-君と好きな人が百年続きますように-
この曲を聞くと、「子を見守る母」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
僕もまさにそういう歌だと思って聞いていました。
しかしこの解釈だと、なぜ一人称が「僕」なのか等々、いろいろな疑問が湧いてきてしまいます。
その辺をあれこれ考えていたら、「そういうことか!」という解釈にたどり着いたので、僕の「読み方」をまとめてみたいと思います。
(あくまで「僕の」読み方なので、的外れかもしれません...笑)
川と蕾は何を表しているのか?
〈空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい〉
子どもが空を見上げて手を伸ばす風景から始まるこの曲。
空を「押し上げる」ようにと例えられた描写からは、無邪気に遊ぶ子どもの笑顔が頭に浮かびます。
そんな「君」に対して、「どうか水際まで来て欲しい」と頼む主人公。
僕は、ここで自分から駆け寄るのではなく、「近くまで来て欲しい」と頼んでいるのが1番のAメロのポイントだと思っています。
水際まで来て欲しいということから、君と主人公の間には水(おそらくは川)が流れていて、主人公自身はそれを越えていけないということが分かります。
自分では向こう岸に渡ることの許されない「川」といってはじめに思い浮かぶのは、あの世とこの世の間に流れる三途の川でしょう。
「水際まで来てほしい」けれど、「こっちまで来てほしい」ではないこともポイントです。
主人公はすでに亡くなった人(おそらく親?)で、幼いわが子を見守っているのでしょう。
そして何か伝えたいことがあって、できれば声が届く、手の届く範囲まで近づいて来てほしいと頼んでいる。
そんな風景が頭に浮かびます。
そして続くBメロ。
〈蕾をあげよう 庭のハナミズキ〉
前の「水際まで近づいて来てほしい」と君に頼んだ主人公は、庭に咲いたハナミズキの蕾を手渡そうとします。
ハナミズキは「ずっと続くこと」や「私の思いを受け取って欲しい」という花言葉を持った花です。
そして主人公はその「蕾」を君に渡そうとしています。
もちろん「蕾を摘む」という表現はネガティヴな解釈も不可能ではありませんが、ここでの蕾は未来を象徴しているものと読むのが妥当でしょう。
(この理由は3番に出てくる「ミズキの葉」という部分で説明します)
「ハナミズキ」に込められた私がずっと続くようにと込められた「願い」が、サビでは描かれています。
〈薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年続きますように〉
「薄紅色の可愛い君」は冒頭に出て来た「君」のことと判断して間違えなさそうです。
まだ幼い君の夢が叶いますように、君が幸せでありますようにという願いが描かれています。
ここで気になるのは〈果てない夢がちゃんと終わりますように〉というフレーズです。
一見すると「夢」が「終わる」なんてネガティヴに聞こえます。
ここの解釈がこの曲を複雑にしている始めの部分だと思うのですが、僕はこの曲ができたきっかけが9.11のテロにある所に注目すると、次のように解釈するのが相応しいのではと思っています。
9.11で、日常を生きる中で突然命を絶たれた人が大勢いる。
君にはそんな事が起こらない、平和な世界でずっと夢を追いかけて欲しい。
だからこそ「果てない夢」が「ちゃんと終わる」なのではないかというのが僕の持論です。
そして、大切な人とずっと生きて欲しい。
愛するわが子の幸せな人生を願ってずっと見守り続けたいというのが主人公の願いであり、それを先述の花言葉を持ったハナミズキに託して君に手渡したのだと思うのです。
そして2番に続きます。
夏の描写が示す意図と僕の我慢の正体を読み解く
〈夏は暑すぎて〉
僕はここワンフレーズがこの曲の最も凄いなあと思う所だったりします。
ひとこと「夏は暑すぎて」と入れることで、時間が経過していることを示しています。
2番の冒頭で、季節が流れた事をさりげなく示すことで、この後の「成長していく君」と「見守る自分」という対比が明確になっていくわけです。
〈僕から気持ちは重すぎて 一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう〉
一緒に船を渡る事はできないと続きます。
ここで注意したいのは、1番の三途の川を思わせる水際と、一緒に渡れないという「川」は別物であるということです。
川といえば、「水」のほかに「流れる」というイメージがあると思うのですが、それを踏まえれば2番の冒頭で動き出した「時間」、つまり君の人生に寄り添っていく事はできないという意味で捉えた方が適切だと思うのです。
主人公は色々伝えたい事はあるし、思いは強いけれど、一緒にはいけないし、それを君に背負わせる事はできないという気持ちを君に伝えています。
そして2番のBメロ
〈どうぞゆきなさい お先にゆきなさい〉
ここで「私のことはここに置いて先に進んで欲しい」と君に伝える主人公の姿が描かれて、そのままサビに。
〈僕の我慢がいつか身を結び 果てない波がちゃんと止まりますように〉
僕がハナミズキの解釈で難しいと思う2つ目のポイントがここです。
「僕の我慢」と「果てない波」が何を指しているのかという部分が非常に分かりづらいのです。
というか客観的には解釈は不可能な気がします...
ということで、ここは僕の憶測(そもそもこの考察自体がお前の妄想やん!ってツッコミがあるかもしれませんが...)で解釈をしていきます。
僕がこのフレーズを見た時に真っ先に頭に浮かんだのが重松清さんの『その日のまえに』という小説に出てくる和美という人物でした。
和美はガンで亡くなってしまうのですが、最期を看取った看護師の方に「私の死後数ヶ月したら夫に渡して欲しい」と言って、一通の手紙を預けています。
その内容はひとこと「忘れてもいいよ」というもの。
和美は自分が死んだら夫が自分の影に引っ張られ続けるということが分かっていました。
だからこそ、自分が死んだあとしばらく経ったタイミングでその手紙を夫に渡して欲しいと頼んでいたのです。
その手紙を見て夫は少しだけ泣いて、「なんだよ」と笑った後、少しずつ前を向いて歩き出していきます。
ハナミズキに出てくる「果てない波がちゃんと止まりますように」というのもこれと同じで、いつか前を向けますようにという意味ではないかと思うのです。
そのために僕は夏を超さずにここに残ると言っている。
ここには、あなたが前を向いて歩き出せるように、私は思い出と一緒にここに残るよというメッセージが込められているような気がします。
だからこそ「僕の我慢」が「身を結ぶ」なのかなと思うのです。そして3番へと続きます。
主人公の正体は誰なのだろう?
〈ひらり蝶々を 追いかけて白い帆をあげて 母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉
「蝶を追いかける」からは元気な君の姿が浮かびます。
〈そして白い帆をあげて〉という表現からは真っ直ぐに進んで欲しいという思いが伝わる。
蝶を追いかけるというのは1番の出だしにあった空を見上げて元気にはしゃぐ姿と変わらない様子でというニュアンスで捉えるのが適切でしょう。
つまり季節が過ぎて、また春が来ても変わらない姿で元気に生きてほしいといった願いでしょうか。
そして、〈母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉と続きます。
僕がこの曲で最大の難所だと思うのはここの部分です。
パッと聞いた感じでは、「いつまでも変わらぬ幸せそうな姿で元気に過ごして、年に一度母の日に私を思って欲しい」という母の思いの様にも読めますが、それだと2番の「お先にゆきなさい」やこの後に出てくる〈待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ〉の意味が通じなくなってしまいます。
何より、それだと一人称が「僕」であった理由がなくなってしまいます。
それらの整合性を取ろうとすると、かなり大胆な解釈になってしまうし、必ずしも共感は得られないかもしれませんが、僕はこの歌が「父」の目線で描かれた曲なのではないかと考えました。
一青窈は幼い頃に父を亡くしています。
(そして、大人になった早い段階で母も亡くしている)
実はこの主人公は君のお父さんで、ずっと遠い昔から君の幸せを願っている歌ではないかと思うのです。
そうすると、「水際まで来て欲しい」と言って一瞬だけ会いたかった気持ちも、「一緒には行けない」と言った気持ちも、「我慢の正体」も何より一人称が「僕」である理由にも説明がつきます。
この前提でいくと、〈母の日になればミズキの葉、贈って下さい〉というのは、「私のことは忘れてもいいから母に幸せにしてもらって欲しい」という気持ちと捉えることができる。
母の日に贈る「ミズキの葉」が意味するもの
僕がこう考えた最大の理由が母の日に贈るのが「ミズキの葉」であるという点です。
主人公は1番で「自分の庭」に咲いたハナミズキの蕾を主人公に渡しました。
そしてそれを受け取って成長していく主人公に頼んだのが、母の日に「ミズキの葉」を贈ること。
蕾はやがて花になるという意味で、君の成長を願うメタファーであると考えられます。
であるのなら「ミズキの葉」は、毎年成長していく君の姿自体だと思うのです。
毎年元気に生きて成長していくその姿をミズキの葉に託して、それを母に見せてあげて欲しい。
そういう思いが込められたのがこの3番の「母の日にミズキの葉を贈って欲しい」という歌詞の意味なのではないかというのが僕の解釈です。
そして、その幸せの中には自分はいなくてもいい。
そんな気持ちを込めた、君が小さい頃に亡くなってしまった父からの子を思う気持ちを歌ったのがこの『ハナミズキ』なのではないかと思うのです。
そんな風に読んでいくと、『ハナミズキ』という曲は何倍も深く感じられます。
もちろんこれは僕の多大な憶測に基づいた解釈なので、全く違うのかもしれません。
ただ、そんな風に自分なりの楽しみ方ができるのも、解釈の幅が広い曲の良さだと思うのです。