新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



記号論としてのエヴァ

ここのところエヴァンゲリオンの映画版がテレビで放映されていて、ちょくちょく子供達の間でエヴァンゲリオンの話がされたりします。
一応映画版も全て見ているのですが、やっぱり僕が1番好きなのはアニメ版エヴァンゲリオンです。
特に印象に残っているのが最終話の2作。

最後の拍手して「おめでとう」の下りは正直わからなかったですが、その前までの実験映画的な庵野秀明監督の取り組みに凄く驚かされた事を覚えています。

「マンガ学」(美術出版社)の中で、アニメーションとは、絵と絵の連続体であると述べています。
連続して流れる絵の集合体に意味を持たせる。
これは記号論の観点から、何をもってアニメをアニメとするのかを考えることであると思いました。
エヴァンゲリオンの最終2話は、「アニメーションとはなにか?」を庵野監督が作品を通して問いかけたものではないかというのが僕の考え。

2005年に放送されたBSアニメ夜話という番組で、アニメ評論家の氷川竜介さんが最終話を記号論として語っています。
アニメというものは、通常キャラクターと背景により成り立っています。最終話(ここでは25話・26話のこと)の冒頭では、背景という登場人物たちが生きる世界を排除したところからはじまる。
その後、マーカーとペンだけで書かれた絵になり、鉛筆だけの絵に、最後には線だけになる。
それがシンジの目を縁取った線になり、最後には声優のアフレコ台本の絵になる。
それさえもストーリーがあって声優の声が入れば、アニメーションとして意味を持ってしまうのではないかと。
アニメがアニメとはなんだろうと考えたところと、アニメが自分自身を取り戻した時にいろんな可能性があると気づかせてくれる。
それがアニメ版エヴァンゲリオンの最終話だと思います。
ほとんど思い出しで書いたので、実際の表現とは大きくずれているかもしれません。
ただ氷川さんが言った、「アニメとは何か?」を実験的に問いかけた作品という事には非常に納得したことを覚えています。

単なる絵の連続体に僕らは感動したり共感したりします。
アニメーションが絵の連続体であるとしたら、物語は受け手の頭の中で補完されることによって初めて作られるもの。
セリフも絵も、物語を伝える手段でしかないとしたら、どこまで簡略化しても、ストーリーとして伝わるか。
それを試そうとしたのがエヴァンゲリオンの最終2話であるように思います。

僕たちは背景のなくなったアニメからも物語を理解し、マーカーとペンだけになった登場人物の感情を読み取ります。
線で書かれただけの目ですらセリフと前後の文脈から、それが主人公であると判断し、絵ですらない写真の羅列ですら頭で物語を補う。
セリフの台本だけでも、物語を伝えることが可能性である。
だとしたら何を以ってアニメはアニメというのか。
物語を伝える手段、つまり自分の作った話を伝える媒介としての作品の在り方を考えたのがこの作品(の最終話)だと思います。

いろいろ小難しく書いて見ましたが、大前提はなによりこの作品が純粋に面白いということです。
難解なストーリーでも、壮大な伏線でも、絵のクオリティでも、そしてもちろん実験的な試みでもなく、単にアニメとして面白い。
作品の魅力はここに尽きると思います。
ほかの要素は全部付属品(笑)

エヴァンゲリオン以後、アニメでもマンガでも、そしてドラマや映画でも難解なストーリーの作品が増えているように思うのですが、普通に楽しめる上で先に書いたような様々な観点から楽しめる作品でアニメ版エヴァンゲリオンに並ぶものはそうはないのではないかと思います。
(ほとんどアニメを見ないので、全く詳しく自信はありませんが、、)
普通に楽しめて、かつ深く楽しめるというところが、エヴァンゲリオンの最大の魅力であるように思います。



海外の人が書いたマンガについての研究本です。
説明も全てマンガで書かれています(笑)