新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



超攻撃的太鼓持ちのすすめLV6〜「マウントおじさん」の捌き方〜

ある日僕はマウントおじさんに出会った

「いやっ、それは違う!」

「お前は若いから何もわかっていない!」

「だまって俺の話を最後まで聞け!」

明らかにこちらが年下だと思った瞬間に、横柄なタメ口で、威圧的な態度をとってくるような人って見かけたことがありませんか?

飲み屋のカウンターで一人で飲んでいたとき、親戚の集まりに出席したとき、会社の飲み会に付き合いでついて行ったときetc

取引先のお相手だったり、接客業の方でお客さんがこのタイプだったりするとさらにタイヘン...

特に若い人ほど、このタイプのコミュニケーションをする人と出会うと、精神を磨耗します。

僕は喋り方や姿勢が軽いのと、何より「人を小バカにした態度」が滲み出ているタイプらしく(実際に言われたことがあります 笑)、よくこう言った人に絡まれてきました。

バスの中で仕事の資料に目を通していたら唐突に怒鳴られたり...笑

僕は、このタイプのコミュニケーション手段しか取れない人のことを「マウントおじさん」と呼んでいます(性別関係なし)。

居酒屋やバスの中(笑)など、その会話への参加が自由な場であればそっと自分が去ればいいわけですが、親戚関係やまして仕事関係であったら、なかなかそんなことはできません。

 

マウントおじさんをいなす3つのテクニック①言ったふりアタック

 

マウントおじさんに出会ったときには、僕がよく使う手段に①言ったふりアタックと②教えてくださいレシーブと③大丈夫ですブロックというものがあります(笑)

①の言ったふりブロックとは、何か自分の意見を言っているような語り口で、実は何も言っていないという意見の言い方。

テレビのコメンテーターとかがよくやっているやつです。

マウントおじさんに対して自分の主張を強く発すると、往々にして否定する所から入られてしまいます。

(しかもその否定の根拠は論理的・道義的説明というよりは経験やこちらの幼さのような、反論不能な要因から)

そこで有効なのが、「Aでもあるし、Bでもある。」みたいな、何かしら意見を言っているような語り口で実は何も言っていないみたいな返し方なのです。

因みにここに「或いはCなのかもしれない。」と村上春樹エッセンスを加えると、さらに何か言っているっぽく聞こえます。

ここでのポイントは、内容はペラッペラでも、態度は自信満々にすることです。

自信がなさそうに言ってしまうと、「実は何も言っていない」ということがバレてしまうのです。

確固たる主張がなければあんなに自信満々に話すことはできないだろうと思わせる勢いで(さながら全力で打つバレーのアタックのように)相手に伝えることがポイントです。

これが1つ目の言ったふりアタック。

 

マウントおじさんをいなす3つのテクニック②教えてくださいレシーブ

 

②の教えてくださいレシーブは、マウントおじさんが自分の得意分野の知識でマウントを取りに来た時に有効な方法です。

僕は以前、「お前は塾で教えているくせに(当時は学生バイト)坂の上の雲も読んだこと無いのか」といきなり言われたことがありました(笑)

それが司馬遼太郎でも阪神タイガースでも長渕でもいいのですが、こちらの興味の完全な対象外のところで話を展開されたとき、マウントを取られた状態でその話が始まると、延々と説教の様な時間が始まってしまいます。

そんな時に有効なのが、この「教えてくださいレシーブ」です。

「そんな事も知らないのか」と威圧的に言われた際に、こちらがすかさず「えっ、それ教えて欲しいです」という返しをすると、相手は威圧者から教育者へと立ち位置が変貌しまう。

マウントおじさんが、教えてあげるおじさんになるのです(笑)

数学の絶対値と似ていて、威圧的度合いが大きい人ほど、教えてあげるおじさんになった時には親切に教えてくれたりします。

で、実際に知識を多く蓄えている人が多く、そう言った人の話は聞いていると楽しかったりするので、マウントを取られ続けるはずだった地獄のじかんが、楽しい時間に変わったりするわけです。

因みにここで、声色を上げること、口角をキュッとあげることと、目を輝かせることがポイントです。

これなしの、いかにもつまらなそうな態度からの教えてくださいレシーブは逆効果です。

相手から痛烈なマウントスマッシュが飛んで来ますので気をつけて下さい(笑)

 

マウントおじさんをいなす3つのテクニック③大丈夫ですブロック

 

言ったふりアタックと教えてくださいレシーブを使いこなして会話を盛り上げていると、だんだん気分が良くなって、相手から何か提案や要求が飛んでくることがあります。

「奢ってやるからもっと飲め」とか「もう一軒行くか?」とか「今度連れてってやるよ」とか...

もちろんそれが面白そうなら諸手を挙げて賛意を示せばいいのですが、必ずしもそのお誘いがこちらにとって喜ばしいものであるとも限りません。

かといって、そこでNOと拒否してしまえば、マウントおじさんのご機嫌はそこでまた曇ってしまいます。

そうならないためにも有効なのが、「大丈夫ですブロック」なのです。

大丈夫という言葉は、相手に拒否されたという印象をそれほど与えずに否定の意を伝えるのに有効です。

少し困ったような笑顔と胸の辺りで両手を小さく振るジェスチャーを加えるとより効果的(笑)

ただし間接的にでも相手を否定する大丈夫ですブロックは、言ったふりアタックと教えてくださいレシーブに比べて、使用回数を守る必要があります。

あんまりにも使いすぎると相手の気を悪くしてしまうので、気をつけなければなりません。

前で振っている手がタッチネットしないように気をつけなければなりません(笑)

大丈夫ですブロックで防ぎきれないときは、審判(居酒屋なら大将、親戚の集いなら自分の親、サークルなら仲のいい先輩etc...)に助けを求めましょう。

 

 

マウントおじさんというとネガティヴに聞こえるかもしれませんが、僕は(ここまでこき下ろしておいてなんですが)そう言った人たちとのコミュニケーションが意外と好きだったりします(笑)

全く興味の畑が違う人との話が盛り上がると、全然知らない知識を得ることができて、それが非常に楽しかったりするのです。

なんていうか、ETと出会ったみたいな...

自分と価値観が合う人や、自分を分かってくれる人との話も楽しいのですが、こういう、全くフィールドが違う人の懐に飛び込むみたいな会話は、そこにしかないスリルや楽しさがあるように思います。

そういった楽しさを味わうために便利なツールが上にあげた①言ったふりアタックと②教えてくださいレシーブと③大丈夫ですブロックなのです。

言い方はおちょくったように聞こえるかもしれませんが(それは僕の品性の問題)、あくまで相手の話を引き出すための手段としてのアタックとレシーブとブロックです。

みなさんもよかったら用法・容量を守って使ってみて下さい(笑)

 

 

アイキャッチは僕がマウントおじさんバレーボールの元ネタにしたものの1つ、山田玲司先生の「モテない女は罪である」です。

本当にタイトルがひどいと思う(中身はむちゃくちゃいいです!)

モテない女は罪である

モテない女は罪である

 

 

 

Mr,Children「HERO」考察~守るものを持った大人にとってのヒーロー像とは何か?~

昔聞いた曲を改めて聞いてみると、大人になって初めて意味が分かる曲があります。
僕にとってミスチルの『HERO』はその代表でした。
小さい頃、母が運転する車の中で何気無く聞いていたこの曲に出てくる「君だけのヒーローになりたい」という歌詞(言い回しは違いますが…)。
大人になって多少経験値を積んだ今だからこそ、桜井さんが言いたかったことが分かるような気がします。

〈例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ〉
桜井さんがこの歌で描いた「ヒーロー」はこうした弱音をこぼすところから始まります。
僕たちが頭に思い描くヒーロー像は、ナルトやルフィや孫悟空みたいな、自分の何を犠牲にしても世界を守ろうとするカッコイイ存在です。
それこそ、「誰か一人の命と引き換えに世界を救える」なんて言われたら真っ先に名乗りをあげるようなタイプです。
間違えてもこの歌に登場する主人公のような弱音ははいたりしません。
大人になった主人公はもう、そんな大それたことはできないと言う。
その理由は続くBメロで語られます。

〈愛すべきたくさんの人たちが 僕を臆病者に変えてしまったんだ〉
守るべきものが増えすぎてしまった自分にはもう、世界のために命を掛けられるようなヒーローには自分はなれないと主人公は語ります。
たしかに、少年マンガに描かれるような世界のために全てを掛けられる主人公には、守るべき存在がいないことがほとんどです。
(もしくは、いたとしてもないがしろにされています 笑)
ヒロインに「行かないで」と言われるのを振り切ってそれでも世界のために戦いに行くのが少年マンガの王道ストーリーです。
しかし、実際に「守るもの」ができてしまえば、当然そんな風に振る舞うことはできません。
この曲では、そんな等身大の一人の男の姿が描かれています。

〈小さい頃に身振り手振りを真似てみせた憧れになろうだなんて大それた気持ちはない〉
守るべき愛する人を抱えた主人公はサビでこう言います。
自分は子どもの頃に憧れたようなヒーローみたいになろうとは思っていない。
しかし、ここに描かれる主人公は弱虫でも卑屈な人間でもありません。
そこには確固たる意志のようなものがあります。
〈でもヒーローになりたいただ一人君にとっての つまずいたり転んだりするようならそっと手を差し伸べるよ〉
守るべき人ができた主人公は、その人にとってのヒーローでいたいと願うようになります。
しかもそれはその人を導きたいとか、そういった類の存在ではなく、つまずくようなときにそっと助けられるような存在です。
小さい頃は世界を救えるような存在になりたいと思っていた男が、大切な人ができて、その人を守れる存在になりたいという心情に転換する。
これはハネウマライダーにも出てきたモチーフですが、HEROにも「愛する存在を経て大人になる」というモチーフが描かれています。
そして2番へ。

2番のAメロでは「命が軽く扱われる映画でなく、希望を見ていたい」と描かれます。
ここも大人の視点が描かれます。
ここでも大切な人ができて価値観が変わったさまが描かれます。
子どもの頃はたくさんの人が戦って死ぬような激しい映画にワクワクしていました。
でも大切な人ができて、守ろうと思った今は「希望に満ちた」絵を見ていたい。
そんな主人公の変化が描かれて次に続きます。

〈僕の手を握る少し小さな手 すっと胸の淀みをとかしていくんだ〉
「少し小さな手」はもちろん1番のサビに出てきた「守りたい君」でしょう。
守るべき君ができたことで、内面が澄んでいく様子が描かれます。
そして2番のサビに。

2番のサビは、人生の要所要所で起こるさまざまなイベントをフルコースに例えて始まります。
全部を引用してしまうと著作権的にアレなので、ポイントになるサビの後半を引用します。
〈時には苦かったり渋く思うこともあるだろう そして最後のデザートを笑って食べる君の側に僕はいたい〉
主人公が望むのは、最後のデザートを笑って食べる君の側にいること。
僕は「HERO」の中でこのフレーズが一番のお気に入りです。
この主人公は小さいころには自分がヒーローになりたいといっていましたが、大切ができた今は笑顔の君の側に寄り添っていたいと言っています。
自分は大切な人のためなら脇役でいいという気持ちに変化する部分って、大人になったからこそ分かる気持ちだと思うのです。

〈残酷に過ぎる時間の中で きっと十分に僕も大人になったんだ 悲しくはない 切なさもない〉
Cメロで自分の心境の変化を語ります。
「残酷に過ぎる時間」というのは様々なつらいことも経験してきたということの言い換えでしょう。
そしてその中で「大人になった」というのは価値観が変化していったということ。
様々な経験を通して主人公は「みんなのヒーローになりたい」という大きな夢は置いてきたのでしょう。
少年の頃思い描いた「夢」を捨てたからこそ、「残酷に過ぎる」や「十分に」「大人になった」という言い回しなのだと思います。
大人になって夢を捨ててしまうことは、ネガティブに受け取られることがあります。
HEROの主人公もそういった気持ちがあったからこそ、この言い回しなのでしょう。
しかし、続く歌詞の中で〈悲しくはない 切なさもない〉と、自分の「夢」を置いてきたことに対する後悔はないと言い切ります。
そして、〈繰り返されてきたこと〉と〈繰り返されていくこと〉が〈嬉しい〉し〈愛しい〉と続けるのです。
これまでも、これからも〈繰り返される〉というのは夢を捨てたあとの日常のことでしょう。
夢を追いかけている人から見たら、それを捨てて「普通」の生活を送る人は退屈な毎日にみえるかもしれません。
ここで「繰り返す」という言葉を使っているのは、そういった人から見える「退屈さ」を暗に示しているように思います。
しかし、そんな代わり映えない毎日が、主人公は〈嬉し〉くて〈愛しい〉と言うわけです。

そして最期のサビに。
〈ずっとヒーローでありたい ただ一人 君にとっての ちっとも謎めいてないし 今更もう秘密はない〉
主人公にとってのヒーローはみんなに憧れる存在でも、神秘的でカッコイイ存在でもありません。
等身大でかっこ悪くても「君」を守ることができる存在。
それが主人公にとっての一生貫きたいヒーロー像なのです。

大人になって守るものが増えて自由が減ってしまう様を、僕たちはついつい「あいつは守りに入った」と斜に構えてみてしまうことがあります。
しかし一生かけて守りたいものを見つけた人にとっては、そんな批判重々承知で、そうやって後ろ指さされても大切な人のために生きたいと思っているのかもしれません。
多分これは「守るべき人」ができた人にしか分からない感情でしょう。
どちらがいいという訳ではありませんが、そんな生き方もカッコイイななんて思ってしまいます。
みなさんは「みんなの憧れのヒーロー」と「君のためだけのヒーロー」の、どちらになりたいですか?

 

アイキャッチはもちろん「HERO」です!

 

HERO

HERO

 

 

一青窈「ハナミズキ」考察〜ハナミズキに込められた願いと見守る人の思いを読み解く〜

-君と好きな人が百年続きますように-

サビのこのフレーズが印象的な一青窈さんの『ハナミズキ』。

この曲を聞くと、「子を見守る母」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

僕もまさにそういう歌だと思って聞いていました。

しかしこの解釈だと、なぜ一人称が「僕」なのか等々、いろいろな疑問が湧いてきてしまいます。

その辺をあれこれ考えていたら、「そういうことか!」という解釈にたどり着いたので、僕の「読み方」をまとめてみたいと思います。

(あくまで「僕の」読み方なので、的外れかもしれません...笑)

 

川と蕾は何を表しているのか?

〈空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい〉

子どもが空を見上げて手を伸ばす風景から始まるこの曲。

空を「押し上げる」ようにと例えられた描写からは、無邪気に遊ぶ子どもの笑顔が頭に浮かびます。

そんな「君」に対して、「どうか水際まで来て欲しい」と頼む主人公。

僕は、ここで自分から駆け寄るのではなく、「近くまで来て欲しい」と頼んでいるのが1番のAメロのポイントだと思っています。

水際まで来て欲しいということから、君と主人公の間には水(おそらくは川)が流れていて、主人公自身はそれを越えていけないということが分かります。

自分では向こう岸に渡ることの許されない「川」といってはじめに思い浮かぶのは、あの世とこの世の間に流れる三途の川でしょう。

「水際まで来てほしい」けれど、「こっちまで来てほしい」ではないこともポイントです。

主人公はすでに亡くなった人(おそらく親?)で、幼いわが子を見守っているのでしょう。

そして何か伝えたいことがあって、できれば声が届く、手の届く範囲まで近づいて来てほしいと頼んでいる。

そんな風景が頭に浮かびます。

そして続くBメロ。

 

〈蕾をあげよう 庭のハナミズキ

前の「水際まで近づいて来てほしい」と君に頼んだ主人公は、庭に咲いたハナミズキの蕾を手渡そうとします。

ハナミズキは「ずっと続くこと」や「私の思いを受け取って欲しい」という花言葉を持った花です。

そして主人公はその「蕾」を君に渡そうとしています。

もちろん「蕾を摘む」という表現はネガティヴな解釈も不可能ではありませんが、ここでの蕾は未来を象徴しているものと読むのが妥当でしょう。

(この理由は3番に出てくる「ミズキの葉」という部分で説明します)

ハナミズキ」に込められた私がずっと続くようにと込められた「願い」が、サビでは描かれています。

 

〈薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年続きますように〉

「薄紅色の可愛い君」は冒頭に出て来た「君」のことと判断して間違えなさそうです。

まだ幼い君の夢が叶いますように、君が幸せでありますようにという願いが描かれています。

ここで気になるのは〈果てない夢がちゃんと終わりますように〉というフレーズです。

一見すると「夢」が「終わる」なんてネガティヴに聞こえます。

ここの解釈がこの曲を複雑にしている始めの部分だと思うのですが、僕はこの曲ができたきっかけが9.11のテロにある所に注目すると、次のように解釈するのが相応しいのではと思っています。

9.11で、日常を生きる中で突然命を絶たれた人が大勢いる。

君にはそんな事が起こらない、平和な世界でずっと夢を追いかけて欲しい。

だからこそ「果てない夢」が「ちゃんと終わる」なのではないかというのが僕の持論です。

そして、大切な人とずっと生きて欲しい。

愛するわが子の幸せな人生を願ってずっと見守り続けたいというのが主人公の願いであり、それを先述の花言葉を持ったハナミズキに託して君に手渡したのだと思うのです。

そして2番に続きます。

 

夏の描写が示す意図と僕の我慢の正体を読み解く

〈夏は暑すぎて〉

僕はここワンフレーズがこの曲の最も凄いなあと思う所だったりします。

ひとこと「夏は暑すぎて」と入れることで、時間が経過していることを示しています。

2番の冒頭で、季節が流れた事をさりげなく示すことで、この後の「成長していく君」と「見守る自分」という対比が明確になっていくわけです。

〈僕から気持ちは重すぎて 一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう〉

一緒に船を渡る事はできないと続きます。

ここで注意したいのは、1番の三途の川を思わせる水際と、一緒に渡れないという「川」は別物であるということです。

川といえば、「水」のほかに「流れる」というイメージがあると思うのですが、それを踏まえれば2番の冒頭で動き出した「時間」、つまり君の人生に寄り添っていく事はできないという意味で捉えた方が適切だと思うのです。

主人公は色々伝えたい事はあるし、思いは強いけれど、一緒にはいけないし、それを君に背負わせる事はできないという気持ちを君に伝えています。

 

そして2番のBメロ

〈どうぞゆきなさい お先にゆきなさい〉

ここで「私のことはここに置いて先に進んで欲しい」と君に伝える主人公の姿が描かれて、そのままサビに。

 

〈僕の我慢がいつか身を結び 果てない波がちゃんと止まりますように〉

僕がハナミズキの解釈で難しいと思う2つ目のポイントがここです。

「僕の我慢」と「果てない波」が何を指しているのかという部分が非常に分かりづらいのです。

というか客観的には解釈は不可能な気がします...

ということで、ここは僕の憶測(そもそもこの考察自体がお前の妄想やん!ってツッコミがあるかもしれませんが...)で解釈をしていきます。

僕がこのフレーズを見た時に真っ先に頭に浮かんだのが重松清さんの『その日のまえに』という小説に出てくる和美という人物でした。

和美はガンで亡くなってしまうのですが、最期を看取った看護師の方に「私の死後数ヶ月したら夫に渡して欲しい」と言って、一通の手紙を預けています。

その内容はひとこと「忘れてもいいよ」というもの。

和美は自分が死んだら夫が自分の影に引っ張られ続けるということが分かっていました。

だからこそ、自分が死んだあとしばらく経ったタイミングでその手紙を夫に渡して欲しいと頼んでいたのです。

その手紙を見て夫は少しだけ泣いて、「なんだよ」と笑った後、少しずつ前を向いて歩き出していきます。

ハナミズキに出てくる「果てない波がちゃんと止まりますように」というのもこれと同じで、いつか前を向けますようにという意味ではないかと思うのです。

そのために僕は夏を超さずにここに残ると言っている。

ここには、あなたが前を向いて歩き出せるように、私は思い出と一緒にここに残るよというメッセージが込められているような気がします。

だからこそ「僕の我慢」が「身を結ぶ」なのかなと思うのです。そして3番へと続きます。

 

主人公の正体は誰なのだろう?

〈ひらり蝶々を 追いかけて白い帆をあげて 母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉

「蝶を追いかける」からは元気な君の姿が浮かびます。

〈そして白い帆をあげて〉という表現からは真っ直ぐに進んで欲しいという思いが伝わる。

蝶を追いかけるというのは1番の出だしにあった空を見上げて元気にはしゃぐ姿と変わらない様子でというニュアンスで捉えるのが適切でしょう。

つまり季節が過ぎて、また春が来ても変わらない姿で元気に生きてほしいといった願いでしょうか。

そして、〈母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉と続きます。

僕がこの曲で最大の難所だと思うのはここの部分です。

 

パッと聞いた感じでは、「いつまでも変わらぬ幸せそうな姿で元気に過ごして、年に一度母の日に私を思って欲しい」という母の思いの様にも読めますが、それだと2番の「お先にゆきなさい」やこの後に出てくる〈待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ〉の意味が通じなくなってしまいます。

何より、それだと一人称が「僕」であった理由がなくなってしまいます。

 

それらの整合性を取ろうとすると、かなり大胆な解釈になってしまうし、必ずしも共感は得られないかもしれませんが、僕はこの歌が「父」の目線で描かれた曲なのではないかと考えました。

一青窈は幼い頃に父を亡くしています。

(そして、大人になった早い段階で母も亡くしている)

実はこの主人公は君のお父さんで、ずっと遠い昔から君の幸せを願っている歌ではないかと思うのです。

そうすると、「水際まで来て欲しい」と言って一瞬だけ会いたかった気持ちも、「一緒には行けない」と言った気持ちも、「我慢の正体」も何より一人称が「僕」である理由にも説明がつきます。

この前提でいくと、〈母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉というのは、「私のことは忘れてもいいから母に幸せにしてもらって欲しい」という気持ちと捉えることができる。

 

母の日に贈る「ミズキの葉」が意味するもの

僕がこう考えた最大の理由が母の日に贈るのが「ミズキの葉」であるという点です。

主人公は1番で「自分の庭」に咲いたハナミズキの蕾を主人公に渡しました。

そしてそれを受け取って成長していく主人公に頼んだのが、母の日に「ミズキの葉」を贈ること。

蕾はやがて花になるという意味で、君の成長を願うメタファーであると考えられます。

であるのなら「ミズキの葉」は、毎年成長していく君の姿自体だと思うのです。

毎年元気に生きて成長していくその姿をミズキの葉に託して、それを母に見せてあげて欲しい。

そういう思いが込められたのがこの3番の「母の日にミズキの葉を贈って欲しい」という歌詞の意味なのではないかというのが僕の解釈です。

そして、その幸せの中には自分はいなくてもいい。

そんな気持ちを込めた、君が小さい頃に亡くなってしまった父からの子を思う気持ちを歌ったのがこの『ハナミズキ』なのではないかと思うのです。

 

そんな風に読んでいくと、『ハナミズキ』という曲は何倍も深く感じられます。

もちろんこれは僕の多大な憶測に基づいた解釈なので、全く違うのかもしれません。

ただ、そんな風に自分なりの楽しみ方ができるのも、解釈の幅が広い曲の良さだと思うのです。

 

アイキャッチハナミズキ

ハナミズキ

ハナミズキ

 

 

 

斉藤和義「やさしくなりたい」考察〜具体描写と心情描写から登場人物のキャラを探る〜

ちょうど昨日、友人と話していた時に、内田樹さんの『街場の平成論』を踏まえて、ストレートに感情が描かれた曲VS感情が直接は描かれない曲みたいな話をしていました。

そんな話の中で僕が思い出したのが、斉藤和義さんの『やさしくなりたい』です。

この曲はタイトルに『やさしくなりたい』と感情が前面に押し出されたような描き方がされていますが、実は何に?どう?「やさしくなりたい」なのかということは描かれていません。

それを追おうとすると、いきなり地球儀を回して世界旅行とかをしだしてしまう。

直感的には「あなたのためにやさしくなりたい」みたいなメッセージに見えるのですが、主人公の心象を歌詞中のことばからキチッと拾い上げると、ずっと力強い一面が見えてくるので、その辺に注目しながら歌詞を見ていきたいと思います。

 

地球儀で世界旅行をする彼女ってどんな性格?

〈地球儀を回して 世界100周旅行 キミがはしゃいでいる まぶしい瞳で〉

非常に印象的な言い回しで始まるこの歌。

冒頭では、地球儀を回すことで世界旅行だといって楽しんでいる「キミ」が出てきます。

ここのキミに関しては、歌い手が男性であることと随所に出てくる「強くなって守ってあげたい」ということを匂わすフレーズから、女性と判断して問題ないと思います。

したがって、以下は「キミ=(主人公が大切に思っている)女性」ということで見ていきます。

このAメロの出だしには、「キミ」の人柄が描かれています。

キミは主人公と一緒なら、室内で地球儀を回ながら「世界旅行ごっこ」をすることさえも楽しめてしまう人として登場します。

この曲では、主人公の心情は直接的な希望という形でしかでてきません。

なので、性格を把握しょうとしたら、具体的な様子が描かれているキミとの対比で考察していくしかないのです。

その意味で、Aメロの冒頭はむちゃくちゃ大切です。

 

そしてAメロの後半。

〈光のうしろ側 忍び寄る影法師 なつかしの昨日は いま雨の中に〉

前半は楽しい日々の後ろに漠然と描く不安のようなものでしょう。

それが忍び寄ってくるのを受けての「なつかしの昨日」ならば、楽しかった日々、つまり、地球儀を回してはしゃいでいたキミとの日々と考えられます。

そして、今雨の中ということは、上手くいかなくなってしまったということ。

ちょっとしたことでも楽しんでくれるキミと、その生活が幸せだったけれど漠然とした不安を抱えていた主人公との気持ちのすれ違いが見えてきます。

そして、2人の気持ちにすれ違いが生じつつあるのなら、知りたいのは男性側の性格です。

ということで、Bメロ以降の心情描写から主人公の性格を考えていきたいと思います。

 

〈やさしくなりたい やさしくなりたい 自分ばかりじゃ 虚しさばかりじゃ〉

「やさしくなりたい」というのは希望です。

ということは主人公の現在の自己評価は「やさしくない」ということ。

そして、〈自分ばかりじゃ〉〈虚しさばかりじゃ〉という言葉の後ろには、どう考えても否定が来るのが適切でしょう。

否定を補えば「自分ばかりじゃダメだ」「虚しさばかりじゃダメだ」というようになります。

Bメロの言外の部分を並べると、主人公は「自分のことばかり、虚しさばかりを語って、(キミに)やさしくできなかった」と反省していると取ることができます。

 

〈愛なき時代に 生まれたわけじゃない〉

Bメロを受けてサビはこう始まります。

これまでの所で「自分ごとばかり」でキミを失望させてしまったのであろう主人公の心情を踏まえれば、ここは「キミのことが嫌いなわけじゃない」(というか好きだ)というメッセージとして捉えたらいいのかなと思います。

ただし、このなんとも歯切れの悪い言い回し。

主人公は直接「お前が好きだ!」と気持ちを伝えることができるほど器用ではありません。

だからこそ「愛の無い時代に生まれたわけじゃ無い」、つまり「好きって気持ちはあるけれど...」みたいな言い回しになるわけです。

主人公はキミに面と向かって「好き」って伝えるために、自分自身に対していくつかの条件を立てています。

それが続く〈キミといきたい キミを笑わせたい〉そして、〈強くなりたい やさしくなりたい〉です。

現状は「キミと生きられない」なぜなら「キミを笑わせられない(幸せにできない)」から。

そして、幸せにできるようになるために「強くなりたい」し、「やさしくなりたい」という意味だというのが僕の解釈です。

主人公はひたすら「今の自分にはキミを幸せにする力はない」から一緒にいられないと自分の中で思っています。

これがBメロにあった、「自分ばかり」で「虚しさばかり」という部分なのでしょう。

ここから、この主人公はまだ夢半ばで、キミを幸せにできるほどの余裕が無いのではないか?そしてそんな自分に猛烈に焦りを感じているのでは?という仮説が立てられます。

そんな仮説を踏まえて、2番を見ていきたいと思います。

 

〈サイコロ転がして1の目が出たけれど 双六の文字には「ふりだしに戻る」〉

僕はこの歌で1番凄いのがこのフレーズだと思っています。

まず、ここは主人公の心情のメタファーになっています。

〈サイコロを転がして1の目が出た〉は、一歩踏み出そうとしたこと、そして〈双六の目には「ふりだしに戻る」〉はやっぱり前に進まなかったということ。

ここには、前に進もうと勇気を出すけれど踏ん切りがつかない主人公が出てきます。

(因みに、ここでいう「一歩踏み出そうとするもの」は何かは最後に触れたいと思います)

その直後、主人公が想像する彼女の言葉。

〈キミはきっと言うだろう 「あなたらしいわね」と 「ひとつ進めたのなら良かったじゃないの!」〉

ここで、2度目のキミの描写が登場します。

キミは前に進まなかったことをネガティヴに捉える主人公に対して、「あなたらしい」「良かったじゃないの」と肯定的な言葉を投げかけます。

これがキミの性格。

キミはひたすらに主人公を応援してくれるし、いつでも、どんな境遇も楽しんでくれる。

だからこそそんなキミを主人公は好きだし、幸せにしたい。

〈キミはきっと言うだろう〉という、今目の前にいないキミを想像する主人公の言葉から、そんなことが伺えます。

 

そしてBメロではまた自分の心情に。

「我慢ばかりじゃだめだ」「誤魔化してばかりではだめだ」と自分に言い聞かせます。

ここで面白いのは、主人公の心情が1番のBメロと大きく変化している所。

1番では自分の態度に対する反省や後悔が描かれて、だから強くならなきゃといっていたのに対し、2番では自分の(おそらくキミが好きという)気持ちを抑えたり偽ったりする自分に対して強くならなきゃといっています。

明らかに気持ちの所在が変化しているのです。

そして2番のサビに。

 

〈愛なき〜〉は省略。

〈キミに会いたい キミに会いたい〉

ここでも主人公の気持ちが変化しています。

1番では「キミを幸せにしたい」というキミを守ってあげたいという心情だったのが、2番では自分の正直な気持ちへと変化するのです。

1番と2番を通してのこの変化を受けてCメロと最後のサビへと続きます。

 

〈地球儀を回して世界100周 ボクらで回そう 待ってておくれ〉

1番の冒頭ではキミが回しているだけだった地球儀を、主人公は「ボクらで回そう」といいます。

1番を通してキミを幸せにしたいという気持ちを整理して、2番でキミを幸せにしたいとかではなく、単にキミに会いたいんだと、自分の気持ちに素直になった主人公は、ここにきて「一緒に地球儀を回そう」つまり「等身大の幸せを過ごそう」という決意をします。

そして〈待ってておくれ〉と言って最後のサビに。

 

このサビは殆どが1番と2番の繰り返しなので、違う部分だけを見たいと思います。

最後のサビは、1番2番のサビが繰り返された後、〈手を繋ぎたい やさしくなりたい〉と結びます。

それぞれのサビでの主人公のキミに対する気持ちを並べると以下のようになります。

1番〈キミといきたい キミを笑わせたい〉

2番〈キミに会いたい キミに会いたい〉

3番〈手を繋ぎたい やさしくなりたい〉

歌が進むにつれ、明らかに主人公の意志が硬くなってきているのが分かります。

 

こんな曲展開になっているのが斉藤和義さんの『やさしくなりたい』です。

この曲はメロディが力強いので、ついついそのまま聞き流してしまいますが、実は登場人物たちの気持ちを追いかけると、非常に繊細な気持ちが歌われているというのが僕の解釈です。

(もちろん解釈は様々だと思うので、他の解釈があれば、ブログやnoteで紹介して下さい!)

 

アイキャッチはもちろん斉藤和義さんの『やさしくなりたい』

 

やさしくなりたい

やさしくなりたい

 

 

 

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV5〜太鼓持ちの基本スキル4つの「太鼓」を習得する〜

すっかり書き途中になってしまっていた「超攻撃的太鼓持ちの達人」シリーズ。

ちょうど今日友人たちと話している中でこの話が出てきたので続きをまとめたいと思います。

LV5からは実践編になります。

太鼓持ちというと、パッと浮かぶのは心にもないおべっかを言ったり、相手のことをひたすらに持ち上げる人だと思います。

もちろん通常の太鼓持ちはそうでしょう。

しかし、ここで目指しているのは「超攻撃的太鼓持ち」です。

普通の太鼓持ちとが、単に相手を持ち上げるのに対して、超攻撃的太鼓持ちは自分の「太鼓持ちのスキル」を使うことによって、相手を手のひらで動かすことを目指します。

相手は一見気持ちよく話しているように感じるのですが、実はそれらは全てこちらが計算の上でコントロールしている状態である。

これが、僕たちの目標としている「超攻撃的太鼓持ち」なのです。

 

LV5ではまず、相手に気持ちよく話してもらうためのスキルについて見ていきたいと思います。

僕は相手に話しやすくなってもらうためのスキルには、それぞれ難易度順に、①相づち、②ごますり、③合いの手、④ツッコミがあると考えています。

①の相づちとは、相手の話に対して「うん、うん」「へえ」「そうなんだ」といったように、きちんと反応をするスキルのことを指します。

ここに関しては、適切な相づちのタイミングと、持っている相づちボキャブラリの数が重要になってきます。

まず、相づちのタイミングが分からずなんとなく聞いているだけでは問題外なのですが、たとえ聞いていても、いつもおんなじ反応であると、相手に「きっとこの人は俺の話に興味がないのだろう」という印象を与えてしまいます。

そのため、適切なタイミングで適当なパターンを使いこなすことができるようになるのが①の条件になります。

 

これができるようになると、次は②のごますりというスキルが出てきます。

僕の「ごますり」の定義は、相手の話に対して好意的に受け止めていますという感情を乗っけた返答であるというもの。

相手の話に単に反応するのではなく、相手が気持ちよく話してくれるような好意や尊敬の念を込めた反応がここに該当します。

②で重要になるのはきちんと適宜感情を乗っけられていることです。

①の相づちには感情はいりませんが、②には感情を乗せることが不可欠になってきます。

相手の話に対して賛意を示し、心地よさを感じてもらえるようになるのが②のごますりです。

 

と、ここまでの「相づち」と「ごますり」を身につけた状態が通常の太鼓持ち

ここで終わってしまったら、している側はフラストレーションを溜め込むだけで、あまり健全なやりとりができません。

「超攻撃的太鼓持ち」を目指すには、③の合いの手と④のツッコミのスキルが必須になってきます。

③の合いの手とは、「ごますり」からさらに一段レベルアップして、相手が話をしやすいように、話の節々でアシストを入れるようなイメージの言葉のはさみ方をいいます。

例えば、話しているうちに相手がちょっと詰まってしまったり、話に淀みができてしまったときに、すかさず「例えばこういうことですよね?」とか「それってこういうことですか?」みたいな形で話のダレどころを作らないようにこちらからフォローに入る感じです。

複数人でいるときなんかだと、他の人にそれとなく話を振るみたいなものもここに入ります。

ちょうどゲストを活かす司会者さんのようなイメージです。

これができると、話している人が「なんだか今日はうまく話せているんじゃないか」と錯覚をしてくれて、ひいては「あの人といると俺はうまく話せる」みたいに思ってもらうこともできるようになります。

ここまでくれば、超攻撃的太鼓持ちにほぼ到達です。

 

さらに、その上で相手に主役を渡しつつ、その場の主導権を握りたいと思うのであれば、④のツッコミが重要になってきます。

これは、普通に話している相手の話に自分らしさを挟むことで、その人の話にエッジを聞かせるテクニックです。

(おそらく周りが感じているであろう)ちょっとした詰まりや違和感を身近なフレーズでツッコミという形で言語化してあげて、周囲の笑いのポイントを作る。

あるいは、相手が小ボケをかましても絶対に滑らないという安心感を持ってもらうために、ひたすら細かな部分にツッコミを入れてテンポを加速させて行く。

こういうコミュニケーションを、僕はツッコミと呼んでいます。

(これはお笑い芸人さんのそれと同じです)

 

周囲の先輩や上司、年上の人との会話が得意な人と苦手な人をみていると、概ね⑴①や②すらできていない人と、⑵①や②ができるからこそ疲弊している人と、⑶③や④をすることで非常に楽しそうにコミュニケーションをとっている人の3つの層があるように思います。

そして、たいていの場合③や④の接し方は才能やセンスと思っている場合が多い。

しかし、実際にはその辺は100%スキルと経験値だと思います。

「超攻撃的太鼓持ちのすすめ」とは、そうした⑶を自在にできるようになるためのマニュアル(というかきっかけ)を提示できたらなというもの。

次回以降ではさらに、僕がコミュニケーションおばけだと思う人たちを見ているなかで学んだ具体的な方法をまとめたい方いた思います。

 

アイキャッチは僕が授業のコミュニケーションの方法に悩んでいたときに何十回も見て学んだこの動画。

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メンヘラとワーカホリックと、4月に鬱になる理由

僕のお気に入りの本の一冊に、山竹伸二さんの『「認められたい」の正体』があります。

(多分このブログで「他にネタはないのか!」って言われるくらいに引用している本です 笑)

人の認められたいを満たすには周囲からの承認が不可欠なのですが、本書では①親和的承認と、②集団的承認という2種類の承認を紹介しています。

①の親和的承認とは、家族や恋人から与えてもらうタイプの承認で、何かの見返りでえるものではなく、決して尽きることのなく与えてもらえます。

一方で、家族や恋人といった特別な間柄であるからこそ与えられるものである親和的承認は、自分が望んだ時に臨んだだけ得られるものではありません。

②の集団的承認は、自分が所属する組織に対して何らかの貢献をすることで得られる承認で、こちらは自分が行動さえすれば欲しい時に欲しいだけの承認が得られます。

ただし、①とは違い自分が行動したことに対する承認であるため、集団的承認を得るには自分が貢献するという対価が必要です。

僕はこの2つの承認という考え方が非常に面白いなと思っています。

そして、この2つの承認という観点から見ると、ワーカホリックとメンヘラという2つの症状を言語化できると思うのです。

 

ワーカホリックとメンヘラの原因と共通点

 

ワーカホリック(仕事中毒)と精神的に不安定になるメンヘラという状態は、一見すると全く違うものですが、「承認」という観点で見た時、実はどちらも同じところに原因があると考えています。

つまりどちらも承認欲求のバランスが崩れることで起こる症状だと思うのです。

 

もともと人は親和的承認と集団的承認のどちらも求めています。

そして通常の場合、そのどちらもがバランスよく満たされている。

しかし、何らかの要因によってどちらか一方の承認が絶たれる(あるいは著しく減少する)と、人は満たされない「認められたい」という欲求を充足させようと、もう一方の承認で足りなくなった承認分までを満たそうとします。

これがワーカホリックであり、メンヘラであると思うのです。

 

何かの原因で得られなくなった分の親和的承認を集団的承認で補おうとして生まれるのがワーカホリックです。

彼らは無償の愛のように、本来は自分が何らかの行動を起こさずとも得られたはずの欲求が得られないため、その分まで仕事やサークルや趣味の仲間など自分の所属するコミュニティに奉仕することで親和的承認の不足分を補います。

そのため周りからみると、「非常に頑張っている人」や「仕事が大好きな人」に見えるわけです。

反対に、何らかの原因で仕事を始めとするコミュニティに所属できなくなってしまい、集団的承認が得られなくなってしまった分を、親和的承認で補填しようとする場合になるのがメンヘラです。

集団的承認は何かしらの貢献の対価として得られるものなので、その貢献ができなくなってしまえば、当然補給路は絶たれてしまいます。

その分を親和的承認で補おうとするのですが、前述の通り、この承認は周囲から与えられる贈与のようなものなので、こちらでその分量を調節することはできません。

だから、それを無理に得ようとして、相手は過剰な要求をしたり、時に(身体的精神的に傷つけるという意味で)自傷行為及んでそれらを集めようとするのです。

 

両者のアプローチと得られる承認の性質が違うため、ワーカホリックとメンヘラはまるで違う性質のように見えますが、「いずれかの承認の不足を補おうと無理をする」という観点で見れば、同じカテゴリの問題だと思うのです。

 

4月に鬱が増えるわけ

 

4月は気持ちが落ち込みやすい季節だなんて言われますが、ワーカホリックやメンヘラが、親和的承認か集団的承認が何らかの形で絶たれることで起きる現象であると考えると、4月に気持ちが落ち込む安いことも納得ができるようになります。

4月になると多くの人が職場や学校での役所や所属が変わる、もしくはそもそも一人暮らしになったり単身赴任となったりといった形で生活スタイルが変わります。

このときに、それまで得られていた親和的承認なり集団的承認が絶たれてしまうことが非常に多いのです。

例えばそれまでは家族と暮らしていたのに、突然4月から上京して一人暮らしになれば、当然それまで得られていた親和的承認はゼロになります。

それを満たそうとしても周囲に気のおけない友達も、趣味の合うコミュニティもなければ、それまで家族から得ていた親和的承認を代替する手段はありません。

手に入るのは会社や新たに所属したコミュニティで貢献することによって得られる集団的承認だけ。

そうなると過度にそちらを得ようとしてしまうわけです。

反対に、人事異動や学年が変わることで、それまで上司や周りのメンバーから得られていた承認欲求が得られなくなることもあります。

その今までは得られていた分の集団的承認が所属するコミュニティで得られないとなると、それを求める先は家族や恋人、親しい友達になる。

しかしいずれの場合もそれまで得ていた以上を求めるため、必ずそこには無理が生じます。

その負担に耐えられなくなった時に陥ってしまうのが、気持ちの落ち込みで、それがひどい時には鬱に違い症状になるのだと思うのです。

周りの人たちをみていると、どことなくそんな感じがします。

 

 

アイキャッチは何度目かわからないけど山竹伸二さんの「『認められたい』の招待」

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

 

自家発電型の社交性と充電型の社交性

仕事柄、僕の周りには社交的なタイプが多く存在します。
人に会う時はいつもニコニコして、相手を思いやり、率先して場の空気作りを行う。
こういう人は傍からみれば人くくりに「社交的なタイプ」にカテゴライズされると思うのですが、僕が見ている限り、その同じ「社交的」であっても、2つのタイプが存在しているように思います。
僕はこの2つの社交性を「自家発電タイプ」と「充電タイプ」と呼んでいます。
自家発電タイプは、人と時間を共有することが本当に好きな人たちのこと。
ここに属する人たちは、人といることが幸福であると共に披露の回復にも繋がります。
社交的な行為自体が自分の披露の回復要因にもなるので「自家発電タイプ」なのです。
もう一方の社交性である「充電タイプ」は、「自家発電タイプ」の人とは少し異なります。
充電タイプの社交性を持っている人も、基本的に人が集まる場が好きなので、そこにいることで幸福感を感じるのですが、一方で人といること自体に使うエネルギーが多きいため、その場にいることでエネルギーを消耗してしまうのです。
幸福感が満たされるから人といることは好きだけれど、いすぎると磨耗するから充電する時間が必要。
これが「充電タイプ」の社交性です。

「自家発電タイプ」の社交性を持つ人は人との繋がり自体に楽しさや充足感を持つため、どれだけ時間を共有するかを非常に重要視します。
一方で「充電タイプ」の社交性を持つ人が人との関わりの中で楽しさを感じるのはそこで生じるやり取りの部分なので、そこで何を共有するかが重要になってくるのです。
前者の幸福度合いの指標が他者との共有面の面積の大きさであるとしたら、後者の幸福度合いは他者との共有点の数の多さであるというイメージ。
つまり「自家発電タイプ」は幾何で、「充電タイプ」は代数で幸福度を感じ取るわけです。

「自家発電タイプ」と「充電タイプ」の社交性の違いがどこから生まれてくるのか?
僕は、この違いはどのように自分を認識しているかの違いにあると考えています。
「自家発電タイプ」の人は自分のことを他者との関係の中で捉えるのに対し、「充電タイプ」は自己との対話の中で捉えます。
他者に対してどういう影響を与えることができたか、他者を通して自分はどのような影響を得ることができたのかが「自家発電タイプ」の自分の認識方法であるのに対して、「充電タイプ」の人たちは、自分とは何か、自分にとってそれはどういう意味があるものなのかという判断軸でものごとにあたるのです。
「自分とは何か」「自分にとってどういう意味があるのか」という問いかけには時間が必要です。そのため、「充電タイプ」の場合、ずっと人と時間を共有しているとその問いの時間が得られないために磨耗してしまうのです。
このタイプは時間を共有した分だけ、自分と向き合う時間が必要なのです。
反対に「自家発電タイプ」の人は他者との繋がりの中で自分の認識をクリアにしていくため、一人で向き合う時間ばかりだと、どんどん輪郭がぼやけてしまいます。
こちらのタイプの人の場合、一人でいる時間は他者との繋がりの中で明らかにしたい事柄を仕入れる時間なのです。

「自家発電タイプ」の社交性と「充電タイプ」の社交性は、完全に本人の好みによるもので、どちらが優れているといった類のものではありません。
ただし、その行動原理や認識方法はかなり異なっています。
だから、前者の社交性の理論に後者を取り込もうとすれば、たちまちその社交性は失われてしまいますし、反対に後者の社交性の理論を前者に適用させようとすれば、途端に魅力が失せてしまうことでしょう。
社交性とひとくくりにせず、それぞれの社交性(とそれの背後にある行動パターン)を理解することが、重要であるように思います。

 

 アイキャッチは明らかに両方の社交性の登場人物がバランスよく出てくるデリバリーシンデレラ