新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



年の初めの未来予測

今振り返ってみたら、年始は毎年何かしら「年始らしい」ことを書いていたので、今年は僕が考える数年の展望についてまとめてみようと思います。

 

①コロナの社会とSFの世界

「その朝も目を覚ますと仮面をつけ,鏡に向かった。にせものの笑顔がそこにある。」

こう始まるすやまたけしさんの『素顔同盟』。

この作品には周りに「負」を与えないため、外に出るときは常に「笑顔の仮面」をつけて生活する世界が描かれています。

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/kokugo/document/ducu5/docu501/743.html

みんながニコニコしていれば人に不快を与えないという、「みんなが幸せになれる」ディストピア

2年前にコロナが流行り、マスクをすることが「当然」になったとき、僕の中で真っ先に思い出したのがこの作品でした。

コロナにかき回された一年を経て、ワクチンが普及し、第n波を経験した僕たちは、結果、今の生活をしています。

別にこの生活がいいとか悪いとかではなく、この期間での動向をみると、こうしたコロナが常態化した世界がスタンダードになるのかなあというのが現在の僕の予測です。

 

僕個人としては、コロナに関して、一貫して自然科学的な視点と社会学的視点があり、僕たちの生活が人間関係に縛られる以上後者の視点を無視できないという立場。

なので、「現状がいいと思うか悪いと思うか」ではなく、「現状がこうならばどうなっていくか」に対してのみ考えるようにしていました。

そういう視点に立つとき、僕の中で興味を持ったのが、90年代にアニメが公開された『攻殻機動隊』や、10年代にヒットした『PSYCHO-PASS』というSFアニメでした。

これらの作品には、あるテクノロジーや価値観が広がった世界では、人々はどういう行動選択をするのか?が描かれます。

僕はテクノロジーも環境要因も基本的には同じで、いい悪いに関わらず、それが常態化したなら僕たちはそこに適応すると思っています。

その前提に立つ時に、こうした「ある種の価値観が定着した世界での行動様式」を読み解くことが大事だと思うのです。

 

これらの作品には、新しいコード(規範)に適応した社会と、適応しつつも違和感を抱く人々が描かれます。

そして、ともに「違和感」が肥大して作品が展開していく。

嫌が応に適応した世界は、僕たちに少なからずストレスをかけ続けます。

当然コロナだってそう。

だとしたら、そのストレスの臨界点がどこかでくるのだろうなというのが僕の予想(それがいつでどういう形になるのかの予想は長くなるのでまた今度)

 

 

②「タコ壺化」と「イワシ化」の強化

脳科学者の茂木健一郎さんはゼロ年代に出版した『思考の補助線』という本の中で、専門家達が自身の専門領域とそのコミュニティに篭り、他分野への興味関心を抱かなくなる現象を、「タコ壺化」と呼びました(茂木さんの(特に近年の)主張に関しては賛否が分かれるところで、引用に迷いましたが、言葉として適当と判断したのでここでは諸々を踏まえた上で用います)

これはこの10年で、SNSの進化とも重なり、僕たち一般人にも言えることになったように思います。

僕たちは(無意識に)SNSで同質性の高い人々と関係性をもち、その同質性から価値観やスタンスを強化している。

と、同時に、特にこの数年で、自分とは遠い人々との関係性を断つことのできる機能は強化されています。

こうした結果、僕たちはますます本人の意図は別として、テクノロジー的に「タコ壺」に篭りやすい環境になってきました。

これはSNSの性質上避けられないことだと思うのです。

 

と同時に、SNSは特定の話題を見みつけ、一時的瞬間的に人々が集まりやすい環境を作り出しました。

中心なく人々が集まり、群れとなり、一定の期間を経たら去っていく関係を内田樹さんは「イワシ化」と呼びました(『評価と贈与の経済学』)が、この環境がこの数年で、ますます強化されているように感じます。

(僕はイワシよりももっと下賤かつ悪質でピラニアくらいに思っていますが)

 

おそらくこうした現象はSNSの構造的に持つもので、今後も強化されざるを得ないものなのかなあという印象です。

 

 

③身体性の相対的な価値の上昇

この数年、特にこの2年は、ヴァーチャル空間に対する僕たちの精神的ハードルを急激に下げた期間であったように思います。

仕事面を見ても、zoom会議、オンラインの書類管理、プライベートではUberやオンラインコミュニティetc...こういった変化は誰もが感じる所です。

 

ただしここで僕が注目しておきたいのは、これらは技術的の進歩により向上した利便性による必然的な進歩ではなく、外的要因によりせざるを得なかった変化であるという所です。

僕らはどこまで行っても肉体は現実にあります。

そして、今のデジタルテクノロジーが混合した「日常」は自らのインセンティブに沿ったものではなく、ある意味で半ば強制的に適応したものであるという部分。

もちろん理性ではその利便性に納得している部分がありますが、一方で身体的な部分を"誤差"として切り捨てている部分は少なくないと思うのです。

こうした部分に対する反動的な欲求は、そう遠くない未来にくるんじゃないかなというのが僕の予想です。

 

④場当たり的思考の加速とその限界

こちらはコロナ前、ITテクノロジーが普及したころからの事ですが、この数年でこの傾向が加速し、そろそろその限界が訪れるのではないかと思っています。

ITの利益の出し方は、その構造上、既存のシステムにある「なかぬき」を撤廃することと、地理的条件をゼロにする事で生じる「一極集中」というのが僕の味方です。

これは一見全体の富を増大させるように見えますが、上の前提に立つならば総合的な富はかわりません。

(長くなるので書きませんが、仮に富が増大「しているよう」に見えても、その対象が人であるならば、そこには"時間"という制約がある以上、限界はあります)

だからこそこうした技術が広がる社会では「速さ」が大事になり、僕たちは生産性だとか、速い適応みたいな戦い方に一気に舵を切ってきました。

ただし、価値の源泉が速さにあるのなら、それで得られる報酬には限界があります。

そして実際にその報酬の割合は逓減しているように思うのです。(好例がYouTuberなど)

 

こちらもここ数年で加速していて、そろそろ限界が来るんじゃないかなというふうに思っています。

 

 

以上、ひじょーーにざっくり僕の考えていることを書いてみました。

さて、これだけ書くとただのネガティブの排出だと言われそうなので、ここからは以上の考えを踏まえて僕が今考えていることをまとめたいと思います。

まず、僕のスタンスは①と②は社会の流れとして仕方がないことなので、この2点は利用するのが正解、そして③と④はシステム上過負荷になるので限界点を先回りすべしというもの。

①が変わらないのであれば、その捌け口になる、隙間を探し、イワシを扇動しつつ自身は蛸壺を守り②、③身体性と紐づいた、超長期的な戦略を張る④というのが、向こう数年で見た時の優位性のある戦い方なのかなあと思っています。

かなり漠然とした印象かもしれませんが、僕の中ではむちゃくちゃ具体的な方程式だったりします。

そんなことを考えあれこれ企み始めたのが去年の夏くらい。

ということで、来年の今頃に、ひとつふたつ形に出来たらと思いつつ、その答え合わせも兼ねて新年の日記としてみました。

皆さま今年もよろしくお願いします。