新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ゆとり世代の取扱説明書③必需品としての結婚と贅沢品としての結婚

「リゾート地にある別荘みたいなもの。そこそこ良い別荘があって、くれるっていうなら喜んでもらうけど、別荘が欲しいからって理由で頑張るほどじゃない。」
日曜日の岡田斗司夫ゼミで、結婚や彼女を作ることに関して、こんなことをいっていました。
これを見たとき、その通り!と強く納得しました。
いい感じの人がいれば直ぐにでも付き合いたいけれど、わざわざそのために活動したくはないし、妥協してまで誰かと付き合いたくはない。
これが、恋人・結婚相手の見つからない人々が持っている基本的なスタンスであるように思います。
欲しいという願望はあるけれど、そのために行動したり、ランクを下げてでも手に入れたいわけじゃない。
これって典型的な贅沢品を買うときのスタンスです。

先日実家に帰ったとき、彼女は?結婚は?としつこく聞かれました。
そのときの会話が、驚くくらいにかみ合わなかったことが印象に残っています。
祖父は一貫して、「結婚することありき」で語っていました。
どんな相手でもいいから、先ずは結婚するというゴールがあって、どんなに妥協してもそのゴールは外さないという考え方。
結婚をする、しないという選択肢はそもそも存在しないという感じです。
これってまさに僕たちがシャンプーやトイレットペーパーみたいな必需品を買うときの考え方です。

僕は彼女を作ることや結婚することを贅沢品のように考えているから、どれだけ妥協を重ねてもするものだという感覚が分かりません。
iPhoneを買いに行って、その店舗ではスマホが全て売り切れていたから仕方なくガラケーにしたみたいなもの。
iPhoneでないスマホならともかく、さすがにiPhone買いに行ってガラケーにはしませんし、そもそも別の店舗を見に行きます。
とにかくその店で、その場で選ばなければいけはいという理由はないからです。
一方で必需品的に彼女や結婚を捉えている祖父にとっては、「面白い人がいれば」という姿勢が信じられないみたいです。
受け身に見えるみたいです。
確かに、結婚などをなんとしてでも手に入れなければならない必需品と考えている場合、「面白い人がいれば」なんていう考えは信じられないはずです。
おそらく、無人島で遭難して今日を生きるために必死なはずなのに、釣った魚を選り好みしてリリースしているように見えるのでしょう(笑)

贅沢品的に見ている僕と、必需品として見ている祖父では、同じものであるにも関わらず、アプローチのしかたが全くことなります。
これは、車に対しても言えることです。
たとえば、僕の実家は鉄道が東西に延びるJRと、北に向かう私鉄の2本しかありません。
そのため、車がなければ生活できない。
こうした地域で過ごす人にとっては、紛れもなく、車は必需品なのです。
一方で、東京や大阪、そして京都などはどうか。
この辺の都市は交通もがかなり整理されています。
だから、車は必要ない。
むしろ、街中では車を持っているのはマイナスですらあります。
こういう都市部では、駐車場も見つけずらいし、道が混みやすい。
車がない生活は考えられない地元の暮らしと、車が維持費のかかる面倒なものくらいにしか思わない都市部の暮らしでは、全然見方が変わります。
これもやっぱり贅沢品と必需品の違い。

車や恋愛を必需品としてみている年上世代と、贅沢品的に見ている僕たち世代。
贅沢品と必需品では、それを手に入れることに対するアプローチがまるで違うから、この辺でかなりギャップが生まれているように思います。
この辺は結婚願望が強い女の子の友達とかと飲みにいっても顕著です。
絶対結婚したい!とは言うけれど、それは諸々の条件に合う人がいればという感じ。
口では「絶対結婚したい!」と言っていても、それは贅沢品のニュアンスです。
スペック面で妥協してまでという意識はあまりないんですよね。
だから、年上の人との恋愛論はいつも噛み合わないのだと思います。

関連エントリです。よかったらこちらもお願いします!

アイキャッチは贅沢品としての結婚(笑)

この人と結婚していいの? (新潮文庫)

この人と結婚していいの? (新潮文庫)


触れる活字の長さと思考の深さは比例する

6月だから、就活に関連付けたらアクセスが増えるんじゃないか。
そんな下心で就活に絡めた更新が続きました。
で、やってみた結果、やっぱり自分に著者適正のないジャンルは書くもんじゃないな、と(笑)
そんなわけで就活ちっくな話は止めて、今日は本のお話です。

昨日は久しぶりに興奮が止まない1日でした。
夕方から僕が関わるNPOの関係で、初対面の方と顔合わせをし、その方の刺激にあてられて湧いてしまった知的好奇心が冷め止まなくなってしまったので、その後以前から気になっていた居酒屋へ。
そこのカウンターで偶然隣に座った老夫婦の方と色々な話をして、そこでまた興奮を分けてもらったため、今度はもう一軒、行ってみたいと思っていたお店を訪れることにしました。
運よく他のお客さんはおらず、マスターを独占。
興奮を落ち着かせるつもりが、ここで知的興奮が絶頂を迎えてしまいました。
帰りにニヤニヤしてしまうくらいに興奮が続いたのなんて久しぶり(笑)

僕が昨日出会った人たちと話す中で終始感じていたのは、「思考の長さ」でした。
最初に会った方とは具体的なアイデアの出し合いを、居酒屋の老夫婦とはたわいもない世間話、そして飲み屋のマスターとは抽象的な話と、トピックは全く違います。
しかし、彼らに共通していたのは、思考が浅いものではなく、しっかり、深く、練りこまれたものだという点です。
その場の瞬発力で思いついた浅い思考や、ロジカルシンキングでたどり着くようなありきたりな解答ではなく、そこにはその人たちの「らしさ」が乗っかっていました。
その「らしさ」がビンビンに伝わってきたため、彼らとの会話にとても興奮したのだと思います。

思考の幅、具体的には思考を言語化する能力は、普段僕たちが触れている活字の長さに比例すると思っています。
日常で触れる活字がTwitterの100字前後という人は、100字前後の思考になり、ブログが主な情報収集源という人は、1000〜2000字の思考を好んで使うようになります。
これがニュースサイトならば5000〜10000字、本になると数万文字。
逆に、LINEになると最大で数十文字の思考となるはずです。
日常でよく触れるメディアの文字数によって、その人の思考の長さが変わるとして、文字数が短い思考ほどアウトプットは早いというメリットがある一方で、文字が長い思考には、アウトプットが深いというメリットがあります。
上で書いた「らしさ」は、深い思考の中で自然と付加されるものなのだと思います。

文字での思考が好きな僕にとって、一緒に話していて面白いのは、やはり後者の人たち。
昨日話した人たちは、総じて面白く、個性的な思考の持ち主でした。
完全に僕よりも思考が「深い」し、「広い」。
久しぶりに、自分の埃が積もった引き出しも総動員して話すという機会になった気がします。
そして、彼らと話す中で、最近はあまり本を読んでいなかったため、自分自身の思考の幅が短くなっているなあと痛感しました。
ここ最近合理的な、早い思考をしがちでした。
頭の回転の速さで勝負するのはやめて、深さで勝負しようというのがここ数年の僕のテーマです。
久しぶりに浴びるように本を読んで、思考の長さを取り戻さなければ。。
そんな風に感じた1日でした。

待ち時間にスマホの充電器を借りに入ったパチンコ屋で大当たりを引いて、横のおっちゃんに台を譲る(後で立ち寄ったらその後19回大当たりしてた!)という良い行い?もして、なかなかに面白い日曜日でした(笑)

アイキャッチは今読んでいる森沢明夫さんの本から

虹の岬の喫茶店 (幻冬舎文庫)

虹の岬の喫茶店 (幻冬舎文庫)


就活本には書かれないテクニックではないエントリーシートの文章術〜プロは800文字の原稿を仕上げるのに何文字の下書きをするか?〜

今年の6月から有村架純さんが主演で公開となる「夏美のホタル」。
その原作者である森沢明夫さんが先日、ある番組に出演した中でインタビューについて質問されていました。
「ある人にインタビューをして、その中で記事になるのはどれくらい?」
森沢さんはこの質問に対し、「昔出版社に勤めていたときに言われたのは10聞いて1を書けということでした」と答えています。
相手から聞いた生の情報が10あるとしたら、それをギュッと凝縮して1だけ見せる。
それがインタビュー記事の基本だそうです。

ブロガーのちきりんさんがちょうど最新のエントリーで、プロゲーマーの梅原大吾さんとの対談本を執筆中と書いていました。
1冊を仕上げるために対談に費やした時間は100時間ほどだそう。
そこから情報を削って、新書の文字数に収まるように編集していきます。

小説でも卒論でもそうですが、何かしらの文章を書いたことがある人なら、文を書くことで一番重要な作業が、情報を削っていく作業であるということを、みんな知っています。
例えば1000文字の文章を書きたいとして、1000文字ちょうどで書くようなことをしたら、そこにできるものは、内容の無い、軽い文章になってしまうのです。

よほどの文才がある人ならば別ですが、そうでなければまともに相手に自分の主張を伝えたいと思うのならば、最低でも下書きの段階では、最後に仕上げる文字数の倍くらいの情報量は用意しておかなければなりません。
それが文章として成立する最低ライン。
これが10倍くらい用意できると、プロの記事レベルでしょう。
(ちなみに僕が自分のブログを「記事」でなく「エントリ」と呼ぶのは、この文を削る作業をほとんどしていないからです。)
就職活動をするに当たっては、どうしてもエントリーシートを書かなければいけません。
なんだかんだで毎年エントリーシートを見る機会があるのですが、そのときに一番感じるのが、どのくらい削って仕上げたの?ということです。

同じ800文字の志望動機でも、5000字の内容を削って仕上げたものと、300字の内容をなんとか膨らませて仕上げたものでは、読み手に伝わる情報量はまるで違います。
ただ、残念ながらほとんどの人のエントリーシートは後者です。
800字を埋めるのに必死になって、なんとかエピソードを膨らませた感に溢れているものも少なくありません。
だからこそ、しっかりと指定語数の何倍もの情報量を用意して、そこから削って、磨き込んだ文章を書き上げるというのは大きな武器だと思うのです。
毒にも薬にもならないような、うす〜いエントリーシートが溢れている中で、一つだけ磨き抜かれたものが入っていたら、試験官の目を引きつけます。
本当にそれくらい、磨き抜かれた文章と膨らませた文章には差があるのです。

当然具体的なテクニックが無いわけではありませんが、エントリーシートの書き方で悩んでいる人はまず、指定文字数の倍以上の情報を並べるということをしてみて下さい。
きっと、思いつくままに書いていった内容とは違うエピソードや視点が出てくるはずです。
そうしたネタがたくさん書き出せたら、次に編集作業です。
自分がアピールしたい魅力を相手にわかってもらうには、どのエピソードをどういう順番で見せるのがいいのか?
書くための材料が手元に揃っていれば、そういった部分にも自然と意識が向くようになります。
構成や編集は、ネタに溢れていて初めて行える行為です。
800文字の文章を書こうとして、その文字数いっぱいいっぱいで文を書こうとしていては絶対に考えの及ばない視点です。
逆に言えば、それをやるだけで圧倒的に輝いたエントリーシートを書くことができるということ。
2次面接や3次面接になってくると、エントリーシートの出来はあまり関係ありません。
(というか、初めの面接でそこは振るい落とされている)
だから、このやりかたは、一次面接に通らなくて悩んでいる人向けのものです。
もし書類選考で中々通ら無いという人がいたら、ここに紹介した、編集と構成を意識して書いてみるといいと思います。
ポイントは、文字数制限の倍以上を書き上げることと、それを元に自分がアピールしたいことが伝わるエピソードの並び順を考える事です。
是非、試してみてください。

関連エントリです、こちらもお願いします!


アイキャッチは森沢明夫さん「夏美のホタル」

夏美のホタル (角川文庫)

夏美のホタル (角川文庫)



相手を頷かせる説明の作り方〜就活の面接が上手くいかないのは1つの説明を練り込むから〜

僕が愛読しているブログのひとつ、みつしろさんの『楽しく、気持ちよく、適当に。』というブログで、非常に面白い記事が上がっていました。
「アオアシ」というサッカーマンガに出てくるセリフに触れて、選択肢を複数持つことの強さについて書いています。
この記事を読んだとき、確かになあと膝を打ちました。
というのも、僕自身、授業をするに当たって、複数の教え方を用意しておくことを心がけているからです。
例えば高校英語の完了形という単元に関して、僕は初めの切り口を4つ用意しています。
「完了形って3種類の用法があったよね?」と中学の復習から入るパターン。
「3種類あるって習ってきたけど、実は一つのイメージから派生したんだよ」と、中学の知識をアップデートするアプローチ。
「そもそも完了形っていう概念は今の日本語にない」と、完了形の概念を日本語の特徴と混ぜて説明するアプローチ。
そして、そもそも完了形とはどういう理屈で生まれたのかという、文型の知識から遡っていくアプローチ。
もちろんこれは高校英語用の説明なので、中学英語では全く違う導入を用意しています。
特にマンツーマンでの指導の場合はそうなのですが、こんな感じで何パターンかの説明方法を準備しておき、生徒さんの興味の度合いや理解の深さによって切り口を選びます。

複数の説明パターンを用意しておくことで、相手の反応を見て、説明方法を変えたり、場合によってはいろんな説明を組み合わせたりということができるようになります。
結果として、説明が相手に刺さらなかったときも、慌てずに対応することができる。
一つのものに対して複数のアプローチを持っておくことの強みはここにあるように思います。

友達でやたらと営業が上手い人がいるのですが、彼の説明もまさにこのパターンです。
一つの説明を綿密に練り上げるのではなく、細分化したできるだけ多くの説明を用意しておき、対面した相手に合わせて臨機応変にカードを切って行く。
相手に合わせて用意したカードを変えていくため、結果として相手に刺さる説明になるわけです。
逆に、この人は営業に向いていないなと思う知り合いもいます。
彼も決して怠けているわけではありません。
むしろ、先にあげた人よりもずっと丁寧に準備をするタイプ。
ただ、その準備の仕方というのが自分が想定した一つの説明を丁寧に作り込んでおくというタイプのものなのです。
だから、ちょうど自分と波長の合う人の場合はすごく上手くいくのだけれど、それ以外の人には全く刺さらないという事態になってしまいます。
当然相手に自分の用意した説明にイマイチ納得していない場合、なんとか伝えようとしてもその説明しかないので、どんどん焦り、余計相手には伝わりにくくなってしまいます。
「そもそもその説明では相手に伝わらない」というときに、思い切って切り替えるという発想が持てないのです。

話の組み立て方やプレゼンテーションにおいても言えることですが、説明には最初から最後まで完璧に用意しておく方法と、絶対に外してはいけないポイントだけを抑えてあとはその場で組み立てて行くという方法があります。
僕はこれを音楽になぞらえて、前者をクラシック型の説明、後者をジャズ型の説明と読んでいます。
クラシックとジャズに優劣がないのと同様に、説明方法そのものにどちらがいいというのはありません。
例えば演劇や落語、結婚式のスピーチみたいな発信者と受信者が1:nの関係になる場面であれば、圧倒的にクラシック型が適しています。
逆に受け手の数が少なくなるほど、クラシック型よりもジャズ型の方が相手に伝わりやすくなるわけです。
極端な話、発信者と受信者がn:nであるディスカッションでしっかり組み立てたクラシック型の説明をし始めるような人がいたら迷惑です。
その場に適した型を選ぶのが重要なわけです。

就活や営業の場は、マンツーマンから多くとも数人に対して説明をすることが求められます。
この時に役に立つのはジャズ型の説明です。
そして、ジャズ型の説明をするときに重要なのは、カードをたくさん用意しておくこと。
その場で臨機応変に組み立てていくといっても、それはまったく用意もなくその場の思いつきに任せるということとは違います。
相手から見たらその場で作っているように見えても、パーツパーツの説明は、事前にしっかり用意したものでなければならないのです。
その意味において一つの説明を丁寧に作り込むよりも、はるかに準備が必要かもしれません。
しかし、複数のアプローチを用意しておくことで、圧倒的に自由度の高い説明をすることができます。
これは、就活の面接などで非常に有効な戦略です。
「これだ」と思う説明を作り込んでいる人は数多くいますが、いくつも説明の手段を用意しているという人はそういません。
例えば、留学という一つのネタがあるのなら、アピールしたいことが全く異なる4パターンのストーリーを組み立ててみる。
逆に粘り強さをアピールしたいのなら、全然違う4つのエピソードから、粘り強さを表現できるストーリーを組み立ててみる。
こんな感じで用意しておくだけでも、相当面接のときに上手く説明ができるようになるはずです。
偶然このブログにたどりついて悩んている人がいたら、ぜひ試して見て下さい。

アイキャッチは度々紹介するみつしろさんの就活ゲーム

就活ゲーム/準備編(第1?4章)

就活ゲーム/準備編(第1?4章)




SoftBankの携帯にかけてくる営業がウザいから、やめさせる方法を考える

僕は基本的に人から電話を掛けて来られるのが大嫌いなタイプです。
携帯の電話帳はまったくのゼロ(笑)
たとえ目上の人であっても、基本的に電話には出ない(留守電があれば内容次第で折り返す)し、掛かってきても登録しないと言ってあるので、殆ど電話は掛かってきません。
で、昨日の20時くらいにそんな僕のところによく知らない番号から電話が。
出ないし登録しないというのを承知の上で掛けてきてくれる人たちもいるので、その人たちの番号くらいはおおよそ覚えているのですが、ディスプレイに表示されたのは完全に見知らぬ番号。
仕事終わりに留守電を再生したところ、なんと、SoftBankからの営業電話でした(笑)

携帯電話に営業電話をかけるというSoftBankの新戦略(笑)は、絶対にやめた方がいいように思います。
確かに、他の広告手段に比べて圧倒的にリーチ率は高いと思いますが、それ以上に印象を損ねているはず。
ケータイに掛かってきた電話であれば、大抵の人が取るでしょう。
また、掛かって来た時に電話を受けられなかったとしても、確実に留守電は聞きます。
まして「SoftBankの◯◯です。」なんて言われたら契約上の問題があったのかと思い、取り敢えずその場で切ることはしないでしょう。
したがってその後の営業電話は圧倒的に聞いてもらえます。

当然営業内容は消費者にとって得になる内容ではるはずなので、聞いて貰える割合が高ければ、確率論的にそれを聞いて契約更新を決めるユーザーも増えてきます。
そう考えれば、1番情報を受け取って貰える割合が高い携帯への電話営業は効果的とも考えられます。
しかし、それは成約件数を見た時のお話です。
成約件数で見た時に非常に効果的なこの方法ですが、それは同時にブランド力という観点でみたら大きな損失をもたらす手法とも言えます。
確かに、直接電話をすれば、SoftBankが伝えたい情報は聞いてもらえるし、それで契約更新をする一定のユーザーもいるはずです。
しかし、それ以外の大部分にとってら、一方的に向こうの話をプライベートな時間に押し付けてきたという迷惑な行為に他なりません。
レストランでビュッフェを楽しんでいたら店員がやってきて、しつこくビュッフェ以外の商品を頼まないかと提案してくるようなもの。
こんなんされたら店を変えないまでも、2度と来ようとは思わないはずです。
少なくとも僕にとっては、携帯に営業電話を直接掛けるのは、そのくらいSoftBankのブランドイメージを傷つける行為であるように感じました。

携帯への電話営業がまずい戦略だなあと思った次に感じたことは、SoftBankはそのくらいのことをしないといけないほど、ユーザー獲得に苦戦しているのかということでした。
おそらくあの電話営業は、2年の契約期間を過ぎた人に対してかけているものだと思います。
とすれば、ユーザー獲得に伸び悩んでいるというよりは、「既存ユーザーのSoftBank離れ」に悩んでいると見るのが正しいかもしれません。
既存ユーザーが離れていくから、契約更新のタイミングであんな営業電話を掛けなければならないのだと考えるのが妥当でしょう。
で、調べてみたら、キャリア別純増数でSoftBankだけ減少していました。
基本的に携帯キャリアはdocomoauSoftBankの寡占市場です。
(MVNOについては後で触れます)
そして、僕のような一般ユーザーが見る限り、どのキャリアのプランも目立った違いはありません。
だとすれば、理論的には市場のユーザー占有率は各キャリア33.3%に近づきます。
しかしそうはなっていない。
占有率を高めようとすれば①新規ユーザー獲得を増やし②既存ユーザーに解約されないことが必要です。
①>②なら占有率が上がり、①<②なら占有率がさがると言うわけです。
仮にどこのプランも目立った違いがないとすれば、①は3社共通と考えられます。
とすると、占有率の差は②の既存ユーザーの解約によって生まれると考えられる。
既存ユーザーは⑴サービスに満足していて変える理由がない⑵サービスに満足も不満もないから変える理由がない⑶サービスに不満があって変えたいの3種類でしょう。
docomoの占有率がずっと高いのは、ユーザー層が高く、⑵の人が多いのかなあと思ったり。
それはともかく、ここから考えられるのは、今の占有率の違い(docomo45%、au29%、SoftBank25% ※2016年3月現在)は、⑶のサービスに満足があって変えたいという人の割合がほぼ反映されていると考えることができます。
だからこそ、営業電話なんてユーザーに嫌われるようなこと、やるべきではないと思うのです。

もうひとつ、近年自前の通信基地をもたないMVNOも登場しています。
基地局を持たず、場合によっては販売店もないため、安いプランが提供されています。
MVNOを使った格安スマホが少しずつ注目されていますが、こうしたサービスに移りやすいのはITリテラシーの比較的高い層です。
これはCMから受けるターゲットとしている世代の印象と、身の回りで使っている人を見ただけの主観の話ですが、ITリテラシーの高い層は比較的SoftBankと契約しているように感じます。
だからこそ、格安スマホが広がって1番ユーザーが離れて行くのもSoftBankであるように思うのです。
(この辺は完全に印象ですが)

そんな訳で、SoftBankの携帯への電話営業は絶対にやめたほうがいいと思うわけですが、言っているだけではかわらない変わらないだろうと思うので、具体的に営業電話のやめさせ方を考えてみようと思います(笑)

SoftBankが営業電話をかけてくるのは営業電話による解約件数<成約件数だからだと思うのです。
であれば、解約件数>成約件数になったらやめるはず。
おそらく営業電話によって契約更新をしたいと思う割合と迷惑に感じる割合を比較したら後者が上回っているはずです。
だから、携帯に電話営業がかかってくる度に、迷惑だと思ったユーザーがみんな「この営業電話がかかってきたから他キャリアに乗り換える決心がついた」と言えば、すぐにこの営業はなくなるはず。あるいはキャリア切り替えの際にアンケート欄に解約する理由に「営業電話がウザいから」と書くとか(笑)
きっと、そんなに多くない件数のこうしたクレームで、すぐに電話営業はなくなる気がします。
とりあえず僕は、ちょうどSIMフリースマホに切り替えようか迷っていたので、次に電話営業がかかってきたら、営業電話がかかってきたのを理由に切り替えようと思います。
電話営業がウザいと感じた方がいらっしゃったら、是非「電話営業による解約件数>成約件数」大作戦にご協力お願いします(笑)

アイキャッチはサンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」
「まさよし」ってみると意味深です(笑)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)





ワンピ、進撃、ハンターの流れで国語の新教材「見えないだけ」を読んでみる

今年から中学2年生の国語の教科書に掲載されるようになった牟礼慶子さんの「見えないだけ」という作品。
僕はこの作品が選定されたことに関して、とても時代のトレンドを反映させているように感じました。
-あんなに確かに在るものが まだここからは見えないだけ-

おそらく通常の理解で行けば、「子供の間には見えない様々な出来事が世界にはある、世界は広くて面白い」という意味で捉えるのが妥当でしょう。
というか、作者がこの作品を書いた年代や、「年若い友へ」という副題をみたら間違えなくこれが作者の伝えたいことだったはずです。
ただ僕は、この作品が2010年の今掲載されて、子供たちを囲んでいるコンテンツの流れから見たとき、別の意味が付加されるように思います。

この作品を今の子供たちが触れているコンテンツの中で理解しようと思った時、僕の頭には次のような作品が浮かびました。
ONE PEACE、HUNTER×HUNTER、トリコ、進撃の巨人FAIRY TAIL
ハンターハンター進撃の巨人は深夜枠ではあるものの、いずれも2010年代に放送していた作品です。
また、いずれの作品もマンガとして大ヒットをしています。
僕がこれらの作品を読んで共通項を感じるのが、「守られた狭い世界とその外に広がる無秩序な世界」というテーマ性です。
ONE PEACEでは、主人公が過ごしていた世界の外にグランドライン、そしてその先に「新世界」と呼ばれる場所が広がっています。
グランドラインに行けばそれまでの海では想像もできなかったようなことが次々と起こり、そしてそれは新世界に行くと一層強まります。
守られた世界が、主人公ルフィの故郷のある海で、グランドラインが無秩序な外の世界。
HUNTER×HUNTERでは無秩序な外の世界を「暗黒大陸」と呼びます。
まだ明確な描写は描かれていませんが、そこでは人類の想像のはるか上をいく危険に溢れているようです。
トリコの場合はこれが「グルメ界」になります。
このところずっとグルメ界篇が続いているので忘れてしまいがちですが、トリコの作品の中では、人々が暮らす人間界の外に、はるかに広がるグルメ界が存在します。
当初そこは、楽園と思われていたが、実態は生きて帰ってくるものが殆どいないような過酷な世界だった。
これが、トリコにおけるグルメ界の設定です。
世界の内と外の問題を扱った作品の象徴とも言えるのが進撃の巨人でしょう。
「壁」という設定を通して、1番直接的に守られた内側の世界と、無秩序な外の世界を描いています。
そして、個人的に驚いたのがFAIRY TAILにおける外の世界の描写です。
今進んでいる話の中で(恐らくこれが最後の話になるのだと思います)アルバレス帝国という存在が登場しました。
設定は確か、自分たちが暮らす大陸の向こうにある、途轍もない魔導師たちが溢れている場所だったと思います。
それまでの物語の中では、アルバレス帝国という存在は殆ど描かれていません。
ここに来て読者の頭の中にできていた作品世界の全体像を広げてくる。
これも広義の内側の世界と外側の世界と言えるでしょう。

僕は、作品の中で守られた内側の世界と無秩序に広がる外の世界が活発に描かれるようになったのが2010年代の特徴であると思っています。
(ONE PEACEの新世界編が2011年、FAIRY TAILアルバレス帝国編が2015年です)
世界観が全く違うこれらの作品の中で、同様のモチーフが同時に描かれることに、時代の空気を感じます。
そして、この文脈で牟礼慶子さんの見えないだけを読むと、本来の解釈とは違う読み方もできると思うのです。
こうした視点で僕が感じたのが「君たちはまだ見ぬ無秩序な世界に飛びさなければならない」というメッセージです。
恐らく、牟礼さんの伝えたいメッセージは「世界は面白さに溢れている」ということだったのだと思います。
しかし、今の子供たちの周りにあるコンテンツの文脈で「あんなに確かに在るものが まだここからは見えないだけ」という文を読むと、君たちは守られた内側の世界ではなく、無秩序な世界に飛び出さなければいけないという強いメッセージとして捉えることもできると思うのです。
もちろんこれは僕の半ば強引ともいえる邪推で、こんなもの「教科書的な」正解ではありません。
ただ、読み手がどう受け取るかという意味で、こうした読み方もあながち間違えではないのかなあと思ったりするのです。
「読み方」は人それぞれなので、こんな読み方を推奨する気はありません。
ただの僕の感想です(笑)


アイキャッチはフェアリーテイルの最新巻


ロジカルシンキングの弱点と美術の強さ

日頃子どもたちに話す時はどうしても聞いてもらうことを第一にするので笑い話に仕上げるのですが、僕は美術を見に行くことが大好きです。
先日友達に「なんで美術館なんて行くの?」と聞かれました。
その時は反射的に「好きだから」と答えてしまったのですが、よくよく考えたらなぜ自分が美術館に行くことが好きなのか、考えたことはありませんでした。
で、そこからしばらくこの問いに対する自分なりの解を考えることになりました。
そして数日後。
その答えが自分なりに説明できたので紹介させて下さい。

もっと知りたいパウル・クレー ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

全くもって威張れることではないのですが、僕な正直どの絵がどのようにいいかはほとんど分かりません。
それでも美術館に行って、いろいろな絵を見たいのは、美術品を通して自分の中の「世界の見え方」が増えると思っているからです。
これは自己啓発的な意味ではなく、実際に見えなかったものが見えるようになるという意味です。
僕たちは普段当たり前のようにものを「見て」いますが、実際は知識があるからそう見えているだけです。
例えば、僕たちは都会のビル群を見たとき、近くのビルが大きく見えて、遠くのビルは小さく見えるように感じます。
しかし、実際は距離が近いと大きく見えて、遠くになるにつれて小さく見ているとは限らないのです。
もし本当に近くにあるものが大きく見え、遠くにあるものが小さく見えるとしたら、太陽は昼と夕方で随分距離が離れたということになってしまいます。
実際なそんなことはありません。
近くにあるものが大きく見えて、遠くにあるものが小さく見えるのは、僕たちの見方に遠近法がそれだけ強く影響をしているからなのです。
僕たちは「近くのものを大きく、遠くのものを小さく描く」という遠近法を知っています。
だから、僕たちの目には近くのものが大きく見えて、遠くのものが小さく見えるのだと思うのです。


同じ話をチームラボの猪子寿之さんが、「雨」を用いて行なっていました。
カイユボットという画家の「パリの通り、雨」という作品には、雨の日のパリの絵が描かれているのですが、そこには傘を持った人たちと、濡れた地面はあっても、「雨」そのものは描かれていません。
僕たちは雨を表そうとすれば、当たり前のように画面に線を引くでしょう。
しかし、「細い線を画面に引いたら雨に見える」というのは、そうやって描かれた雨の絵を見慣れているから「雨」に見えるのであって、実際の雨をよく見れば、線になどなっていないことに気づきます。
雨を線で描くというのは、浮世絵で実践された雨の抽象化であり、僕たちはそこで「雨の見え方」を学んだからこそ、雨が線として「見えて」いるのです。

僕にとっての芸術の役割はここにあります。
どうやって世界が見えるのか、その「見え方」のパターンを増やしてくれるのが、僕にとって芸術の1番の効能です。
大学時代の僕は、ある種のロジカルシンキング原理主義といえるくらいに、論理的思考をすることが大切だと思っていました。
しかし、ビジネスの場でよく言われるロジカルシンキングも、世界の「見え方」の一つのパターンに過ぎません。
もちろん何も尺度となる見え方を持っていない人にとっては、ロジカルシンキングは非常に便利な見え方でしょう。
しかし、物事の「見え方」はロジカルシンキングだけではありません。
ロジカルシンキング原理主義だった当時の僕にとっては、論理的に分解することこそが世界を正しく見る方法だと思っていたのですが、実はそれ自体が一つの価値観に過ぎないわけです。
あるデータを平均で比べるのか分散で比べるのか、それとも中央値を見るか、最頻値を見るか。
そういったパターンの違いと同じようなものです。
ロジカルシンキングが大切だと言い切っているのは、数字を平均値でしか分析できないのと同じように感じるわけです。
そんな風に思うきっかけになったのが、僕にとっては芸術です。
過去の作家が提示した「世界ってこう見えるよね」ということを収めた作品に触れると、「見え方」の引き出しがどんどん増えていくのを感じます。
ロジカルシンキングならばこうなるけど、別の見方で考えたらどうなるだろう。
何かを考える時に全く違うアプローチができるようになるわけです。

今の社会では、とかくロジカルシンキングこそが大切と思われている節があります。
だからこそ、別の見え方を知っていることが武器になる。
そんな風に思うからこそ、僕はかなり意識していろいろな「見え方」を取り込もうとしています。
その手段の一つが、僕にとって美術館に行くことなのです。


アイキャッチはモネの解説書

もっと知りたいモネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

もっと知りたいモネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)