ヒッチコックの映画術と100ワニと暗殺教室の共通点
昨日も炎上案件としてブログで触れた『100日後に死ぬワニ』ですが、実は僕的にはマーケティング的な観点よりも、純粋にコンテンツ的な視点から面白いなと思っていたことがたくさんあります。
そのひとつが、「なぜ『100日後に死ぬワニ』はこれほど興味を持たれたのか?」という問いです。
僕はこの作品を1話目から見ていたのですが、正直日常が淡々と描かれる過程に関しては、そこまで面白さを感じていませんでした。
それなのについつい見てしまう。
「なんでだろう?」と漠然と感じつつも特に言語化しようとも思っていなかったのですが、下記のつぶやきを見て、そういうことかという気づきが得られました。
100日後に死ぬワニが本当に100日近く盛り上がってるのを見て、「ヒッチコックの映画術」は本物なんだなと改めて感心しっぱなしである。 pic.twitter.com/8n3mGeaqYI
— 工藤義智 (@yoshitomo_kudou) 2020年3月17日
このつぶやき主さん曰く『ヒッチコックの映画術』には下記のようなエピソードが書かれているそう。
(このつぶやきを見て即刻注文したのですが、現在まだ僕の手元に届いていないので伝聞形ですみません)
「いま、 わたしたちがこうやって話し合っているテーブルの下に時限爆弾が仕掛けられていたとしよう。
しかし、 観客もわたしたちもそのことを知らない。 と、 突然、 ドカーンと爆弾が爆発する。 観客は不意をつかれてびっくりする。これがサプライズだ。サプライズのまえには 、なんのおもしろみもない平凡なシーンが描かれただけだ。 では、 サスペンスが生まれるシチュエーションはどんなものか。 観客はまずテーブルの下に爆弾がアナーキストかだれかに仕掛けられたことを知っている。 爆弾は午後一時に爆発する そして今は一時十五分前であることを観客は知らされている。 これだけの設定でまえと同じようなつまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。 なぜなら、 観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。 スクリーンのなかの人物たちに向かって、 『そんなばかな話をのんびりしているときじゃないぞ!もうすぐ爆発するぞ!』と言ってやりたくなるからだ。 最初の場合は、 爆発とともにわずか十五秒間のサプライズを観客に与えるだけだが、 あとの場合は十五分間のサスペンスを観客にもたらすことになるわけだ。 つまり、 結論としては、 どんなときでもできるだけ観客には状況を知らせるべきだということサプライズをひねって用いる場合つまり思いがけない結末が話の頂点になっている場合をのぞけば観客にはなるべく事実を知らせておくほうがサスペンスを高めるのだよ。 『ヒッチコック映画術』
これを読んだとき、なるほどなあと思ったと同時に僕の『100日後に死ぬワニ』への興味が、これ以上ないんじゃないかというくらいにストンと自分の中に入ってきました。
(と、同時にヨルシカのヒッチコックを聞き直したらさまざまな発見があったのですが、それをここで書いたら千夜一夜物語みたいな入り組んだエントリになってしまうので、今回はやめておきます...笑)
『100日後に死ぬワニ』は、読み手にだけ最終話を予感させているため、そこに描かれる内容が日常であればあるほど緊張感が得られるわけです。
ヒッチコック風に言うのならサスペンスの王道を行っている。
僕はこの説明を見て、なるほどと思うのと同時に、『暗殺教室』のことを思い出しました。
暗殺教室もまさにこれと同じ構造だと思うのです。
『暗殺教室』に関しては以前、金八先生、ごくせんなどに触れつつ教師ものコンテンツの系譜としてこちらのエントリ(映画「暗殺教室」は金八・ごくせん系譜の熱血教師もの - 新・薄口コラム(@Nuts_aki))で書きました。
このエントリでは、各年代を代表する(と僕が勝手に思う)教師ものの作品を例に、作品に描かれる教師像が[憧れ→身近な存在→同じ人間→踏み台]と変化しているのではないかという説を書きました。
この文脈でいくと『暗殺教室』はまさに「踏み台」(言葉をもう少し綺麗にすれば超えるべき存在)としての教師が描かれた作品です。
『暗殺教室』では、冒頭で「卒業までに私を殺して下さい」と述べます。
これは「卒業までに私を超える人になって欲しい」という教える立場の人間のメッセージではないかというのが以前のエントリで書いた僕の仮説でした。
ヒッチコックの映画術に関して読んだ時、僕はこの「卒業までに私を超える人になって欲しい」という言葉には、『100日後に死ぬワニ』と同様に作品にヒッチコックが言うところのサスペンス的な要素を盛り込む装置としての意味もあるのではないかと思ったのです。
冒頭のこのセリフは「この作品は365日間を描いたタイミングで終わります」という宣言でもあるわけです。
『暗殺教室』では、冒頭に明確に365日後に教室に置いて主要人物である先生が死ぬということが明言されています。
もう少し言えば、「生徒たちは卒業する(大人になる)瞬間に先生を殺すしかない」という残酷な結末が読者に冒頭に伝えられる訳です。
しかし、当然そこに描かれる登場人物たちは、子どもであるからこそ、その残酷な結末について無自覚である。
『暗殺教室』はこうした設定のまま、金八先生やごくせんにも劣らない、先生と子供と絆を深める物語がいくつも描かれる訳です。
僕たち読者は、先生と子供たちで問題を乗り越える度に感動するわけですが、そうした感動を見せられる度に「最後の別れ」を考えることになります。
もちろん、それを思い出すタイミングはそれぞれの読者によるでしょうが、少なくとも18巻くらいからは作者がその事を意図的に読者に気づかせようとしている。
そして、最後には冒頭で提示されていた通り、「生徒たちの手で先生を殺す」というシーンが描かれる。
『暗殺教室』は単純に教育者として正面からみた面白さだけでなく、ヒッチコック的なサスペンスとしてのハラハラ感も内包しているように思うのです。
『100日後に死ぬワニ』も『暗殺教室』もそうですが、冒頭で死を宣告する事で話数を追うごとに読者には緊張感を抱かせる作品。
ヒッチコックが書いている通り、こうした手法は、読者をひきつけるかなり大きな効力があるように思います。