

もちろん本人の中では鮮明に思い出しているつもりでも、経験した時点ほどのリアリティは持ちえません。

 

そんなときに役に立つのが自分の活動や気づきがメモされ続けているノートなのです。

そこには、ノートをとり始めたときから今までの自分のリアルな子供との関わり、取り組み、気づきが残っています。

それらを時系列で振り返れば、自然とエピソードも自分の取り組みも強みも見つかるはずです。

何よりほかの人が「今」はじめた就職活動に関して、ノートをとっている学生さんだけはすでに準備が終わった段階から向き合えることになる。

 

まさに冒頭で書いた「動き出す時点で準備を終えておく」という戦い方です。

通常の授業での効果はもちろんですが、僕がもっとも狙っているのはここ。

仮に一日5分ノートに気づきをまとめていたとして、1回生のときから3回生の9月くらいに就活を意識したとして、5分×約900日=75時間分の自己分析を行っていることにあります。

しかもその内容にはその瞬間の感情や気づきが記されており、今から振り返るのとは質の面でまるで異なります。

 

そんなわけでこれがよく僕が学生さんに行うアドバイスだったりします。

もちろんそんな意図は聞かれたときにいちいち伝えませんが(笑)

別にノートにメモする癖をつけること自体は誰でもできることです。

それだけで就活が始まったときの武器がひとつ手に入ると考えるとお得じゃないですか?

もし共感していただける学生さんがいたら、実践してみてください。

きっと、数ヵ月後、数年後、就活の場になったときにその強さが実感できるはずです。

 

アイキャッチは体系理解がバケモノ級に上手い川上量生さんのこの本。

 

 

静かできれいなディストピア

最近SNSを見ていて、「ミュート」という機能が非常に気になっています。

不快であったり面倒だと思ったフォロワーをそっと非表示にして視界に入らないようにする。

まだ直感にすぎないのですが、僕はこれがこれからの社会を象徴的に表しているような気がしています。

 

「きれいな社会」

 

僕はここ数年の動きを見ている中で、漠然とこんなキーワードを思いつきました。

「きれい」という言葉を使うとポジティブに聞こえますが、むしろ逆で、「汚い」「ずるい」「すねに傷がある」みたいなものを極端に嫌うというようなイメージです。

そしてそういった「過去の"汚れ"」は、これだけSNSが発達した社会では一生記録として残り続ける。

さらに、そういった人は「ミュート」という形で自然と避けられていく。

ここでいうミュートはSNSの機能としてのそれにとどまりません。

僕たちはミュートという機能を自然と使うようになったのと同じように、自然と面倒くさい人や事象に対して、それと積極的にぶつかり合う事はなく、摩擦を経験しながらわかり合おうとするでもなく、まして受け入れようとするでもなく、そっと距離をとって「臭いものに蓋をする」ようなスタンスを持つようになりつつある気がするのです。

 

「信用社会」というディストピア

 

10年代には、しばしば「信用」なる言葉がもてはやされてきました。

「彼はお金持ちではないが、信用持ちだからいざという時に人もお金も集まるのだ」

「1番いいものはお金では買えない」

「社会人にとってもっとも大事なのは信用の構築だ」などなど。

これからは「評価経済だ」なんていうのもそうでしょう。

たしかにその通りだと思いますし、そういう社会の良い面もあるとは思うのですが、とかく10年代はその正の側面にばかり注目されすぎてきたような気もします。

 

20年代は「信用」というものの煩わしさや胡散臭さみたいな負の側面が僕たちに突きつけられつつあるような気がするのです。

それはかつての村社会にあって、僕たちがウェブの登場で脱却できたと思い込んでいたものに近い気がしています。

僕たちは土地や血縁などさまざまなしがらみに縛られていた時と同様に、そこに存在していた貨幣以外のやりとりの正の側面を享受して、負の側面も知り始めたと思うのです。

 

ディストピアの生まれ方

 

ただし異なるのは印象の持ちようです。

かつての村社会では助け合いだとかおすそ分けだとかといった信頼で成り立つ「正の側面」は当然のものとして恩恵を感じない一方、伝統や風習、人間関係といった「負の側面」ばかりを認識していました。

一方で、ウェブが生まれ、SNSが発達した現代では、信用というポジティブな側面ばかりがスポットライトを浴び、ネガティヴな側面はあまり積極的に指摘されずにいます。

そうなると僕たちは後者を「当然のもの」として受け入れていくことになる。

その結果生じるのが、過度に空気を読むことや、他者の目を気にすることであり、ムラの空気を作る側の視点に立てば、それは「ミュート」のような機能を使用する姿勢になるのだと思うのです。

 

信頼のレバレッジが効く社会というのは、言い換えれば汚点のレバレッジも高くなる社会であるといえます。

信頼の価値が増えてきたからこそ、汚点を残す事を積極的に減らしていかなければならない。

それが僕がいう「きれいな社会」です。

まだ全然まとめられているわけではないので非常にざっくりとした内容ですし、論理の飛躍もすごい(というかそもそも論理として成立していない)内容になってしまいましたが、ジャストアイデアとして、ここに残しておきたいと思います。(というか、薄口コラムは元々そういうコンセプトですので)

 

アイキャッチは母性のディストピア

 

 

 

坂本冬美『夜桜お七』考察〜紅白の対比に込められた女性の気持ちを辿る〜


 桜の時期が来るたびに思い出すのが坂本冬美さんの『夜桜お七』。改めて歌詞を読み込むと面白いところが多々あったので、今回はこの曲を考察してみようかと思います。

 

〈赤い鼻緒がぷつりと切れた すげてくれる手ありゃしない 置いてけ堀をけとばして 駆けだす指に血がにじむ〉

こうスタートするAメロですが、入り口から複雑です。まず冒頭の「赤い鼻緒がぷつりと切れた」の部分からですが、Aメロの後半に「血がにじむ」とあるため、ここでは物理的に下駄の親指と人差し指の部分にある鼻緒が切れた事を表すと考えていいでしょう。歩いている時に「ぷつり」と切れてしまった下駄の鼻緒。

「すげる」は穴に何かを差し込む事。ここでは鼻緒を直してくれる事を表しています。「鼻緒をそれとなく直してくれる関係性」と考えたら、自然と相当深い繋がりがある人が想像されます。「すげてくれる手」と歌う事で、2人の関係性をさらっと伝えるのは、この曲の本当に凄いところだなあと。

「今までなら隣を歩いていた恋人がすぐに鼻緒を直してくれた。でも今はそんな「あたりまえ」だったあなたがいない。」鼻緒が切れるところから、こんな場面と心情が伺えます。

 

ただしもちろんこれだけではありません。この歌は自分への愛情が薄れてしまった恋人に対する未練を歌った曲。であるならば、ここの「赤い鼻緒」は「赤い糸」を暗示しているとも捉えられます。「赤い鼻緒」と始まる事で恋人がいかに大切な存在であったのか、そしてその関係性の終わりを示しているわけです。

 

続いてAメロの後半です。注目したいのは「置いてけ堀」という言葉です。辞書で引いてみると、この言葉には次のような2つの意味があります。

 

①(置いてけ堀)江戸本所の堀の名。釣りをして帰ろうとすると、水中から「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声がして、魚を返すまで言いつづけたという。
②他の者を残したまま、その場を去ってしまうこと。置き去りにすること。おいてきぼり。

 

もちろん解釈は人によるかと思いますが、僕はここでの「置いてけ堀」は①の意味だと思っています。本所七不思議に出てくる「置いてけ堀」を引くことで、主人公の未練を表します。

それを「蹴飛ばす」わけですので、ここでは未練を断ち切るという意味で捉えるのが妥当でしょう。主人公はまるで「置いてけ、置いてけ」と後ろからかけられる声のように思い出す恋人の未練を断ち切るために進もうとします。

しかしそうして未練を断ち切るために走る度痛むのが、血が滲んだ指先なわけです。下駄を履くと、どうしても親指と人差し指の間が擦れてしまいます。切れた鼻緒と、それでついた傷。ここでは未練を断ち切ろうと駆け出す姿と、駆け出す度にやっぱり思い出してしまう恋人との思い出を描いているわけです。

 

そしてAメロが終わると曲調がいきなりかわって登場するサビ。この曲は歌詞もさることながら曲としても非常に特殊な形態をとっています。グッと抑えたAメロの印象から一転してアップテンポになるこのサビ。ちょうど歌詞の内容も繊細に描かれていた心情描写が一転して、ストレートに男を待つ女性の情念が描かれるようになります。

〈さくら さくら いつまで待っても来ぬ人と
死んだひととは おなじこと〉

ここではストレートに待ち人が来ない事を恨む歌詞に。

 

〈さくら さくら はな吹雪 燃えて燃やした肌より白い花 浴びてわたしは 夜桜お七

僕は『夜桜お七』の1番のポイントはこの部分だと思っています。ここを理解しようとするためにはまず、童謡の『さくらさくら』と井原西鶴の『好色五人女』に出てくる「八百屋お七」を踏まえる必要があります。『夜桜お七』のサビでは〈さくらさくら〉と印象的なフレーズをあえて冒頭に、それも平仮名で持ってきています。

さらにメロディは童謡のそれに倣っている。

それだけでなく、似たメロディに乗せて、童謡では「はなざかり」である部分を「はな吹雪」として歌っている事から、作詞者はこの歌を想定しているはずです。というわけで童謡の『さくらさくら』の歌詞はこちら。

 

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り 
かすみか雲か 匂いぞ出ずる 
いざやいざや 見にゆかん

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう 
さくらさくら 花ざかり

 

弥生の空に満開に咲き乱れる桜を見たいというこの歌詞。『夜桜お七』に出てくる「散るはな吹雪」と対比すると、別れの印象が引き立ちます。さながら満開の桜に惹かれた昔の私と、思いが儚く散ってしまった今の私のよう。

さらには「花ざかり」だった私と、それをすぎて「散る桜」を浴びる私も対比しているようにも感じられます。童謡の「さくらさくら」を想起させることで、情念が一層引き立つというのが僕の解釈です。

 

もう一つ、おそらくモデルになっているであろう井原西鶴の『好色五人女』に出てくる「八百屋お七」を見ていきたいと思います。

「ならい風激しく、師走の空雲の足さえ速く、春の事ども取り急ぎ、餅突く宿の隣には、小笹手ごとに煤掃きするもあり。」

こう始まる「八百屋お七」の物語には、恋仲に落ちたが自分の前から姿を消した男に再び会うために、自らの家に火をつけた女性(お七)が登場します。お七はその罪から火あぶりに処せられるわけですが、『夜桜お七』に出てくる「燃えて燃やした肌より白い花」とはこれをイメージしたものでしょう。好きになった男性を忘れられずに家に火をつけてしまった八百屋お七。それと同じくらい恋人のことが今も忘れられない主人公が『夜桜お七』には歌われています。

男の思い出を振り払って前に進みたい。でもどうしても忘れられない。そんな事を散る桜吹雪の中で思い出す。だからこそ「そんな私は夜桜お七」なのでしょう。

 

そんなわけでようやく2番に(説明が長くなってすみません)

〈口紅をつけて ティッシュをくわえたら 涙が ぽろり もひとつ ぽろり

こう始まる2番のAメロ。再び落ち着いたメロディになるとともに歌詞の内容も繊細で内向的になります。主人公の女性は口紅を整えたときに先だった男を思い出します。

〈熱い唇おしあててきた あの日のあんたもういない たいした恋じゃなかったと すくめる肩に風が吹く〉

主人公の女性は口紅を整えたときに、男性の口づけを思い出します。そして昔の恋だと割り切るようなセリフが続きますが、直後に「すくめら肩に風が吹く」とすることで、これが精一杯の強がりであるという印象を強めます。そしてそんな女性を描いた状態で最後のサビに。

 

長くなりすぎたのと、著作権の関係で最後のサビに関しては要所だけにしたいと思うのですが、ここでは昔の思い出を思い出す主人公と、その思い出に「さよなら」を告げる姿が描かれます。

あれは二十歳の時の若い思い出だと言って男を忘れようとする。そんな女性が花吹雪に包まれる姿でこの曲は終わるわけです。

 

最後にもう一つだけ。

この曲に出てくる「色」について触れておきたいと思います。僕がこの曲に初めて興味を持ったのは、そこに使われている色の対比からでした。この曲には「赤い鼻緒」「血」「燃える火」「口紅」と強い赤色のイメージと、「肌」「白い花」ティッシュ」と白さを強調する2種類の色が登場します。

というかその2色以外は登場しない。

僕はここを「赤」には今の女性が抱える情念を、「白」にはかつての女性の純粋さを対比させているのではないかと思って解釈しました。

 

そんなわけで何重にも解釈の幅があって面白い『夜桜お七』という曲。

よかったら桜のこの時期に聞いてみて下さい。

みなさんはどのような解釈をしますか?

 

 

 

 

「令和の虎」で失敗する人と就活で失敗する大学生の共通点

最近Youtubeで放送されている「令和の虎」という番組にはまっています。

昔あった「マネーの虎」という番組の後継番組のような立て付けで、出資希望者が投資家の前に登場し、自分のビジネスプランを売り込みます。

そのプレゼンを受けて、投資家の眼鏡に叶えば資金を獲得でき、無理ならば話はなかったことに。

ときに投資希望者に対する鋭いツッコミが飛びます。

この番組を見ているとさまざまな勉強になる点があるのですが、その中でも投資獲得に成功する人とうまくいかない人の違いが非常に興味深いものでした。

 

ちょうど「令和の虎」にはまりだしたころ、立て続けにお仕事を手伝って貰っている大学生の子たちから、就職活動に関する話を聞きました。

一人は内定まで非常にうまく進み、もう一人はむちゃくちゃ苦戦したとのこと。

こうした二人の話を聞いていくと、二人の間に大きな違いがありました。

それは「面接」という場に対する向き合い方です。

うまくいった子と苦戦した子では、極めて対照的な点がいくつかあったのです。

そして、それは僕が「令和の虎」を見て感じた投資獲得に成功する人とうまくいかない人の違いと非常に近しいものでした。

 

失敗する人は面接を勝負の場だと考えて、うまくいく人は「面接」を関係性構築の場と考える

 

「令和の虎」でうまくいく人といかない人、そして就活でうまくいった学生と苦戦した学生を比べたときにはじめに感じた共通点はこれでした。

「令和の虎」の中で投資にこぎつけられる人は、事業内容や経歴などよりももっと根本的なところで、投資家の人たちの信頼関係の構築を非常に重視しているように見えます。

というか、うまくいかない人のほとんどが、「信頼関係を構築しよう」という大前提がないように感じられたのです。

特にそれは、「自分のアイデアは投資をいただける」という強い自信を持つような志願者ほど顕著。

そもそも企画力で「ねじ伏せよう」みたいな印象を受けるんです。

 

投資をして貰うということは、今後仕事のパートナーとしての関係を結ぶということです。

そしてパートナーとなるならば、事業内容うんぬんの前に、「人として信頼できるか?」が大事になってきます。

(だからこそ、「令和の虎」に出てくる投資家の方々は「信頼」という言葉を多用します)

うまくいく志望者の人たちはこうしたことが分かっているため、プレゼンやアピール以前に、投資家の方たちとの信頼関係の構築を非常に大事にしているんですね。

反対に上手くいかない人たちはその視点が皆無。

虚勢を張ったり、自分に都合のいい話ばかりをしようとしたり、ひどい場合は投資家を論破しようみたいな態度になる人まで出てきます。

「信頼関係の構築」という視点の有無。

番組を見ていると、これが非常に大きな要素となっているように感じます。

 

このことを、投資希望者から就活生に名詞を代えれば、就活でもまったく同じことが言えます。

就活が楽勝だったという就活生の話を聞いていると、圧倒的に面接を「信頼構築の場」と考えているような印象を受けました。

限られた時間の中で信頼関係を構築するにはどうすればいいか?

就活の準備にしろ、面接でのやりとりにしろ、その子の話からは「信頼」という意識がにじんでいました。

反対に上手くいかなかったという学生の話を聞いていると、面接を周囲との競争だとか、正解のある「お受験」だとか、自分のすごさで面接官を制圧するみたいなものであるように捉えているという印象を受けました。

なんというか、その子の準備や意図、戦略のことごとくがズレているみたいな(笑)(ごめん!)

「令和の虎」にしろ就活にしろ、この違いは非常に重要なんだろうなという印象を受けました。

 

 

失敗する人は説得しようとして、うまくいく人は納得してもらおうとする

 

これも「令和の虎」を見ているのと就活のエピソードを聞くのとで同じくらい強く感じたことなのですが、質問などの際、上手くいく人は相手の納得を目的にしているのに対し、上手くいかない人は相手を説得しようとしているように感じました。

「令和の虎」では投資家から論理的整合性の取れない部分や、見積もりが甘い部分に対して鋭い指摘が飛ぶことが多々あります。

失敗する人たちは、こうした質問に対して「反論」しようとします。

そして反論が上手くいかないから次の質問ややり取りの中で整合性が取れなくなり、どんどん追い詰められていく。

 

しかし、僕が投資家の人たちを見ている限り、「追い詰めよう」という意識はほとんど感じません。

むしろもっと無邪気に「分からないからもっと教えて」という印象です。

純粋に疑問に思ったから質問しているだけだとおもうんですよね。

それなのに志願者が何とか「反論」しようとして的を射ない発言をするため、どんどん「分からなく」なって、具体的なしつもんになってしまう。

一方で上手くいく人たちは投資家からの質問の意図を汲み、的確に捉え、正面から答えます。

投資家の人たちに「納得」してもらうことがゴールなんですね。

だから質問をした投資家の人たちは答えを聞くと「なるほど!」という答えになる。

たとえそれが「調査不足でした」という答えであっても、です。

 

就活の話を聞いていても、これと同じことがあるように感じました。

上手くいく人ほど、「ああなるほどね」と納得してもらおうという意識で面接の受け答えをしているように感じます。

だから面接が進むたびに自信がつき、質問に対する恐怖みたいなものを感じないのだと思います。

逆にいえば上手くいかない「説得しよう」とする人たちは、面接のたびに上手く行かず、より具体的な質問がとんでくる(そして多くの場合上手く答えられない)ため、面接が進むたびに自信がなくなってきたり、「面接が恐い」という印象を抱くようになる。

「説得」か「納得」か。

この違いも上手くいく人といかない人の非常に大きな違いに感じます。

 

 

両者を比べて気づいたことはまだまだたくさんありますが、文字数が増えすぎてしまうので今回はこのくらいにしたいと思います。

ただ、今回ここに書かなかったものも含めてどちらにも共通するのは、「人と向き合う」という感覚の有無が大事だなということと、そのことを自覚できている人は思いのほか少ないんだなあということです。

だから、特に就活とかだと、たったこれだけのことを意識するだけでかなり有利になるんじゃないかなあと思ったりします。

もし大学生の方でこれを目にした人は、この辺に注目しながら「令和の虎」を見るとともに、実際に意識して就職活動に取り入れてみてください。

 

アイキャッチは自己意識と他者意識

 



年の初めの未来予測

今振り返ってみたら、年始は毎年何かしら「年始らしい」ことを書いていたので、今年は僕が考える数年の展望についてまとめてみようと思います。

 

①コロナの社会とSFの世界

「その朝も目を覚ますと仮面をつけ,鏡に向かった。にせものの笑顔がそこにある。」

こう始まるすやまたけしさんの『素顔同盟』。

この作品には周りに「負」を与えないため、外に出るときは常に「笑顔の仮面」をつけて生活する世界が描かれています。

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/kokugo/document/ducu5/docu501/743.html

みんながニコニコしていれば人に不快を与えないという、「みんなが幸せになれる」ディストピア

2年前にコロナが流行り、マスクをすることが「当然」になったとき、僕の中で真っ先に思い出したのがこの作品でした。

コロナにかき回された一年を経て、ワクチンが普及し、第n波を経験した僕たちは、結果、今の生活をしています。

別にこの生活がいいとか悪いとかではなく、この期間での動向をみると、こうしたコロナが常態化した世界がスタンダードになるのかなあというのが現在の僕の予測です。

 

僕個人としては、コロナに関して、一貫して自然科学的な視点と社会学的視点があり、僕たちの生活が人間関係に縛られる以上後者の視点を無視できないという立場。

なので、「現状がいいと思うか悪いと思うか」ではなく、「現状がこうならばどうなっていくか」に対してのみ考えるようにしていました。

そういう視点に立つとき、僕の中で興味を持ったのが、90年代にアニメが公開された『攻殻機動隊』や、10年代にヒットした『PSYCHO-PASS』というSFアニメでした。

これらの作品には、あるテクノロジーや価値観が広がった世界では、人々はどういう行動選択をするのか?が描かれます。

僕はテクノロジーも環境要因も基本的には同じで、いい悪いに関わらず、それが常態化したなら僕たちはそこに適応すると思っています。

その前提に立つ時に、こうした「ある種の価値観が定着した世界での行動様式」を読み解くことが大事だと思うのです。

 

これらの作品には、新しいコード(規範)に適応した社会と、適応しつつも違和感を抱く人々が描かれます。

そして、ともに「違和感」が肥大して作品が展開していく。

嫌が応に適応した世界は、僕たちに少なからずストレスをかけ続けます。

当然コロナだってそう。

だとしたら、そのストレスの臨界点がどこかでくるのだろうなというのが僕の予想(それがいつでどういう形になるのかの予想は長くなるのでまた今度)

 

 

②「タコ壺化」と「イワシ化」の強化

脳科学者の茂木健一郎さんはゼロ年代に出版した『思考の補助線』という本の中で、専門家達が自身の専門領域とそのコミュニティに篭り、他分野への興味関心を抱かなくなる現象を、「タコ壺化」と呼びました(茂木さんの(特に近年の)主張に関しては賛否が分かれるところで、引用に迷いましたが、言葉として適当と判断したのでここでは諸々を踏まえた上で用います)

これはこの10年で、SNSの進化とも重なり、僕たち一般人にも言えることになったように思います。

僕たちは(無意識に)SNSで同質性の高い人々と関係性をもち、その同質性から価値観やスタンスを強化している。

と、同時に、特にこの数年で、自分とは遠い人々との関係性を断つことのできる機能は強化されています。

こうした結果、僕たちはますます本人の意図は別として、テクノロジー的に「タコ壺」に篭りやすい環境になってきました。

これはSNSの性質上避けられないことだと思うのです。

 

と同時に、SNSは特定の話題を見みつけ、一時的瞬間的に人々が集まりやすい環境を作り出しました。

中心なく人々が集まり、群れとなり、一定の期間を経たら去っていく関係を内田樹さんは「イワシ化」と呼びました(『評価と贈与の経済学』)が、この環境がこの数年で、ますます強化されているように感じます。

(僕はイワシよりももっと下賤かつ悪質でピラニアくらいに思っていますが)

 

おそらくこうした現象はSNSの構造的に持つもので、今後も強化されざるを得ないものなのかなあという印象です。

 

 

③身体性の相対的な価値の上昇

この数年、特にこの2年は、ヴァーチャル空間に対する僕たちの精神的ハードルを急激に下げた期間であったように思います。

仕事面を見ても、zoom会議、オンラインの書類管理、プライベートではUberやオンラインコミュニティetc...こういった変化は誰もが感じる所です。

 

ただしここで僕が注目しておきたいのは、これらは技術的の進歩により向上した利便性による必然的な進歩ではなく、外的要因によりせざるを得なかった変化であるという所です。

僕らはどこまで行っても肉体は現実にあります。

そして、今のデジタルテクノロジーが混合した「日常」は自らのインセンティブに沿ったものではなく、ある意味で半ば強制的に適応したものであるという部分。

もちろん理性ではその利便性に納得している部分がありますが、一方で身体的な部分を"誤差"として切り捨てている部分は少なくないと思うのです。

こうした部分に対する反動的な欲求は、そう遠くない未来にくるんじゃないかなというのが僕の予想です。

 

④場当たり的思考の加速とその限界

こちらはコロナ前、ITテクノロジーが普及したころからの事ですが、この数年でこの傾向が加速し、そろそろその限界が訪れるのではないかと思っています。

ITの利益の出し方は、その構造上、既存のシステムにある「なかぬき」を撤廃することと、地理的条件をゼロにする事で生じる「一極集中」というのが僕の味方です。

これは一見全体の富を増大させるように見えますが、上の前提に立つならば総合的な富はかわりません。

(長くなるので書きませんが、仮に富が増大「しているよう」に見えても、その対象が人であるならば、そこには"時間"という制約がある以上、限界はあります)

だからこそこうした技術が広がる社会では「速さ」が大事になり、僕たちは生産性だとか、速い適応みたいな戦い方に一気に舵を切ってきました。

ただし、価値の源泉が速さにあるのなら、それで得られる報酬には限界があります。

そして実際にその報酬の割合は逓減しているように思うのです。(好例がYouTuberなど)

 

こちらもここ数年で加速していて、そろそろ限界が来るんじゃないかなというふうに思っています。

 

 

以上、ひじょーーにざっくり僕の考えていることを書いてみました。

さて、これだけ書くとただのネガティブの排出だと言われそうなので、ここからは以上の考えを踏まえて僕が今考えていることをまとめたいと思います。

まず、僕のスタンスは①と②は社会の流れとして仕方がないことなので、この2点は利用するのが正解、そして③と④はシステム上過負荷になるので限界点を先回りすべしというもの。

①が変わらないのであれば、その捌け口になる、隙間を探し、イワシを扇動しつつ自身は蛸壺を守り②、③身体性と紐づいた、超長期的な戦略を張る④というのが、向こう数年で見た時の優位性のある戦い方なのかなあと思っています。

かなり漠然とした印象かもしれませんが、僕の中ではむちゃくちゃ具体的な方程式だったりします。

そんなことを考えあれこれ企み始めたのが去年の夏くらい。

ということで、来年の今頃に、ひとつふたつ形に出来たらと思いつつ、その答え合わせも兼ねて新年の日記としてみました。

皆さま今年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

浜崎あゆみ『Love song』考察〜浜崎あゆみの葛藤と覚悟〜

僕の興味がある人リストの中に入っているavex代表の松浦勝人さん。

昔テレビのインタビューを見た時から、底知れない目の奥の鋭さ?みたいなものが気になりずっとウォッチしています。

そんな松浦さんが一年ちょっと前にYouTubeを開設したのですが、そこにクリスマスの対談でスペシャルゲストとして登場したのが浜崎あゆみさん。

https://youtu.be/8tGd1sMtOYo

ドラマにもなったように、交際経験のあるお二人。

その会話風景を見ていて、どちらも普段見せないような相槌や暗黙の了解のような間のやりとりで見ていて非常に興味を持ちました。

 

と、同時に久しぶりに浜崎あゆみさんを思い出して、年末にかけてずっと聞いていました。

世代ということもあり、『M』『SEASONS』『Voyage』『HEAVEN』『dearest』etc...と、好きな曲が多い浜崎さん。

そんな中で僕の中で最も印象に残っているのが今回取り上げたい『Love song』です。

テレビで何気なく聞いていて流れてきたこの曲。

初めは「あゆの新曲だ」くらいに聞いていたのですが、出だしの声、そして歌詞を聞くうちに釘付けになっていったことを思い出します。

 

らしくない歌詞

〈わかるよ その気持ち 名前 呼んでみる時の 心が 死んでいくような 引き裂かれるような 気持ち〉

これはドリカムの『ねぇ』の歌い出しなのですが、当時作詞をしたヴォーカルの吉田美和さんは最愛の夫を失っています。

(当時そのタイミングでテレビで歌った時は堪えきれず涙を流していたほど)

そんな吉田美和さんが一年ほどしてようやく立ち直った表明として(と僕は解釈しています)発売したのがこの曲。

そしてそんな環境で書き上げた一曲が、まるで傷ついた人にそっと寄り添うかのような「分かるよその気持ち」から始まるものでした。

当時この曲を聴いて受けた衝撃は未だに覚えています。

 

そしてその数ヶ月後に耳にしたのが浜崎あゆみさんのこの『Love song』でした。

僕はこの曲にも『ねぇ』を聴いた時と同じ衝撃と、何とは言えない「悲しみ」と「やさしさ」を感じました。

ひと言でいうと「らしくない」。

 

それまでの浜崎あゆみのイメージは、僕の中で「人に自分の聴いてもらう人」だったのですが、なんというか、この曲を聴いた時の僕の印象は「弱さを受け止めてもらいたい」という感覚だったのです。

詳しくは後述しますが、とにかく、僕の中で今までとは違う印象の楽曲でした。

 

シンプルな構成と強すぎる歌詞

僕が初めてこの曲を聴いた時の印象は、「シンプルすぎる構成」というものでした。

j-popでは、Aメロ、Bメロ、サビという構成が一般的です。

そんな中でこの曲はサビとAメロの2部構成。

(石井竜也さんの『River』、THE・虎舞竜さんの『ロード 第二章』、久保田早紀『異邦人』とかがここに該当します)

メジャーのど真ん中にいるような浜崎あゆみさんの新曲としてはとても印象的でした。

 

さらに歌詞の内容です。

この曲はおよそ24連ある歌詞の半分以上の末尾に「否定語」が用いられています。

もちろん「〜ない」の韻を踏むための演出でもあるとおもいますが、『Love song』というタイトルの曲の中で、しかもあえて歌詞が強調されるようなシンプルな楽曲でこんなにも否定的な表現を多用するということに、かなりの「意思」を感じました。

 

浜崎あゆみの「挫折」と「覚悟」

そんなかなり特徴的な構成をとるこの曲は、次のように始まります。

〈愛のない 人生なんて そんなの 生きる自信ない 夢のない 人生なんて そんなの 想像したくない〉

表題で『Love song』と謳っているのに、すぐさま「夢」の話が出てきます。

ここでは「愛と夢のどちらかのを選ばなければならない」でも、「そのどちらかなんて選べない」

そんな印象も受けますが、引き続き歌詞を見ていきましょう。

 

〈歌のない 人生なんて そんなの 見当もつかない ゆずれない 想いがなけりゃ つまんない 意味がない そんなんじゃない〉

ここで、「歌のない人生なんて」と言われていますが、これは「夢」の具体化と考えて良いでしょう。

つまり主人公にとって「歌」は「夢」であり、それがない人生など考えられないということを歌います。

また、ここは前の蓮と同じメロディが繰り返されるAメロの部分です。

およそAメロ全体の3/4を使って、主人公は「愛」ではなく「夢」への想いを述べています。

そしてここから突然のサビへ。

 

〈守りたいものがありますか? 守り抜けるか不安ですか?〉

ここで聞き手への質問が来ます。

しかも急に出てきた抽象論。

この問いかけのヒントは次の歌詞にあるので、引き続きサビの部分を引用します。

 

〈傷ついてボロボロの あなただから 強さ知ってる〉

ここで、訴える相手に対する理解を示します。

その内容が「傷ついてボロボロのあなただから」というもの。

ここには、「自分もボロボロだからあなたの痛みも分かるよ。そしてだからこそあなたもその痛みが分かるよね」という印象を感じます。


〈大事な人がいますか? その人を大事に出来てますか? 失ってしまう前に 優しくぎゅっと抱きしめて〉

この部分はタイトルとサビの後半だけみると、一瞬「ギュッと私を抱きしめて」という自分の願いを叫んだように感じますが、前後の文脈を押されると意味が通じません。

ここは聴いてくれている人に対して「大事な人を失う前に大切にしてあげて」というメッセージと受け止めるのが自然でしょう。

(この歌詞の考察は後半で行います)

 

さて、例によって著作権への配慮で、2番のAメロから少しずつ省略していきます。

(全編はこちらをご覧ください https://www.kkbox.com/jp/ja/song/grisY25XGML57VbZ57VbZ0PL-index.html)

〈どうやら そう簡単には ことは運ばないらしい〉〈そんなに 何もかも全部 うまくいくなんて思ってない〉

2番目のAメロはこう歌ったあと、諦めたい時も来るかもしれないけれど、それでも想いは諦められないと続きます。

もうこの2番では恋愛の要素は感じられません。

感じ取れるのはとても強い何かしらの「決意」のようなもの。

 

そして2番のサビに入ります。

〈失ったものはありますか? それは置いてきたものですか?〉

例によって全ての引用はできませんが、2番のサビでは、そのサビ全てが上のような疑問形で8回繰り返されます。

その全てが「過去に対する後悔はないか?」というもの。

直前で「いっそ諦めて楽になろうか」という歌詞からすると、そうした時にどんな後悔があるのかという、強い確認のようにも受け止められます。

 

そして最後にAメロの歌詞が繰り返されて終わります。

唯一違うのは冒頭は「そんなんじゃない」だった終わりが「そうじゃない?」となっているところ。

わずかな変化ですが、これのおかげで印象はまるでかわります。

その辺も含めて全体の考察は次のところで。

 

浜崎あゆみのメッセージは何か?

以上のように、よくよく追いかけてみると疑問が多いこの歌。

ここではそれぞれ僕が疑問に思った点とそれに対する僕の解釈をまとめていきたいと思います。

 

・「そんなんじゃない」と「そうじゃない?」の違い

ここの部分を僕は「反発」と「共感」であると考えています。

始めと終わりに同じ歌詞を持ってきて、その終わりにこの二言をつけることで、前半は「愛と夢なんて簡単な2択じゃないんだ」と訴えかける印象を与えます。

一方、いかに悩んでいるかを曲の全編でこれでもかと歌いあげることで、最後の「そうじゃない?」は「わかってくれるよね?」というような印象になる。

(僕にはそう聞こえました)

この印象変化が曲の説得力を何倍にも強めているというのが僕の考えです。

 

浜崎あゆみさんにとっての「大事なもの」

浜崎あゆみさんは突発性難聴を患って、左耳が聞こえません。

僕がこの事を知ったのはこの曲の発売後でしたが、このエピソードを聞いた時、妙にこの曲に納得した事を覚えています。

歌手にとって耳は命のようなもの。

それが歌い続けたら聞こえなくなるというのは、僕らと重みが違います。

「歌を捨てて幸せな生活を選ぶか」それとも「歌手生命を捨てて歌を選ぶか」

まさに浜崎あゆみさんにとってはこんな2択だったのではないでしょうか?

 

命より歌をとった忌野清志郎さんや落語をとった立川談志さん。

反対に声を失って命をとったつんく♂さん。

アーティストの選択にはそれぞれありますが、そのどちらもが苦渋の決断です。

浜崎あゆみさんは「歌うこと」をとった。

僕にはこの歌にでてくる「大事なもの」とはこのことなんじゃないかなと思うのです。

 

「Love」か「Love song」か?

ここからは完全に僕の妄想ですが、そう考えるとこの曲のタイトルが、僕には「愛」(=幸せな人生)をとるか「愛の歌」(=歌手としての人生)をとるかという選択に見えます。

浜崎あゆみさんはその究極の2択から、「歌手としての人生」つまり「Love song」をとった。

そう受け止めたからこそ、僕にはこの曲がとんでも無く強い曲で、それ故にとんでもなく人を勇気づけてくれる曲に聞こえたんだと思います。

 

もちろん解釈は人それぞれですが、個人的には定期的に聴いて元気づけられるこの一曲。

皆さんはどう聴きますか?

 

 

 

 

「解像度」を学ぶのに参考になるコンテンツ10選

12月に入り、ありがたいことにたくさんのご飯のお誘いをいただき、その中で全然関係はない後輩からそれぞれ、「仕事で意識している事」を聞かれました。

で、僕の中では物事を正確に、より細かく受け止める方法ということで、「解像度」というものを意識しているのですが、それを話したところ、「じゃあそれはどう身につける?」という質問を貰いまして(笑)

確かになあと思いつつ、僕がしばしばいう「解像度」は、明確な鍛え方が言語化しづらい(したことがない)うえに、感覚としても捉えづらいなあと実感しました。

この問いを受けて改めて考えると、「解像度」は帰納的に学ぶものなんじゃないかなあと。

というわけで、ここには僕が思う解像度が高いコンテンツを片っ端からまとめてみたいと思います。

 

ノンスタイル石田明さんのm-1評価

https://youtu.be/dr2hinTN26A

ノンスタイル石田明さんが2019年のM-1グランプリを論評したものです。

それぞれの意図や視線、間などの考察が凄いです。

 

②赤星&新庄の盗塁談議

https://youtu.be/Dcc8Pl8uv1Y

全部が参考になりますが、特に9:50からの赤星さんの盗塁の工夫とその意図が秀逸です。

 

③料理人山本征治さん「プロフェッショナル仕事の流儀」

https://youtu.be/VreLF8DjfEA

料理人の山本さんが、新たな技術を模索する過程が見られます。

注目は12:55で、アク抜きを化学式の側面から仮説検証する姿が圧巻です。

 

葉加瀬太郎さんの微分

https://youtu.be/IxlV8JYWOcw

4:40秒のところから、葉加瀬太郎さんがシとドの間の音についての紹介をしています。

そして、その微妙な違いを音楽に活かすとどうなるかというところまでご自身で解説。

 

佐藤優樹さんのモーニング娘。メンバー評

https://youtu.be/eSkns9G-wXU

先日卒業されたモー娘。のエース、佐藤優樹さんのメンバー評価です。

歌やダンスに関して、メロディだけでなく全ての楽器のリズムや照明まで意識してパフォーマンスに昇華する佐藤優樹さん。

そんな解像度の人が人間を観察したらこうなるのかという実例です。

 

岡田斗司夫風立ちぬ。」評論

https://youtu.be/lcLHK2tgri4

岡田斗司夫さんがコマ単位で映画を解説しているコンテンツです。

全てのコマに意図があるという前提で分析する凄さがあります。

 

立川談志の落語論

https://youtu.be/Jhr19PLHgng

立川談志が演技指導をテレビで披露した場面です。

5:55秒からが圧巻で、上下の見せ方、声の意図などが凄まじいです。

 

⑧ベンジャミンザンダーのクラシックの聞き方

https://youtu.be/r9LCwI5iErE

天才指揮者、ベンジャミン・ザンダーが、クラシックの聞き方について講演をしたものです。

一音の違いがどういう意図を帯びるかを説明したものです。

 

ポケモンのバグの解説

https://youtu.be/IwhGdGATa68

ポケモンのゲームでなぜバグが発生するのかをゲームの仕方から説明した動画です。

仕組み分析としてこれ以上はないのではないかというくらいに凄いです。

 

⑩フルーツポンチ村上さんの俳句解説

https://youtu.be/2L3FpW-LhjI

フルポンの村上さんが俳句の意図ややり方を細かく説明しているコンテンツです。

どこに何を置くとどういう印象になるかを解説しています。

 

というわけで、10種類ほど僕が「解像度」を学ぶ上で参考になるなあと思うものを紹介してみました。

「解像度」は「気づく事」から始まると思うので、よかったら参考にしてみて下さい。

 

アイキャッチは世界の解像度