僕自身は別に、ゲーム否定はではないので(分別付けられずにゲームばっかりやっているのは愚かだと思いますが)スマホゲームに熱中することに対する是非には興味がありません。
それでもスマホゲームについて取り上げるのは、コンテンツとしてかなり特徴的だと思うからです。
従来のプレステや任天堂が出すようなゲームには、そこにストーリーがある以上、エンディングがありました。
ゲームデータの入ったカセット自体を商品にしている以上、データ容量という物理的な制約ができるため、ストーリー物である以上、そもそもエンディングがないということなどできません。
スマホゲームが出るまでは、物理的にエンディングがないゲームなんて作れなかったわけです。
それがスマホゲームになると、データの入ったカセットを販売するというビジネスモデルとは全く異なるものになりました。
手持ちのスマホから、ゲームのデータが保存されているサーバーにアクセスしてゲームを楽しむため、運営側はどんどんデータをアップロードすることができます。
そのため、発表後にゲームの物語を伸ばすことができるようになりました。
(この辺はネットゲームでは一般的だったやり方だと思います)
別に技術やシステムの話をしたいわけではないのでこの辺に。。
こうしたビジネスモデルの違いは、作り手の意図に影響を与えます。
カセットを売るモデルの場合、作り手は早くゲームを終えてもらうようなストーリーを考えます。
次々にゲームを売り出す新たなゲームを買ってもらわなければいけないからです。
仮に圧倒的な面白さで、その作品さえあれば永遠に楽しめるみたいなゲームを作ったとしたら、ユーザーが次のゲームを買ってくれず、その会社は倒産してしまいます(笑)
ゲームデータというコンテンツを販売している以上、必ずエンディングにたどり着いて、次のゲームを買って貰えるような設計にするように意識が傾くのは必然なのです。
それに対して課金モデルをとるスマホのゲームは違います。
課金で収益を稼ぐということは、できる限り一本の作品で長く遊んで欲しいという意識が働きます。
長く遊んでもらえればその分、課金による収益が増えるからです。
つまり、収益を追求しようとすると、どうしてもエンディングのないストーリーになっていくというわけです。
カセットを売るタイプのゲームでは絶対に作るはずのない永遠に楽しめるゲームが、スマホゲームの場合はむしろ理想形といえるでしょう。
さて、スマホゲームが構造的に終わらないストーリーになるというように書いてきましたが、僕が面白いと思ったのは、そうしたゲームが人々に与える影響ではなく、むしろ終わらない物語というものが世界に入ってきたという現象です。
進撃の巨人の1話では、巨大な壁に守られた世界で平和な暮らしをし、そんな暮らしが壊れるなど信じて疑わない市民の姿が描かれています。
そして、突然一匹の大型巨人が壁を壊すことで、その「日常」が壊される。
壁の中で平和を信じて疑わない市民とはまさに「終わらない日常」を示しています。
そして進撃の巨人はその「終わらない日常」が壊されるところから始まります。
(この辺はキュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。:いまどきエンタメ解剖教室: 海燕のチャンネル(海燕) - ニコニコチャンネル:エンタメを参考にしています)
2010年代に入って、境界の外の世界が描かれるようになってきました。
(ハンターハンターはかなり前から連載していますが、具体的に新世界が出てきたのは2010年代後半です)
これは漫画作品の中で「終わらない日常」の外に目が向けられるようになってきたとみることができます。
そして、それと同じくらいの時期に、スマホゲームの中で「終わらない物語」のゲームが登場してくる。
「終わらない日常」の終わりを描き始めた漫画の世界と、「終わらない物語」を作り始めたゲームの世界。
僕にはこの二つの関係が印象的です。
進撃の巨人で終わらない日常の終わりを突きつけられて、それに熱狂しながらも、同時に終わらない物語を提供するゲームの世界にハマって行く。
そしてマンガの話はグループを越えた共通文脈にはならないけれど、ゲームの話はグループや学校を越えて話題になる。
「終わらない物語」にハマっていく子供たちというのが、何か現代の社会を象徴しているように感じます。
最近玲司先生ばっか。。
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