新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2割話が上手くなるための方法論[前編]

友人と10人くらいであつまったりすると、だいたい1人はいる、何話しても面白いやつ。

そう聞くと皆さんの頭の中に、ひとりかふたり、友人の顔が思い浮かんだりしませんか?

仕事柄、僕の周りにはこういった、「何話しても面白い人」が多くいます(笑)

そのため、僕は一時期「何話しても面白い人」の観察をしていたことがあるのですが、そうするうちに、彼らの話し方には一定のパターンがあることに気がつきました。

もちろん話の内容自体が面白いというのはあるんですが、「何話しても面白い人」たちの多くは話題自体の面白さ以上に、話し方が面白いんですよね。

彼らは「面白く聞こえる話し方」を知っている訳です。

もちろんそれらの多くは、天性のものだったり、その人のキャラだからこそというものだったりします。

でも、誰でも真似できる部分もあるように感じました。

そこで、今回は「何話しても面白い人」に共通するテクニックのうち、再現性が高そうなものを、いくつかまとめてみようと思います。

目標は「誰でも真似するだけで面白さが2割り増しの話し方」(笑)

 

普通の話を面白く見せるには、調理と盛り付けが大事

「面白い話をしよう」と考えると、とにかく面白いネタを探そうとしがちです。

先日知り合いと話していたら、同じ詐欺に二度引っかかって50万ずつ溶かした話や、給料をパチンコ屋に忘れて来て(使ったとかじゃなくマジの方)ひと月キャベツひと玉で生き抜こうとした話など、とめどなく「とんでもエピソード」が出てくる人がいました。

もちろん中には彼のような生粋のネタメーカーみたいな人もいるかもしれませんが、当然ですがそんな人は稀です(笑)

上にあげた人は話の「食材」の鮮度一本で勝負をする人。

「話が面白い」というと、そういうカリスマを想像する人が多いかもしれませんが、実際の話の上手い人の多くは、エピソードそのものというより、話し方や話の運び方で面白さが増している場合がほとんど。

仕入れた食材はありふれたものだけれど、調理や盛り付けで美味しく仕上げるみたいなイメージです。

僕が言う、「面白く話せる技術」はまさにこちら側。

と言うわけで、なんでも面白そうに聞こえる人の「調理方法」と「盛り付け」についてまとめていこうと思います。

 

いきなり「調理方法」と「盛り付け」だなんていう比喩で書いてしまいましたが、これはそれぞれ、「話の構成」と「話の仕方」との事を指しています。

話が面白く聞こえる人は、例外なく①話の仕方と②話の構成を工夫しているのです。

①話の仕方を細かく見ていくと⑴声色⑵表情⑶身振りの要素に、②話の構成は⑴編集⑵圧縮⑶ムダの要素に分けられます。

先ずは①から見ていきたいと思います。

 

面白そうに聞こえる話し方の3要素

話の仕方に関して、⑴声色⑵表情⑶身振りの3点が重要だなんて書きましたが、これでは全く再現性がないので、更に深掘りをしていきます。

 

⑴声色について

伊集院光さんや壇蜜さんなどのラジオを聞いていると、別にそれほど特異なことを話しているわけでもないのに、日常の説明それだけでクスクス笑ってしまうよつな事があります。

これはひとえに声色が原因です。

彼らは「面白く聞こえる声色」を持っているのです。

僕は声色に関して、再現可能な所まで分解するとⅰ声の大小、ⅱ声のスピード、ⅲ声の音程に分けられると考えました。

(もちろん、ビブラートみたいなものもあるのでしょうが、そういったものは「再現性」がないので今回は省きます)。

話しが面白い人は、この3つの要素の「差」が例外なく大きいのです。

逆に自分の話に自信がない人は、たいていⅰ〜ⅲの幅が小さく、単調です。

話しが面白く聞こえる第一歩は、上の要素の幅を広げることだと思うのです。

ⅰの声の大きさの幅を広げる訓練には1声を前に飛ばして大きさを上げるということと、2声を小さくすることの2種類のアプローチがあるのですが、自信のない人は圧倒的に1が苦手である場合が多いです。

そのため、1のアプローチが有効と言えるでしょう。

具体的には、話をする際に自分の中で1.5割増しくらいの声量を意識して下さい(恐らくそれで1.2倍くらいになるはず)。

また、人と喋る時に、声を相手の元に飛ばすイメージを持つことも有効です。

例えば5メートル先にいる人と話すのなら、5メートル先の人の胸元にボールを投げるようなイメージです。

こうするだけで、かなり張りがある印象になるはずです。

 

ⅱの声のスピードです。

これも細かな方法を分析すればきりがないのですが、再現性のある状態まで落とし込むとしたら、まずはゆっくり話すことを意識するのが有効です。

とくにはじめのうちは話しはじめをゆっくりにするだけでも構いません。

人はテンションが上がっても焦っても、ついつい早く喋るようになってしまいます。

もし初めから普段のスピードで話し始めてしまえば、終盤に差し掛かる頃には相手にとって聞き取りづらい速さになってしまうわけです。

慣れてから話している間にスピードを変化させられるのが理想ですが、中々それは難しいので、まずは話し始めを気持ち遅くする(0.8くらい?)というのを意識して下さい。

もう一つ、話している途中にどんどん加速していくのを止める有効な手段に「できるだけ接続語を使わない」というのがあります。

接続語でダラダラ繋がるうちに、あれも欲しい、これも欲しいとなって、気がつくと加速するという場合が少なくありません。

接続語を避け、短く収めることで、句点が挟まるため、加速を防ぐ効果があるわけです。

 

ⅲ声の音程について

「いつやるの?」でお馴染み、林修先生の動画などを見てもらうと明らかですが、話が面白く聞こえる人は、たいていテンションによって、声の音程を使い分けています。

出だしでは低い音で、なってきたら普段のキー、盛り上げどころで少し声が裏返るみたいな感じです。

やっぱりこれも、いきなり意識しようとすれば「再現性」がなくなってしまうので、まずは、自分の声の音程を3音作るというのを意識して見てください。

3音というと難しく聞こえるかもしれませんが、実際に今から3種類の音を練習しようなんてことをする必要はありません(笑)

例えば普通に話している時に加えて、テンションが上がったときは少し声が高くなったりしませんか?

殆どの人は既に2音は持っているのです。

だから、実際には3音目を意識すればいいだけ。

しかもこれも、「自分の『音』って何だろう?」と、ミュージシャンみたいに悩む必要もありません。

既に、普通と高音があるので、普通より低い音を作ればいいだけなのです。

ここで気をつけて欲しいのは、この「低音」というのは「麒麟です」的なものではないというところです(笑)

本当に気持ちの問題で、気持ちテンションがならないときはこのくらいかなという音を意識しておくくらいにして下さい。

もし見つからなければ、親に「あんたいい加減宿題やりなさい」と言われた時や、「むすっとしてケンカ中の恋人に返答するとき」の声を思い出して見て下さい。

だいたいそれくらいがちょうどいいはず...笑

このように、声色を意識するだけでも、かなり印象が変わるはずです。

次は①-⑵の表情についてをまとめようと思ったのですが、これだけで膨大な量になってしまったので、続きは後日書きたいと思います(笑)

 

アイキャッチは「喋れるマンガ家」山田玲司さんのこの本。

タイトルはあれだけど、「傾聴」という話方のノウハウ本としてこれ以上のものはないと思っています。

モテない女は罪である

モテない女は罪である

 

 

 

 

あの人の言葉は、なぜ耳にも心にも残らないのか?「無重力ワード使い」の研究

うわっ、この人言葉が軽い…
人と会話をしているときに、思わず笑ってしまいそうになるくらいに言葉が軽いなと思った経験はありませんか?
明らかにたくさん喋っているし、本人もそれなりに真剣な様子なのに、どうしても内容が入ってこない。
放った言葉がことごとく重力の影響を受けずにフワフワ宙を漂っている。
そんな「無重力ワード」の使い手が僕は(観察対象として)大好きだったりします。
今日、そんな話を知人にしていたら、「こんなタイプの言葉が軽い人もいるよ」と、新たな情報を提供してもらえました。
僕の「無重力ワード使い研究」が進んだので、その進捗を書き留めておきたいと思います。

無重力ワード使いについて考えるにあたって、そもそも言葉に重みを乗せるにはどうすればいいかということを考えました。
僕が日頃関わる人たちのうち、言葉に重みがあるなあと感じる人を頭に思い描くと、みんな
自分の言葉」で語っているなあという印象です。
この「自分の言葉」というものをもう少し分解してみると、恐らく①自分の思いをベースに語っている事と、②自分の経験をベースに話していることが重要なのだと思いました。
(僕の中で「語る」と「話す」の違いは結構興味がある内容なので使い分けましたが、今回それを書くと文字数がエラいことになるので省略します。)
これでいくと、[言葉の重さ=自分の思い×自分の経験]というのが僕の中の「言葉に重みがある人」の定義となります。

今日知人と話している中で出てきた「無重力ワード使い」は大きく分けると次の2パターンでした。
ひとつは夢や野望を語るタイプの意識高い系の「無重力ワード使い」。
そしてもうひとつは相手の話に常に合わせて「分かる!」とか「ごめん!」を繰り返す、チャラ男系「無重力ワード使い」です。
僕はこうした「無重力ワード使い」に、それぞれガス欠アウトプットタイプ、イケメン風見鶏タイプと名付けました。
これらのタイプの分類は、先に挙げた[言葉の重さ=自分の思い×自分の経験]という公式で説明することができます。
ひとつ目で挙げた、夢や野望を語るタイプの意識高い系の「無重力ワード使い」、つまりガス欠アウトプットタイプの人は、自分の思いは非常に大きいのですが、一方で経験の部分が皆無です。
したがって、大きな夢を口にするだけの人になってしまう。
反対に、もう一方の相手の話に常に合わせて「分かる!」とか「ごめん!」を繰り返す、イケメン風見鶏タイプには自分がありません。
彼女がいるのに浮気を繰り返すし、バレたらすぐに謝る。
相手が怒っていたら「そうだよね」といって共感する。
これらは反省から出てくる言葉ではなくて、「自分」という守りたいものがないから出てくる言葉だったりします。
つまり、前者のガス欠アウトプットタイプは[自分の経験値=0]だから生まれる属性、校舎のイケメン風見鶏タイプは[自分の思い=0]だから生まれる特性だと思うのです。

別に僕は、言葉が軽いことが悪いといいたいわけではありません。
(むしろそういう人に親近感を抱くくらい)
ただ、こういうタイプで悩んでいる人が多いと思ったので、僕なりに言語化して記録したのが今回のエントリです。
もし、周囲から「お前は言葉が軽い」とか言われて悩んでいる人等がいれば、参考にして見て下さい。
(参考になる情報は皆無かもですが…笑)

 

アイキャッチは、軽い言葉のパイオニア高田純次さんの本。

これ、結構おもしろかった記憶が...

適当論 [ソフトバンク新書]

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往復書簡(2019.09.22)しもっちさん(@shimotch)へ

拝啓 しもっちさんへ

9月も半ばをすぎ、虫の音に思いを馳せる時候のあいさつがふさわしい頃合いになりましたが、まだまだ昼どきの暑さを考えると、僕には虫の音を楽しむ余裕はありません…しもっちさんはいかがお過ごしでしょうか。
お盆に「やろう!」と言ったきりになっていた往復書簡。ついつい目の前の仕事を言い訳に先延ばしにしてしまいました。ちょうどよいきっかけを得たので、勢いで書いて、勢いで送らせていただきました。
「往復書簡をしよう」ということ以外、何も決めておりませんが、その辺はやりながら考えていきましょう(そのほうが僕たちらしいですし)

往復書簡ということで、久しぶりに「時候のあいさつ」なるものを書いてみました。
常識やマナーは地元に置いてきて、形式ばった文章とはおよそ縁遠い僕ですが、改めて「型」を守るということをやってみると、これはこれでいいものですね。
以前読んだ本に「俳句における『季語』はそれまでの俳人の残した同じ季語を含む全てのうたを本歌取りする働きがある」といったことが書かれていたのですが、時候のあいさつにも、そうした「本歌取り」の働きがあるような感じがしました。書きながら、僕の頭には漱石の『それから』や、藤原忠房の『きりぎりす いたくななきそ 秋の夜の 長き思ひは 我ぞまされる』なんてものが浮かびました。しもっちさんは「虫の音」と聞いて何か思いますか?
 先日ご一緒したときに出てきた「読書経験は年齢に比例する」という話しを思い出しました。しもっちさんの言っていた「だからこそ今の読書をサボらないようにしないといけない」という言葉が、非常に刺さりました。(特に僕たちみたいに個人で働く人間だと)どうしても目の前の価値提供に一生懸命になりすぎてしまうことが多いですが、しっかり「積み重ね」の価値も意識していきたいなと思いました。同じ「虫の声」と聞いても、来年、再来年、もっとずっと先の僕が思い浮かべるのは、漱石や忠房ではない、別の作品になっているように精進したいです。

 とりあえずの方針も考えずに書き出したため、文字通り「毒にも薬にもならない」話となってしまいましたが、それはそれで、僕たちのやりとりらしくていいのかな、なんて思うので、何もまとまらないままお話を締めようと思います。

ところでどうやって往復書簡にしましょう?笑

 

 

往復書簡 (幻冬舎文庫)

往復書簡 (幻冬舎文庫)

 

 

King Gnu『白日』考察(前編)~「後悔」と「決意」の行き来と、雪の効果を読み解く~

今年の一月に放映されたテレビドラマ『イノセンス 冤罪弁護士』のテーマソングに起用されたKing Gnuの『白日』。
職業柄か、僕は音楽にはまるのは歌詞を読んでからが多いのですが、この曲は完全にメロディ先行で好きになった曲でした。
で、先日ふと歌詞を見たら、曲の構成に負けず劣らず難解な歌詞であることにきづいたので、備忘録として思ったことをまとめておくことにしました。
※以下はあくまで個人の解釈です。

主題歌に起用されたドラマが「冤罪」をテーマにしたもので、Aメロに「罪」という言葉が出てくるため、パッと聴くとどうしてもこの曲はドラマの印象に引きずられて、「罪人の歌なのでは?」というような印象になってしまいます。
しかし、あくまでドラマと歌は別の作品(というのが僕の持論)です。
そのため、ここでは歌とドラマと切り離して、「歌詞から読み取れる部分」にのみ注目していきたいと思います。

〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり 失ったりして初めて 犯した罪を知る〉
Aメロはこう始まります。
僕がこの曲の歌詞を見て、真っ先に面白いなと思ったのが、普遍的な価値観を提示することから始まるこの唄い出しです。
以前、別の歌詞考察でも触れたのですが、多くの歌で歌詞内容は「具体→普遍」という展開を辿ります。
例えばSMAPの『世界にひとつだけの花』は、Aメロで花屋に並んだ花を見てどれもきれいと感じる主人公のエピソードから、Bメロでは「それなのに人間は~」というように、「花を見た感想」から「人間の性質に対する問題提起」へと展開します。
あるいはサザンオールスターズの『TSUMAMI』であれば〈風に戸惑う弱気な僕〉という僕の話から、Bメロでは転調して〈人は誰も愛求めて闇に彷徨う定め〉と、人なら誰もが抱える話へと歌詞の世界が展開していきます。
普遍的なテーマを扱ったヒット曲の多くに、「具体→普遍」という構造がみられます。
秋元康さんは、自身の作曲において、この構造を意識していると語っていました。)
こうした中で、King Gnuの『白日』は、冒頭でいきなり、〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり 失ったりして初めて 犯した罪を知る〉とテーマをぶつけてきます。
これは、メンバーの多くが洋楽好きというところが影響しているのかもしれませんが、いわゆる邦楽ヒット曲の王道とは違うパターンであるため、歌詞の面からも曲のインパクトを強める働きをしていると考えられます。
「人は知らずに他人を傷つけ、罪に気付く」という主題をはっきりと提示した後、歌は続きます。

〈戻れないよ、昔のようには 煌いて見えたとしても 明日へと歩き出さなきゃ 雪が降り頻ろうとも〉
繰り返しのAメロでもまだ、主題の提示が続きます。
「人を傷つけたことに後悔しても、巻き戻すことはできず、前に進むしかない。」ここはこのくらいに捉えておけばいいでしょう。
(あまり細かく追うと終わらなくなってしまうので、ここは軽く触れるに留めておきます)

そしてBメロ
〈今の僕には 何ができるの? 何になれるの? 誰かのために生きるなら 正しいことばかり言ってらんないよな〉
〈どこかの街で また出逢えたら 僕の名前を 覚えていますか? その頃にはきっと 春風が吹くだろう〉
Bメロに入ると、Aメロで提示された主題を引き継いで、主人公の内面へと話が進みます。
Aメロを見れば、〈誰かのために生きるなら 正しいことばかり言ってらんないよな〉というフレーズは、大切な誰かを傷つけてしまった自分に対する反省ととることができます。
そして、後ろを見てばかりはいられないので、前を向いて歩き出そうとしている。
そんな様子が「どこかの街でまた出逢えたら~」という言葉から推測されます。
僕がBメロで注目したいのは「春風」というモチーフです。
この『白日』という歌にはたとえば「戻れない」「昔のようには」⇔「歩き出さなきゃ」「明日へと」というように、終始主人公が「後悔」と「決意」の間で揺れ動く様が描かれています。
Bメロに出てくる「どこかの街で逢えたら~?」と問う相手は、おそらく主人公が傷つけてしまった(愛する)人でしょう。
その人にいつかまた逢えたらという未来を「春」と形容しています。
そしてAメロに登場した「雪」の描写から考えれば、今の主人公がいる季節は「冬」ということになります。
ここにも「冬」と「春」という季節の対比に現在の迷いと未来への期待が表れます。

そしてサビに。
〈真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いているんだ〉
〈真っ白に全てさよなら 降りしきる雪よ 全てを包み込んでくれ 今日だけは 全てを隠してくれ〉
サビでも「真っ新に生まれ変わって」という未来に対する決意を言った直後に、「へばりついて離れない」という後悔が、「真っ白に全てさよなら」という決意の直後に「全てを隠してくれ(≒忘れられない)」という後悔がという具合に鮮明に「後悔」と「決意」の対比が描かれています。
これは全編を通していえることですが、このサビでは特に「雪」の使い方が秀逸です。
「全てを包んでくれ」と「降りしきる雪」に頼むのですが、この「包み込んで欲しいもの」は過去の思い出でしょう。
『白日』は雪が降っている場面を歌っています。
(煌いた)過去、前に向かって歩き出そうとする現在、再び君に出会える未来という3つの時間軸のうち、現在に雪を降らせることで、過去を少しずつ忘れようとしている主人公の決意を描いています。
しかし、降り積もった雪の世界は一面の銀世界。
そこには何もありません(そしてこれがタイトルにもなっている白日なのでしょう)。
そんな「真っ白」な世界に踏み出そうとする主人公の不安だったり孤独だったりというものが、雪を降らせることによって描かれているわけです。
歌詞を追うと、過去と未来には鮮明に「色」があります(「煌いた」過去「春風」の吹く未来)
しかし、雪のふる現在だけは真っ白です。
(ちょうど、この辺のイメージはMVにも重なります。)
この辺の何重にも雪を使っているところが、この歌の歌詞の複雑なところでもあり、印象に残る部分でもあると思うのです。

一気に書こうと思ったのですが、長くなりすぎる気がするので、2番以降は次回にします。

 

 

白日

白日

 

 

誰が言ったか?何を言ったか?どう言ったか?

これは自分自身が根っからの悩んでいる人をひきつける体質だからなのか分かりませんが、よく会社の上司やバイト先の理不尽な客に怒鳴られて、落ち込んだり怒ったりしている人の相談に乗ることがあります。

で、そういった悩みを聞いていると、十中八九ところで僕にはそういう経験がないのか?という質問になるのですが、僕はこう聞かれるだびに、「えっ、だって犬に吠えられていちいち腹立てたり落ち込んだりしないじゃん?それと同じ感覚だからへこみもムカつきもしない(笑)」と返すことにしています(笑)

もちろん僕のこの返しは、ギャグみたいな意味合いも多分に含んでいるのですが、僕のキャラクターもあいまって、たいてい返ってくる反応はあきれたというものかドン引きかのどちらか…

相手を徹底的に見下したこの物言いが、生理的に受けつけないという人が多いみたいです。

 

「文句言ってくるやつなんて犬みたいにみれば?」というこの言い方、実は僕のオリジナルではありません。

元は2ちゃんねる管理人の西村博之ひろゆき)さんが自身の番組の質問に対する返答で使っていた表現。

あの小憎らしい表情と馬鹿にした態度から発せられる「犬に吠えられたからっていちいち怒んないでしょ?」がとてもしっくりきたので、意識的に使っています。

ひろゆきさんがこの言葉を使うのはだいだい、他者からの理不尽な声を必要以上に気にしている人からの質問に対して。

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味を込めて言っている場合がほとんどです。

ニッコリと微笑みながら「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」と言えば思いやりに満ちたとても優しいことばに聞こえるのに、「吠えてきた犬にいちいち腹立てる?」という言い回しとひろゆきさんのあの表情が合わさると、途端に煽っているようにしか聞こえなくなるので不思議です。

 

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味の言葉で、僕のなかでもうひとつお気に入りの言い回しがあります。

それが、ソクラテスが市場で侮辱されたときに言ったとされる、「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」というもの。

こちらも言い方自体はひろゆきさんに負けず劣らず(というか下手したらひろゆきさん以上に)ひどい言い様です。

しかしながら、「ソクラテスが言った」という枕詞が付いたとたん、どこか高尚な響きに聞こえてしまうから不思議です(笑)

 

「誰が言うかでなく、何を言うかが大切だ」なんてことをよく耳にしますが、上の例をみてみると、やっぱり誰が言うかが大事だよなという気もちになります。

仮にひろゆきさんが言った「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」と、ソクラテスが言った「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」と置き換えてみると、やっぱり前者の方がムカつく感じがします(笑)

誰が何を言うか?に加えて、僕はもう一つ、「どうやって言うのか?」も重要だと思っています。

「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」も「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」も、もともとは「人の言葉を必要以上に気にするな」というメッセージです。

それをこんな言い回しにしたばかりに、急にトゲトゲした印象になってしまうわけです。

 

僕たちが人と話すとき、何を言うか?と誰が言うか?ということはよく意識します。

しかし、どうやって伝えるかになると、途端に意識が向かなくなる。

頭に浮かんだ内容について、頭に浮かんだ言葉のままで出してしまうので、結果相手に真意が伝わりづらかったり、場合によっては相手を怒らせてしまったりすることさえあるかもしれません。

逆に、ちょっと伝えづらいことでも、言い方を変えて、自分らしい言い回しにすれば、傷つけることなく伝えられることもあります。

人に何かを伝えたい時は、①誰が言うか?②何を言うか?③どうやって言うか?の3点セットで考える。

これが、伝わる喋り方のファーストステップのように思います。

 

アドラーの言いたかったことも、ひろゆきさんにかかればこの通り(笑)

アイキャッチひろゆきさんのこの本です。

 

 

マルチコミュニタリアンのススメ

僕は卒業と同時にフリーで社会に出てしまった(その上で周囲に恵まれて、ある程度生活できてしまっている)ので、およそ人にお勧めできるような生き方はしていないのですが、ひとつだけ、大学を出た時から自分の中で意識していることがあります。

それが、タイトルにもした「マルチコミュニタリアン」でいるということです。

マルチコミュニタリアンとは僕の造語ですが、その名の通り「複数のコミュニティに属している人」のことを指しています。

学生の時、それまでの経験と、将来に向けて様々な社会人を観察していたときに、漠然と複数コミュニティに所属していることの大切さを感じたのです。

 

で、実際に社会にでて(というか放り出されて)から、僕は身一つで京都に来て、一から職場のコミュニティに参加したり、友人関係を構築したりということをしたわけですが、その中で、複数コミュニティに所属する大切さを実感しました。

 

京都に越して来て1年目、まだコマ数もロクになかった僕に、学生時代からお世話になっていた先輩から、マルチの勧誘がありました。

僕はあまりに時間を持て余していたので、「フィールドワーク」と称してそこのマルチ団体に所属しました(笑)

(因みに1年間で友達を勧誘しない上にポン酢一本しか買わなくて追い出されました...)

そこで熱心に勧誘に取り組む人を見た時の率直な感想は「この人たちにはここしか居場所がないんだ」というものでした。

そのグループの人たちは、彼らにとっての唯一の居場所であるのですが、同時にそのコミュニティにいるためには、マルチの勧誘を続けなければなりません。

結果、そのコミュニティにいるための資格として、活動にのめり込んでいく。

そんな人を多くみかけました。

 

社会人2年目。

縁があって僕は某NPOの関西支部の立ち上げに関わることになりました。

そのときに、当時の事務局長から聞いたNPOの現状に対する考察が非常に胸に刺さっています。

彼曰く、「国際協力だとか、支援だとかという言葉は、承認欲求が満たされない人を惹きつける。だから、そういう人を沼に落とさないためにも、入り口での面接が大事だ」とのことでした。

実際に、人事と広報を担当して、様々なNPOさんと交流ができるなかで出会った人の中には、そこコミュニティが居場所になっているという人が少なからずいる印象でした。

別のNPOを運営している知人も似たようなことを言っていたので、概ねどこの組織にも言えることなのだろうと思いました。

 

3年目。

徐々に仕事も増えつつあった僕は、とある女の人と出会いました。

彼女は新卒で会社に入社して、始めて一人暮らしを始めたとのこと。

で、彼女とご飯に行くたびに出てくるのは、会社の飲み会やプライベートでの繋がりは嫌というお話。

「そんなに嫌なら行かなければいいのに..」

そんな風に僕が言うと、それをすると関係が切れてしまうからできないということでした。

地方から出て来た彼女が持っていた「繋がり」は会社の同僚だけだったみたいです。

 

他にも、地元の知人で結婚して京都に嫁いだ子に、恋に盲目で他との関係を絶ってしまった子、しんどいと言いつつ頼まれた仕事を次々に抱えてしまう幼なじみ。

こんな感じの、なぜかうまくいかない人を、今まで何人か見てきました。

 

こうした人たちを見ていると、ある一つの共通項があります。

それは、「一つのコミュニティにしか属していない」ということです。

言うまでもなく、素の自分で関わるプライベートと、特定の目的のために集まった仕事でのやりとりは異なります。

にも関わらず、プライベートも仕事も同じコミュニティになってしまうと、プライベートの関係性の維持に、仕事的な手続きが必要になってしまうのです。

本当は気負わず素の自分で参加できるのがプライベートのコミュニティであるはずなのに、所属するコミュニティが一つしかない人の場合、そこで得られるこうようを、仕事のコミュニティに求めてしまいます。

そのせいで、プライベートにおける安心とが仕事における信頼の対価みたいになってしまうのです。

マルチ商法のコミュニティならば、そこの繋がりを持つためには商品を売らねばなりませんし、ブラック企業であれば、そこに所属するために労働力を捧げなければなりません。

こんな風に、プライベートと仕事が一緒くたになったために起こるのが「辞められない(抜けられない)という感情だと思うのです。

よく、「強い」人たちは、会社が嫌ならやめればいいみたいなことをいいます。

でも、辞められない彼らにとっての、そこにあるのは単なる仕事上の繋がりではなくて、プライベートでの友人関係でもあるのです。

だから、そこを切ったら、その瞬間にその人は一人ぼっちになってしまう。

これを恐れている人が多いのではないかなと思います。

 

僕がマルチコミュニタリアンを進めるのは、こうした状況に陥らないためです。

複数のコミュニティに所属しておけば、仮に一つのコミュニティでの評価が落ちたとして、そこを切ってしまえばおしまいです。

少なくとも、それを切った瞬間に、自分の繋がりの全てを失う恐怖心はない。

こうした余裕があると、人は強く出ることができます。

そして相対的にそういう人ほど結果が出る。

 

1つのコミュニティに公私を任せてしまうのは大変危険なことだと思うのです。

うまく言っているときは、もちろんこの上ない位に楽しいですが、一度歯車が狂い始めると、全てが上手くいかなくなります。

その上抜けたら全てを失うので、抜けるに抜けられない。

こうした状況に初めから陥らないやうにするための方法が「マルチコミュニタリアンのススメ」なのです。

複数のコミュニティに属性を分けておけば、仮に一つで信頼を失っても、「まあきいや」と割り切ることができます。

この態度こそが重要だと思うのです。

 

仮にいま、特定のコミュニティを抜けようという気持ちがあるのに抜けられないと思っている人がいたら、あなたの所属するコミュニティの数を考えて見てください。

もし一つしかない場合は、仕事を探すでも、そこに我慢して所属するでもなく、新たなコミュニティを探すというのが解である場合があります。

少なくとも僕は、そうした仮説のもとで、常に複数コミュニティに属するようにしてきました。

「繋がりのリスクヘッジ

そのためにも僕はマルチコミュニタリアンを勧めているわせです。

 

アイキャッチは『恋愛依存症

恋愛依存症

恋愛依存症

 

 

 

 

頑張る動機のネガポジと、動機のいらない頑張り方

「愛」とか「情動」というと、少し大仰に感じられるかもしれない。けれども、人々は「怒り」によってのみ、何かを否定することによってのみ動かされるわけではない。何かを肯定することも、行動の大きな原動力になる。「愛」や「情動」は、そうした肯定性を示す言葉である。(2009年)

出典を書き留めるのを忘れてしまっていた(後日調べて追記します)のですが、今年の高校3年生の第一回全統模試に出題された論説文に、こんな話が書かれていました。

本文では、否定的な感情だけでなく、肯定的な感情も、人を行動へと駆り立てる原動力になると続くのですが、僕はこの並び順を見た時に、なんとも面白なあと感じました。

というのもここだけみると、一般的に行動の要因は否定的な感情であり、肯定的な感情でも人は動くというのは、意外性のあることのように書かれていたからです。

(もちろん、そこから展開される本文の主旨と照らし合わせたら極めて妥当な書き方です)

 

みあき on Twitter: "「〜したい/になりたいから頑張る」っていう思いは全然続かないけど、「〜したくない/されたくないから頑張る」っていう思いは長く続くし、ほとんどの確率でちゃんと結果を出せると思ってる🧐 部活は全部そうだったなぁ…… "

今日の朝、知人とこんなやり取りをしていました。

彼女にとっての「頑張る」の源泉は、何かを「したくない」(失いたくない)とか、「されたくない」(失望されたくない)みたいな所にあるのだそう。

言われてみればなるほどなぁと思いつつ、先にあげた文章を思い出しました。

 

僕たちが普段の生活の中で「頑張るための源泉」と聞かれると、当たり前のように、「こんなことをしたい」とか、「理想の自分に近づきたい」といったような、(ちょうど冒頭に引用した文章とは真逆に)ポジティブな動機を頭に浮かべます。

でも、それこそ冒頭の文章が言うように、単なる行動の動機という意味では、ネガティヴなものも当然に候補として上がるわけです。

こんなことを考えているうちに、そもそも、頑張るのには動機が必要なのか?そもそも、頑張るための動機ってなんだ?

という問いが頭に浮かんできました。

 

知人のつぶやきからネガティヴな動機も頑張る要因になり得ることに気づいたなんて書きましたが、じゃあ僕はどちらの側かというと、(ややネガティヴ寄りではあるものの)実は努力に関して、どちらの感覚とも違う、「努力に動機はいらない」というスタンスを取っています。

努力を続けるために、良いことでも悪いことでも、何か「支え」となるものを作りたいということ自体がよく分からないのです。

あくまで努力は目的を達成するためのツールであって、そこに欲求はいらないというのが僕の立ち位置。

こういうスタンスで努力を捉える人って、恐らく一定数いるのではないかと思います。

 

①ポジティブな動機で努力を続ける人と、②ネガティヴな動機で努力を続ける人と、③そもそも努力に動機は不要と考える人。

これらのスタンスの違いがどこから生まれるのかを考えてみました。

そもそも、努力の目的は、達成したい目標を叶えるという「結果」を得ることであると言えます。

しかし、結果が得られるのは未来のことなので、努力の最中にいる自分にとって、その努力が身を結ぶか否かは分かりません。

「果たしてこの努力は報われるのだろうか...?」

努力の最中にいる人は、こうした不安に打ち勝たなければなりません。

僕はこの、打ち勝たねばならない「不安」を相殺する役割を担うものが動機だと思うのです。

とすれば、「動機」と「結果」と「努力」の間には、次のような関係が成り立つと言うことができます。

[ 動機 = 努力の結果に与える効果 - 努力の結果に対する信頼 ]

つまり、その努力がどれだけ結果に繋がるだろうと思った時に感じる不安と等価なのが、動機だと思うのです。

 

こう考えた上で、自分を努力に駆り立てる方法を考えるとするならば、先からも分かるように、アプローチ方法は❶不安と等価以上のモチベーションを引き出すのか、❷努力の結果に対する信頼を高めるかのふた通りになります。

そして、❶の動機とは、差分を埋める大きさのことなので、正負の符号よりも、絶対値の大きさが重要になってきます。

その意味でネガティヴでもポジティブでもどちらでもいい。

重要なのは、絶対値>不安になっているということなのです。

整理すると、先にあげた①ポジティブな動機で努力を続ける人と、②ネガティヴな動機で努力を続ける人と、③そもそも努力に動機は不要と考える人は、①②は共に❶にアプローチする手法で、③は❷にアプローチする手法ということになります。

その意味で①と②との間に、どちらがいい悪いというものはないと思うのです。

(もちろん、①②と③の間にも優劣はないのですが)

 

ただ、大抵の場合、①ポジティブな動機と②ネガティヴな動機と言われると、①が良いもので②は良くないものと思われているように感じます。

で、②の人を①の側に寄せようとする(あるいは、もしかしたら逆のコミュニティもあるかもしれません)

僕は、①で考えるのか②で考えるのかは優劣の話ではなく、本人の特性の話だと思うのです。

(そもそも同じ❶という区分なので)

だから、仮に②であるが故に苦しんでいる人がいたとして、①にしようよと強引に誘ったところで解決策はありません。

もし②の人が悩んでいたとしたら、それはネガティヴな動機が辛いのではなくて、「ネガティヴな動機で補わなければならない不安の大きさ」に辛さを感じているわけです。

であるならばアプローチ方法は②→①にしようとすることでなく、❷を高めることで、不安の絶対値を小さくしてしまう事なはず。

 

努力やその動機について①②(③)の分類で考えていると、どちらかのマウントの取り合いになってしまい、根本的な解決にはなりません。

そうではなくて、❶❷の軸で解決を探っていく。

「やりがい」や「やる気」に関するお話には、この視点が有効なんじゃないかと思ったらするわけです。

 

アイキャッチは不機嫌な排水溝(紹介したい本が見つからなかった...)

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