最近久しぶりに読書熱が再燃して、とりあえず読み漁っている&過去問分析で多くの文章に触れているのですが、ちょうどあれこれ繋がることが多かったので、備忘録がてら今考えていることをまとめておこうと思います。
「21世紀の資本主義論」に見る変わらない価値の源泉
価値はどこから生まれるか?
これに対する答えとして、重商主義の頃は土地同士の価値の差から、労働を価値の源泉と捉えた旧来的な産業資本主義、そして情報の価値そのものを商品とした近代的な産業資本主義。
それぞれ価値の源泉が異なっているように見えるけれど、よくよく突き詰めればそれらは地域間の「差異」に過ぎないのではないか?というのが「21世紀の資本主義論」で岩井克人さんが述べている主張です。
形は変えているけれど、価値の源泉は昔から変わらないのでは無いかというお話です。
僕はこの岩井さんの考え方に賛成で、世の中の仕組みは突き詰めたら非常にシンプルであるというのが僕の自論です。
長い歴史で見た時の僕たちの行動特性をまとめてみる
この数日、偶然連日で僕は山口周さんの『ビジネスの未来』と、大川内直子さんの『アイデア資本主義』という本を読みました。
前者はビジネスの最前線にいて哲学や芸術に造詣の深い方の本、後者は文化人類学の研究者で文化人類学的な視点から資本主義の歴史を読み解いたものです。
この2冊は全く違う分野から、それも真逆のアプローチで過去、現在、そして未来の予想をしており、今後の私たちの生き方という意味の結論は真逆なのですが、行き着く未来の予測がほぼ合致していました。
違うアプローチで違う主張にもかかわらず、そのプロセスだけは同じものを辿るというのが個人的にはとても印象的でした。
その見解の共通部分をざっくりまとめるなら次の通り。
・人類は狩猟-農耕-交換-資本主義と変化してきた
・今は(近代的な)資本主義の終わりを迎えつつある
・人類は期を超えて発展し続けてきたが、それらはいずれも土地、時間、消費者の無限性によって支えられていた
・それが現代になり土地(地球)や消費者(=人口)という限界が見えてきた
・その制約を踏まえればIT革命も本質的にはパイの奪い合いに過ぎない(ここへの見方は2冊で異なります)
ひじょーっにざっくりいえばこんな感じ。
僕はこの2冊に共通する、「物理的限界」という考え方が非常に自分の物事の見方と近くて、さまざまな気づきが得られた気がします。
ハインラインに学ぶ「ある技術が広がった先の人々の価値観」という考え方
以前、社会評論家でオタキングの岡田斗司夫さんが、日本の経営者と海外の経営者の違いとして、「SFの素養があるか無いか」という話をしていました。
岡田さん曰く、海外の経営者の多くはSF作品に対する造詣が日本に比べて深いとのこと。
そこから生まれるのは技術に対する見方の違いです。
SFに造詣のない人だとある技術を見た時に「それが物理的に実現可能な未来」を思い描くのに対し、SFを好む人だとある技術を見ると「その技術が普及した先の人々の価値観の変化」を見るのだそう。
この二つは近いようでまるで違います。
前者は「物理的に可能」つまり、今の価値観から新たな技術の使用価値を図っています。
したがって自ずとそこから導き出される未来像は今の社会の延長になってしまう。
それに対して後者はその技術が広がった先の「人々の価値観の変化」に注目します。
Aという技術が広がった世界では、人々はどういうものの見方や判断を下すのだろう。
この考え方だと、場合によっては今を生きる僕たちでは考えもよらない「正解」を導き出す可能性があります。
そんな視点から先にあげた「土地や消費者の有限性」ということを考えた時に思い出したのが、ロバート・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』でした。
この作品は月の政府が地球からの独立を狙うというお話。
月にはかつて地球で犯罪を犯した人たちの子孫などが暮らしており、地球の植民地状態で、このままならやがて月の資源が枯渇してしまうという状態にいます。
お話の展開はともかく、僕はこの「有限性」とそれゆえに月に住む人類がどのような価値基準でどのような判断を下すかという設定の構築が非常に示唆的であるように思ったのです。
アニメ・マンガコンテンツに見る「平成的な物の終わり」90年代編
アニメやマンガといったコンテンツのヒットには、しばしば時代の空気感が反映されるように思います。
とりわけ世代を超えてヒットする作品についてはそのような傾向がある気がします。
漫画家の山田玲司さんはしばしば各年代の5年(1965年、1975年など)からの10年単位で時代の流行を語るのですが、僕もこの分け方に賛成だったりします。
というのも、これは完全な印象論になりますが、1945年の終戦を基準に考えたら、流行というものを判断するひとつの区切りとしてキリがいいと思うからです。
ということで、ここでは95年〜04年、05年〜14年、15年〜という区切りでアニメやマンガのモチーフを考えていきたいと思います(尚、連載開始時期などの厳密性でいえばこの括りを前後するものも多くあると思うので、あくまで一つの印象として受け止めていただけたら幸いです)
まず、95年〜について。
ここでの中心となるのはやはりエヴァンゲリオンでしょう。
エヴァンゲリオンでは急に理不尽を突きつけられ、その理不尽の中でもがきながらも戦う主人公たちが描かれます。
ここでのモチーフで僕が感じたのは「従わざるを得ない急に押し寄せた理不尽」という部分です。
このテーマは例えば長引く不況の中でシステムに乗っても何もかもがうまくいかない当時の時流がどことなく重なる気がします。
そしてこのモチーフはゼロ年代に入りますます増えたように思います。
代表例は『バトルロワイヤル』。
ある日突然殺し合いに巻き込まれるこの作品は理不尽の極みのようなものです。
またオブラートには包まれていますが、『デジモン』や『ガッシュベル』といったマンガも、構造を見ればある日普通の生活が戦いに巻き込まれるという意味で、これと同じ構造です。
(因みに年代が後ろになりますが、『まどか☆マギカ』もジャンル的にはここであるように思います)
降りかかる理不尽に狂わされるモチーフがここの年代を一つ特徴づける気がします。
アニメ・マンガコンテンツに見る「平成的な物の終わり」ゼロ年代
05年〜14年といえば、何と言ってもIT革命による急激な世界との接点の発生でしょう。
パソコンが当たり前に普及して、人々がケータイを持ち、後半はスマートフォンとそれに伴うSNSの世界を持つことで、僕たちは手のひらから世界中と繋がるようになりました。
ライフスタイルも様変わりして、今では当然となった購買行動や生活習慣も、実はこの10年のものであるというものは少なくありません。
それに伴い実感したのは海外文化の急速な流入です。
代表例はiPhoneを始めとするApple製品、Amazon、また中国の躍進も今まで以上に耳にするようになりました。
また同時に、ジェンダーや労働など日本的な古い価値観も国際基準にさらされた時期でもあります。
こうした時期に増えたコンテンツの特徴に関して、僕は「壁」が象徴的であったように考えています。
代表は言わずもな『進撃の巨人』でしょう。
あの作品は平穏に暮らす「壁の中」の世界を、ある日いきなり巨人の襲撃で壊される場面が描かれました。
ちょうどこの時期、「壁」のテーマは他の多くの作品にも登場します。
『トリコ』に『HUNTER×HUNTER』、主人公「みくり」が「平匡」の心の壁を壊してきたというあくまで内面描写としてですが、『逃げるは恥だが役に立つ』にまでも「壁」という表現は出てきました。
このように壁の奥の広い世界との接触は大きなテーマだったといえます。
またもう一つ、ゼロ年代後半からにかけては『ハルヒ』シリーズを筆頭に「日常もの」の作品も流行しました。
現実世界とは違う理想世界で振り回される世界に人気が集まる。
これも僕はある意味での「壁」だと思っていました。
広い世界と接せざるを得ない「壁」の構築と現実世界を遮断したい「壁」。
この接触と遮断のはざまにある「2つの壁」のイメージがこの10年間をある意味で象徴しているように思うのです。
アニメ・マンガコンテンツに見る「平成的な物の終わり」15年〜
さて、こうしたコンテンツの流れに関しては、その時代の渦中からは考えられないものなので、今書いても十中八九的外れになることは分かっているのですが、ここで書かないと初めのテーマに戻れないので、あえて今あるコンテンツから2015年からの10年を「道半ば」で総括してみたいと思います。
15年以降のコンテンツの特徴を考えようと思った時、僕の中で真っ先に浮かんだのは『天気の子』と『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でした。
この2作品はこれまでのヒット作とは決定的に違うなあと思うと同時に、どこか「平成的な」それの終わりを告げるような気になりました。
『天気の子』の結末ではヒロインと一緒にいるために一生消えない理不尽な世界を受け入れて生きる選択をします。
また、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではさまざまなしがらみに「代償」を支払い、フィクションの世界から卒業する主人公たちが描かれる(すみませんネタバレが嫌なのでボカすとこんな表現になったしまいました)
僕はこの2作品にどこか、理不尽を嘆いても、理不尽に抗っても状況は進まないんだから、さっさと受け入れて前に進むしか無いという受容のメッセージを感じました。
理不尽に抗うように見せつつ最後は受け入れるしか無いという決断をしたという意味では、『約束のネバーランド』もある意味でここにはいるかもしれません。
これまで90年代に理不尽に苦しみ、ゼロ年代に理不尽から逃げてきて、ここに来て「受け入れて先に行く」という結末がでてきたのが、個人的には次の特徴ではないかと思っています。
そしてそれが令和という時代の一つの進んでいく先なのかなと思っています。
令和を僕たちはどう生きるのか
さて先にあげた『ビジネスの未来』と『アイデア資本主義』という2冊の本の中ではフロンティアなき世界の生き方をそれぞれ、資本主義の終わりを迎えた「高原」社会でどう生きるか、うちへ向かう発展としての「インヴォリューション」という結論で結んでいます。(詳しくはネタバレになってしまうのでお読み下さい)
また『天気の子』では個人の「生贄」によって世界を理不尽から救うのではなく個人の幸せのために世界を犠牲にする選択を、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では全てをフィクションに閉じ込めて、解決しないまま現実を選ぶ選択をしました。
僕たちはどうすべきかは分かりませんが、これからどう生きるのか?というモデルを過去に見出すことのできない時点にいることは確かな気がします。
それをどう受け止めるかはそれぞれだと思うのですが、様々な人がそれぞれの仮説に基づいて振る舞いを変えて挑戦する。
ある意味で「戦国時代的」な時代にいるのかなというのが僕の現時点での感想です。
とくに僕なりの主張があるわけでは無い(自分なりの行動設計はあります)のですが、10年後にこの記事を振り返った時の答え合わせにできたらと、現時点での僕の分析と予想を書いておきました。
答え合わせは40歳になった僕に任せようと思います(笑)
みなさんもよかったらタイムカプセル的に記事を書いてみませんか?