新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



部屋を片付けられない事に対する偏差60の言い訳

先日、久しぶりに部屋の片づけをしました。

僕は基本的に部屋を掃除できない人間で、自分の部屋が汚くても全く気になりません(笑)

小さい頃よく母に「部屋をきれいにすると気持ちいでしょ」と言われたのですが、その感覚がまったくわかりませんでした。

今でも時々部屋をきれいにすると気持ちがいいかどうかということを考えることがあります。

部屋をきれいにすると気分がいいというのは相変わらず全く理解できないのですが、「なぜ部屋を片付けられないのか?」については、この前片づけをしていた時に、自分なりに納得できる理由が浮かんだんだので、掃除をしていた時に思ったことをまとめてみたいと思います。

 

部屋を片付けられる人と片付けられない人の違いは、その人の身体性の認識と関係があるように思います。

どこまで自分の体の延長としてとらえているかによって説明ができると思うのです。

僕らはどこまでが自分の体かと問われると、迷わず自分の髪の毛や手足といった「ヒト」として物理的に認識できる範囲で考えてしまいます。

しかし必ずしも細胞で構築された「ヒト」としての範囲が、自らの身体として認識できる境界ではないと思うんです。

たとえばプロのスポーツ選手は、その競技で使う道具を、まるで自分の体の一部であるようにラケットに触れたボールの感触を感じ取ったり、細かな操作を可能にします。

より明確な例は義手や義足をつけた人たちでしょう。

かれらの義手や義足は、物質としては明らかに人体の一部ではありませんが、それを自分の体として操作できる。

身体性というものは必ずしも物質としての「ヒト」が境界になっているとは言えないと思うのです。

 

僕たちが、同じ物質を見ても、汚く感じる場合とそう感じない場合があります。

唾がいい例です。

口の中にあるときは「汚い」だなんて微塵も感じないのに、吐き出したものを見た瞬間に、それを「汚いもの」として認識する。

自らの身体から切り離された瞬間から、僕たちは唾を汚いと感じるようになるのだと思います。

つまり同じ物質でも、自分の身体に属している間はそれを「汚い」とは認知されず、自分の身体から離れた瞬間に「汚い」と判断するようになるというわけです。

 

部屋を片付けられる人とそうでない人の違いは、本人の中で部屋をどのように位置づけているのかに由来するのだと思います。

部屋を片付けられる人は、部屋を身体と切り離して考えている。

一方で部屋を片付けられない人は、部屋を自らの体の一部かそれに近いものとしてとらえている。

自分の部屋の扉なり家の玄関なりが自分と外界の境界だと考えているのだと思います。

 

統計的な根拠はないですが、感覚的に片付けられる人とそうでない人を比べたとき、後者の方が圧倒的に人を家に呼ぶのを嫌う傾向にある気がします。

これは単に部屋が汚いという理由からではなく、部屋を自分の身体に近いものとして認識しているからではないかというのが僕の考えです。

部屋を身体の一部あるいはそれに近いものとしてとらえているから、そうでない人と比べて部屋の汚れが気にならない。

部屋に限らず、カバンの中や化粧台が散らかっているという人もいますが、その人にとってそこは身体性の高い場所であるということなのだと思います。

 

「天才の机は汚れている」ということをよく耳にしますが、これもその人物にとって机の上は自分の体の一部のように認知されているからではないでしょうか。

普通の人が頭の中で考えているものを、彼らは机の上まで拡張して利用している。

通常の人よりも考える面積が机の広さ分広がっていると考えれば、その分だけ頭がよく見えるのにも納得できるような気がします。

(「机が汚い=天才」という意味ではありません。天才→机が汚いという方向でのみ成り立つ法則だと思っています。)

 

部屋を片付けられない人たちはこんな風に自分の部屋をとらえているのだから、部屋を片付けられる人間がいくら「片付いていた方が気持ちがいい」といったところで伝わるはずがありません。

部屋を片付けられない人にとって、それは「片付いた方が気持ちがいい」と言っている人が自分の口の中の唾を汚いと感じないのと同じような感覚だからです。

だからって恋人や家族が汚部屋星人ではたまったものではないと思うので、注意するななんてことは言いませんし、片付けられないことを正当化するつもりはありませんが、少なくとも「部屋を片付けたら気持ちがいい」という理由は彼ら(僕ら)には全く響かないような気がします(笑)

 

およそ20年越しでなんというくだらない結論なんだろ。。。