新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



仕組みを見抜く力ための「帰納的スキル習得」のススメ

小さい頃からやっていてよかったと思うことを1つ挙げてくれと言われたら、僕は迷わず「手品」と答えると思います。

もちろん今の生活を楽しむのに役に立っているスキルは他にはいくらでもあるのですが、手品は具体的な恩恵以上に、僕の思考力そのものを引き上げるのに大きく影響を与えてくれたように思うのです。

今でこそら気になる手品があればすぐにネタを買えるわけですが、手品を始めたての中学生の僕には、タネの解説は高すぎる商品でした。

だから、凄いなと思う手品は録画やyoutubeで一コマずつ止めて分析し、自分なりの仮説に基づいて元ネタを超えるみたいなことをしていました。

(当時は動画の発信がこれほど普及しておらず、タネの解説はほぼありませんでした)

そんなわけで中学〜高校にかけての学生時代の僕は、四六時中手品のタネについて仮説を考え、実際にやってみるみたいなことをしていました。

 

◆◆◆

ありがたいことに、ときどき僕の論理的思考力や抽象化能力を褒めていただくことがあります。

で、そのルーツを聞かれたりすることがあるのですが、僕の場合、それは元々あった才能でないのはもちろん、受験勉強で身につけたものでも、社会人になって意識的に身につけた物でもなく、恐らく手品で身につけたものだったりします。

あり得ない現象を起こすにはどうすればいいのか?という思考を手品で繰り返すうちに、①目の前の現象を理由付けて説明する力と②現象を系統立てて整理する力が身についたような気がするのです。

 

◆◆◆

僕が好きな評論家の岡田斗司夫さんが、物事を見極めるための例で、「肉じゃがとカレー問題」というお話をよくします。

岡田さん曰く、「女性が『得意料理はカレーと肉じゃがです』っていうと料理が得意なように聞こえるけど、あれ、実は材料も調理法も殆ど同じで、味付けだけがちょっとちがうんだよね。」だそう。

確かに(細かな工程にケチをつければ別ですが)味付けがみりんとしょう油なのかスパイスなのかという違いを除けば、殆ど工程は同じです。

 

岡田さんのこの、肉じゃがとカレーを同じものとする見方は、俗に抽象化なんて言われたりしますが、これをやる根っこにあるのは、先ほど述べた①目の前の現象を理由付けて説明する力と②現象を系統立てて整理する力であるように思います。

僕にとっては、いずれも(半ば偶然」手品から生まれてきたものでした。

 

◆◆◆

黒子のバスケの赤司くんが、初動の一歩目をずらすことで敵のスーパーシュートを止めるという神業を披露するシーンがあります。

僕はこのシーンを見たとき、極めて手品のタネ明かし的だなと思いました。

みんなが圧倒されるスーパーシュートを要素に分けて構造を分類することで、仕掛けを知り、それをハックしたわけです。

この思考は、あらゆる物事に転用可能な便利なスキルであるように思います。

 

ここからは実際の例で現象を要素と仕組みに分解してみたいと思います。

1つ目は少し前に爆発的な伸びを見せた、オリラジの中田敦彦さんのYouTube大学というチャンネルについて。

このチャンネルは一見すると、中田さんが自分の知っている知識を楽しく分かりやすくまとめて抗議する番組に見えますが、1つ1つの動画を見ると、ほとんどの分野の説明が、いわゆるそのジャンルにおける有名どころの本の中田さんの要約であることに気がつきます。

(たまに本流でない本の知識を取り上げて炎上するイメージ)

これを持って抽象化するならば、中田さんの番組は、「毎回勉強になる知識を教えてくれる番組」ではなくて、「中田さんの読者感想文をただただ楽しむ番組」になるわけです。

 

前田祐二さんの『メモの魔力』や見城徹さんの『たったひとりの熱狂』を編集した天才編集者の箕輪厚介さんという編集者がいるのですが、彼の編集した作品群を見たとき、彼の凄いのはビジネス書というカテゴリで心情に訴えるコンテンツを生み出したという部分であることが分かります。

僕はそれをもって、箕輪さんの凄いところは、①本来意識の高いビジネスマンは自己啓発と相性が良い、②意識の高い人は自己啓発が嫌いという特徴を見抜き、いち早く「自己啓発の棚にある内容を表面的にはビジネス書のように調えて、市場に広めるのが得意な人」という印象です。

彼の功績を僕が手品のように分解するとしたら、「自己啓発の棚に並ぶ本をビジネスの棚に並べた人」となるわけです。

 

◆◆◆

こんな風に、僕は何かしら事象に出くわした際、なんでもかんでも抽象化して理解するくせがあり、結果としてその習慣が社会に出てから物凄く役に立っていたりします。

先ほど述べた通り、それをどう身につけたかと言われれば、100%手品のおかげだと思います。

物事をラクに運ぶためには仕組みを正確に見抜くことが効果的なわけですが、その能力を身につける訓練として、手品は非常に相性が良い。

ロジカルシンキングの本を読み漁って、頑張ってこうした力を身につけようとする人もいますが、どうしても抽象化や構造化には到達できない気がするのです。

だからといって、その場で「だから手品を学ぼう」なんて突飛なアイデアにはたどり着かないはず。

そうではなくて本当に身につく学びというのは、何かしら知識を得たときに、自分の経験と瞬時に結びつく時に得られるもののような気がします。

僕の場合はそれが手品でしたが、人によってはもしかしたらピアノかもしれないし、パチンコかもしれない(笑)

どんなものでも一定の追究を始めれば、意識無意識は別に、こうした抽象化にたどり着くような気がします。

そして、そこで得られる理解は、いわゆるスキル本にある情報の何倍も買い物になる。

現代はとにかくスキルを紹介する情報に溢れるので、ついつい「スキルは商品である」と錯覚しがちですが、どこまでいってもスキルは「経験を帰納的に解釈したもの」という事実は揺らがない気がします。

だからこそ、自分の好きなことに没頭し、それを抽象化するみたいな方が、長期的にクリアな論理的思考力が得られる気がするのです。

高度に分かりやすく解説したロジカルシンキング本が悪いとは思いませんが、そういった演繹的な技術習得は無駄がないが故に身につかない気がします。

とにかく演繹的なコンテンツが好まれる現代だからこそ、帰納的な習得を意識すれば長期的な価値になる。

なんとなく僕はそんな気がするのです。

学生時代の手品に没入した僕のことを思い出しながら、そんなことを考えました。

 

アイキャッチは僕の人生を変えたこの一冊(笑)

「あらゆる現象は説明できる」という今の僕のスタンスを作ってくれた本である様な気がします。

カードマジック事典

カードマジック事典

  • メディア: 単行本
 

 

 

オリンピックは失敗以外の選択肢は見つからない

1月の終わりくらい、ちょうどコロナが中国で流行りはじめ、日本にも感染者が出たか出ないかくらいの頃に友人とご飯に行った際、「オリンピックは開催できると思う?」という話になり、僕は「やるかやらないかは分からないけどどちらにせよ失敗する」というようなことを話していました。

その場ではサッと仮説を立てて話しただけだったのですが、大分コロナが広がりを見せてきて、いよいよ言った通りになってきたので、その時の仮説を備忘録的にまとめたいと思います。(以下基本的に1月時点で考えたお話です)

 

オリンピックが開催される中止されるかは分からない

友人からの問いは「オリンピックが開催されると思うか?」だったのですが、これに関しての僕の答えは「分からない」でした。

僕は何かについて考える際、「しなければならない理由」と「できない理由」を比較することにしているのですが、オリンピックに関してはどちらも十分すぎるくらいあるというのが僕の答えでした。

 

これは政府に限らず日本人のくせみたいなものだと思うのですが、日本では大きな企画毎をする際、たいてい当初承認を得た予算が、それが進むにつれ「止むを得ず」大幅に大きくなっていきます。

今回のオリンピックに関してもそうでしょう。

別に僕はそれに対する良い悪いの判断に興味はありません。

ただ、こうした企画運営は、中止という意思決定がとれない構造になっていると思うのです。

経済学に「サンクコストの呪縛」という考え方があります。

これは、費用を投資し続けたら、その分だけ回収しなければという意識がはたらき、後戻りができなくなるというもの。

ちょうどパチンコで負け続けているおじちゃんが、少しでも取り戻さなければと考えてもっと負け続けるのと同じ構造です。

はじめに承認を得た予算から大幅に膨れ上がるというのは、まさにこのサンクコストの呪縛にかかりやすい。

約束を上回った分はなんとか取り戻さなければいけないとなるからです。

また、様々な利益関係者の人たちを考えれば、このオリンピックがあることを前提に組織を運営していた人たちも少なくないはずです。

彼らにとって中止はあり得ない。

そういった人たちの事情も、「しなければならない理由」に入るでしょう。

 

一方で「できない理由」もたくさんあります。

コロナウィルスの感染力を考えれば、大人数が一箇所に集まるイベントは避けるべきです。

まして応援となったら、接触や飛沫(これによる感染があるのかは定かではありませんが...)は避けられません。

それが分かる状態でオリンピックを強行し、コロナウィルスの発病者を出せば、日本が非難されることは明らかです。

こうした観点からイベントはできないでしょう。

また観客だけでなく、アスリート入院中んしても、この世界的な自宅待機の空気で、十分な調整ができていないはずです。

トップアスリートともなれば、数ヶ月に渡る調整は不可欠でしょう。

そうした観点からも、そもそも出場者が集まらないと思うのです。

これもオリンピックが「できない」理由です。

 

こんな風に考えると、「しなければならない理由」と「できない理由」のどちらもが存在するため、どちらになるか分からないと答えました。

 

開催してもしなくても、うまくいかないという仮説

先ほど、僕は何かを考えるときに、「しなければならない理由」と「できない理由」を検討すると書きましたが、両方の場合を考えた上で、僕は次に「もしそうなった時に何が起きるか」を考えていきます。

そして予想をするときはどちらにも共通する部分を取り出します。

 

オリンピックの場合であれば、①開催しなければならない場合と②開催できない場合があるわけですが、①の場合、おそらく観客が集まらず、当初見込んでいた収益は上がらないでしょう。

また、仮に人が集まった場合でも、そこを経由してコロナウィルスの感染者が1人でも出た場合は国内外からの非難は必死です。

したがって仮に開催しなければならないとして、うまくいかないと考えられます。

 

また②の開催できない場合に関しては、ここ数年の日本経済はオリンピック需要を見越したものであったように思います。

そのお目当がなくなるわけですから、今以上に経済的に失速する可能性があります。

昨年、ファンドで働く知人と話していたとき、今の動向を見ていると投資家のお金が集まりすぎているから、数年後には何かをきっかけにリセッションが起こるのではないかという意見で一致しました。

僕はそのきっかけがオリンピック特需の終了と予想したのですが、今回のコロナに加えオリンピックも無くなれば、このタイミングで大きく景気が後退することもあり得ると思うのです。

したがって②の場合もうまくいかないというのが、1月時点での僕の予想でした(その後、自粛要請や欧州での予想外のコロナの広がりで予想よりもずっと早く景気が悪くなっている気がします。)

 

以上のようなことを考えたので、僕は「どちらにせようまくいかない」というお話をしました。

 

56日前の予想と現在の答え合わせ

 

この話をしたのは1月の終わりで、この2ヶ月弱で大分色々な動きをみせています。

ちょうど先ほど(23日時点)、カナダが東京五輪へと不参加を表明しました。

Team Canada will not send athletes to Games in summer 2020 due to COVID-19 risks | Team Canada - Official Olympic Team Website

さらに個人的には財政的な観点から無観客試合でも強行するだろうと思っていたIOCの中でも延期案が出つつあります(開催推進派も根強くいるようですが)

東京五輪の延期、1カ月めどに判断 IOCに最終決定権(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

個人的にはIOCは日本に「中止の選択」をさせ、イベントが頓挫した際の賠償等をして欲しいんじゃないかと思っているのですが、これは根拠も何もない僕の妄想なのでここでは置いておきます(笑)

こんな形で進んでいるので、僕としてはやや中止の側に偏っているんじゃという印象です。

 

コロナの影響が今のようなマスク不足、トイレットペーパー等の紙類の買い占め、自粛要請や欧州でのここまでの広がりなどが起こるなどとは思ってもいませんでしたが、一方で大枠は1月末時点で考えた通りでした。

したがってオリンピックもどちらに転ぶかは分かりませんが、うまくはいかないんじゃないかなと考えています。

 

岡田斗司夫さんが以前、敏腕編集者の箕輪厚介さんとの対談で、箕輪さんから「岡田さんはどうしてそこまでの精度で未来を予想できるのか?」と問いかけられた際、「いつそうなるかと細かな変化は分からないけれど、長いスパンでみればそうなるという意見を述べるだけ」というようなことを言っていました。

僕もこの考え方が好きで、何かを予測するときはもちろん、広報や企画を作るときは「最終的にどこに落ち着くか」を考えるようにしています。

「どんな広報をしたい!」ではなく、「それをすると誰がどんな反応が出るか」を予想して、その中で対象者に影響が出るものを選ぶイメージです。

オリンピックの話も同じで、当日この質問をしてくれた友人は、「どうなって欲しいと思っているか?」や「どうすれば開催できるか?」みたいな答えを期待していたみたいですが、僕が考えるのは自分の主張や願望の部分ではなくて、ひたすらに「どこに答えが落ち着くか」の部分だったりします。

先日、後輩からどうやって先のことを予想しているのか?と聞かれてこのエントリを書いていたのですが、その答えは「そこにしか落ち得ない場所を探す」という事なのかなと思います。

 

書きながら思考をまとめていったので、内容がガチャガチャになってしまった...

 

アイキャッチはオリンピック間のある、東京事変のこのアルバム。

スポーツ

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  • 発売日: 2010/02/24
  • メディア: CD
 

 

 

ヒッチコックの映画術と100ワニと暗殺教室の共通点

昨日も炎上案件としてブログで触れた『100日後に死ぬワニ』ですが、実は僕的にはマーケティング的な観点よりも、純粋にコンテンツ的な視点から面白いなと思っていたことがたくさんあります。

そのひとつが、「なぜ『100日後に死ぬワニ』はこれほど興味を持たれたのか?」という問いです。

僕はこの作品を1話目から見ていたのですが、正直日常が淡々と描かれる過程に関しては、そこまで面白さを感じていませんでした。

それなのについつい見てしまう。

「なんでだろう?」と漠然と感じつつも特に言語化しようとも思っていなかったのですが、下記のつぶやきを見て、そういうことかという気づきが得られました。

 

このつぶやき主さん曰く『ヒッチコックの映画術』には下記のようなエピソードが書かれているそう。

(このつぶやきを見て即刻注文したのですが、現在まだ僕の手元に届いていないので伝聞形ですみません)

「いま、 わたしたちがこうやって話し合っているテーブルの下に時限爆弾が仕掛けられていたとしよう。
しかし、 観客もわたしたちもそのことを知らない。 と、 突然、 ドカーンと爆弾が爆発する。 観客は不意をつかれてびっくりする。これがサプライズだ。サプライズのまえには 、なんのおもしろみもない平凡なシーンが描かれただけだ。 では、 サスペンスが生まれるシチュエーションはどんなものか。 観客はまずテーブルの下に爆弾がアナーキストかだれかに仕掛けられたことを知っている。 爆弾は午後一時に爆発する そして今は一時十五分前であることを観客は知らされている。 これだけの設定でまえと同じようなつまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。 なぜなら、 観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。 スクリーンのなかの人物たちに向かって、 『そんなばかな話をのんびりしているときじゃないぞ!もうすぐ爆発するぞ!』と言ってやりたくなるからだ。 最初の場合は、 爆発とともにわずか十五秒間のサプライズを観客に与えるだけだが、 あとの場合は十五分間のサスペンスを観客にもたらすことになるわけだ。 つまり、 結論としては、 どんなときでもできるだけ観客には状況を知らせるべきだということサプライズをひねって用いる場合つまり思いがけない結末が話の頂点になっている場合をのぞけば観客にはなるべく事実を知らせておくほうがサスペンスを高めるのだよ。  『ヒッチコック映画術』

これを読んだとき、なるほどなあと思ったと同時に僕の『100日後に死ぬワニ』への興味が、これ以上ないんじゃないかというくらいにストンと自分の中に入ってきました。

(と、同時にヨルシカのヒッチコックを聞き直したらさまざまな発見があったのですが、それをここで書いたら千夜一夜物語みたいな入り組んだエントリになってしまうので、今回はやめておきます...笑)

『100日後に死ぬワニ』は、読み手にだけ最終話を予感させているため、そこに描かれる内容が日常であればあるほど緊張感が得られるわけです。

ヒッチコック風に言うのならサスペンスの王道を行っている。

僕はこの説明を見て、なるほどと思うのと同時に、『暗殺教室』のことを思い出しました。

暗殺教室もまさにこれと同じ構造だと思うのです。

 

暗殺教室』に関しては以前、金八先生、ごくせんなどに触れつつ教師ものコンテンツの系譜としてこちらのエントリ(映画「暗殺教室」は金八・ごくせん系譜の熱血教師もの - 新・薄口コラム(@Nuts_aki))で書きました。

このエントリでは、各年代を代表する(と僕が勝手に思う)教師ものの作品を例に、作品に描かれる教師像が[憧れ→身近な存在→同じ人間→踏み台]と変化しているのではないかという説を書きました。

この文脈でいくと『暗殺教室』はまさに「踏み台」(言葉をもう少し綺麗にすれば超えるべき存在)としての教師が描かれた作品です。

暗殺教室』では、冒頭で「卒業までに私を殺して下さい」と述べます。

これは「卒業までに私を超える人になって欲しい」という教える立場の人間のメッセージではないかというのが以前のエントリで書いた僕の仮説でした。

 

ヒッチコックの映画術に関して読んだ時、僕はこの「卒業までに私を超える人になって欲しい」という言葉には、『100日後に死ぬワニ』と同様に作品にヒッチコックが言うところのサスペンス的な要素を盛り込む装置としての意味もあるのではないかと思ったのです。 

冒頭のこのセリフは「この作品は365日間を描いたタイミングで終わります」という宣言でもあるわけです。

 

暗殺教室』では、冒頭に明確に365日後に教室に置いて主要人物である先生が死ぬということが明言されています。

もう少し言えば、「生徒たちは卒業する(大人になる)瞬間に先生を殺すしかない」という残酷な結末が読者に冒頭に伝えられる訳です。

しかし、当然そこに描かれる登場人物たちは、子どもであるからこそ、その残酷な結末について無自覚である。

暗殺教室』はこうした設定のまま、金八先生やごくせんにも劣らない、先生と子供と絆を深める物語がいくつも描かれる訳です。

僕たち読者は、先生と子供たちで問題を乗り越える度に感動するわけですが、そうした感動を見せられる度に「最後の別れ」を考えることになります。

もちろん、それを思い出すタイミングはそれぞれの読者によるでしょうが、少なくとも18巻くらいからは作者がその事を意図的に読者に気づかせようとしている。

そして、最後には冒頭で提示されていた通り、「生徒たちの手で先生を殺す」というシーンが描かれる。

暗殺教室』は単純に教育者として正面からみた面白さだけでなく、ヒッチコック的なサスペンスとしてのハラハラ感も内包しているように思うのです。

 

『100日後に死ぬワニ』も『暗殺教室』もそうですが、冒頭で死を宣告する事で話数を追うごとに読者には緊張感を抱かせる作品。

ヒッチコックが書いている通り、こうした手法は、読者をひきつけるかなり大きな効力があるように思います。

 

アイキャッチ暗殺教室

 

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

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  • 作者:松井 優征
  • 発売日: 2012/11/02
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100日後に死ぬワニはコンテンツとして100日後に死んだ

ここ最近SNSで話題になっていた、きくちゆうきさんの『100日後に死ぬワニ』というマンガ。

第1話から4コマの下に〈あと○日〉という形で、主人公のワニくんの死がカウントダウンされていくという形で話が進んでいき、ちょうど昨日、その100日を迎えました。

仕掛けも内容も面白く、100日に近づくにつれて盛り上がりを見せていた(ヒッチコックの映画術に絡めてこの辺の考察もしたいのですが、話が長くなりすぎる気がするので、機会があればまた書きたいと思います)のですが、最後100日目になり、主人公のワニ君が死んだ直後にグッズ展開や各種コラボイベント等の、いわゆる「広告案件っぽさ」を前面に出し、その結果、作品の感動とは裏腹に賛否の声が溢れています。

僕はコンテンツでお金を稼ぐのは当たり前だろうと思うタイプですし、それ以前に僕も物作りをする人間なので、一人のクリエイターがどれくらいの想いと熱量でコンテンツに向き合っているかも知っているので、きくちたかし先生がお金稼ぎで書いた訳ではないということは初めから分かっている気がします。

一方で、様々な非難の理由も分かる気がします。

だからその辺の両方の食い違いがなぜそうなってしまったのかなということについて自分なりに言語化していこうと思います。

 

僕たちは3つの空間を生きている

nanapiやミルクカフェ、最近であれば無料マンガサイトのアルなどを作った実業家のけんすうさんが、以前、R25のインタビューで、人々は「愛情空間」「貨幣空間」「信用空間」の3つに属しているというお話をしていました。

(会社の人間関係はなぜしんどい? けんすうの助言「コミュニケーションを2つに分けよう」|新R25 - シゴトも人生も、もっと楽しもう。)

愛情空間、貨幣空間、信用空間ではそれぞれ、「愛情」「貨幣」「信用」が相手との価値交換の手段になります。

 

3つの空間ではそれぞれ価値交換の手段が異なり、それを間違えると不具合が生じるわけです。

僕が今回の『100日後に死ぬワニ』の問題を見ていた時に感じたのはまさにこの、所属空間と価値交換の手段の食い違いでした。

 

二重の食い違いを見せた『100日後に死ぬワニ』というコンテンツ

発信者が生活していくためには、どこまでいってもマネタイズは欠かせません。

したがって最終的に「貨幣空間」で回収しようとすることは何も間違えていないわけです。

そんなことは、恐らく『100日後に死ぬワニ』の読者のほとんどが分かっていることでしょう。

それにもかかわらず、僕たちは作品が終わった途端に出して来たあの「商売っ気」に、どこかしら違和感を覚える。

この違和感の正体は、投下されたプラットホームと、コンテンツの性質と、回収手段の属する空間がそれぞれ異なっていたからだというのが僕の解釈です。

『100日後に死ぬワニ』が投下されたプラットホームはSNSでした。

SNSはフォロワーがつき、気に入ったコンテンツに賛意を示すことができ、そこでのフォロワーやいいねの数は、直接マネタイズされるわけではありませんが、人気度/認知度としての一定の価値を帯びています。

その意味で、SNSは「信用空間」に属すると言えるでしょう。

 

一方で『100日後に死ぬワニ』という作品のファンの反応を見てみると、やがて死ぬ定めである主人公のワニくんに、ファンの人たちはどんどん感情移入していました。

描かれていることはありきたりな日常で、正直これといった盛り上がりも見せないのにも関わらずここまでの注目を集めたのは、ひとえに死に向かう主人公に対する興味があったからでしょう。

こうした主人公に対する感情移入から考えると、『100日後に死ぬワニ』は、「愛情空間」のコンテンツであるということができます。

 

本来「愛情空間」で解釈されるコンテンツが、「信用空間」のプラットホームに投げられた結果、僕たちはこの作品に対する愛情を、「いいね」や「リツイート」といった、信用空間での価値交換手段で表現をしていました。

(これ自体はそれほど問題ではありません。)

そうして集まった何万人もの人々の「信用の皮を被った愛情」の総和を、発信者を含む広告会社は安易に貨幣に変えてしまった。

ちょうどおじさんが女の子に喜んで貰いたくて買ってあげたバックなのに、それをこっそり質屋に入れていることを知ってしまったようなイメージ(笑)

 
馴染み始めた「信用⇔貨幣」の交換とまだ馴染まない「愛情⇔貨幣」の交換

ここ数年、クラウドファンディング、オンラインサロン、youtube等の課金システムなど、僕たちは新たに出てきたこれらの仕組みを当たり前に感じるようになってきました。

これらの仕組みの共通点はいずれも「信用を貨幣に変換できる」という点です。

僕たちはこれらの仕組みの登場により、信用空間で得た信頼を貨幣空間でお金に変換することにそれほど抵抗を感じなくなってきました。

 

信用と貨幣の交換には抵抗がなくなってきた一方で、愛情と貨幣の交換にはまだまだ僕たちは抵抗があります。

これまでもAKB商法等のアイドル産業はそれを行ってきたわけですが、それはあくまでお客さん側が「愛情⇔貨幣」の交換をしてきました。

(先ほど『100日後に死ぬワニ』は「信用の皮を被った愛情」と述べ、ここでも「愛情⇔信用」の交換がなされていますが、やっぱりこれもお客さん側による交換で、先にあげたサービスのように、売り手の側による交換ではありません。)

 

この作品の作者と代理店は、この事を忘れて、馴染みのある「信用⇔貨幣」の交換のつもりで、全く慣れない(それどころかしばしば嫌がられる)「愛情⇔貨幣」の交換を、意図的では無いにせよやってしまった。

これが『100日後に死ぬワニ』に非難の声が上がる理由だと思うのです。

 

新たな可能性の芽を摘むということ

以上が僕の考える、『100日後に死ぬワニ』におけるモヤモヤの正体なのですが、じゃあ、発信者の側が「愛情⇔貨幣」の交換をするのに反対なのかと言われれば、僕自身決してそのようには思いません。

ただ、今回のコンテンツに関してはそれをやるのが早すぎたと思っています。

その場の空白を抑えるために、これから果実をつける芽を摘み取って食べてしまえば、2度と果実が実らないように、早すぎるビジネスモデルの試験運用は、その市場の可能性そのものを摘み取ってしまう危険性をはらんでいます。

今回の場合でいえば、読者の一定数はこのコンテンツに対し「だまされた」という印象を持ってしまったと思います。

この「だまされた」という感情を抱いた読者たちは、今後似たようなコンテンツが出てきたとしても、もう同じような没入はできなくなるでしょう。

もちろん、今回の『100日後に死ぬワニ』に関しては、意図せず起こったことであると思います。

ただ、結果として素晴らしい仕掛けの1つがこれきりの物になってしまったよつな気がします。

僕はこの作品をただただコンテンツとして楽しみましたし、それで満足していますが、最後のマネタイズ手法に関しては勿体無いことをしたなという感想を持ちました。

と同時に、「愛情⇔貨幣⇔信用」の交換に関してはさまざまな知見を得られて非常に楽しかったです。

冒頭に触れたヒッチコック的な仕掛けも、それを広め手法も、そして何よりコンテンツそれ自体が面白かっただけに、このプチ炎上(してるのか?笑)が収まる時期が早くきて欲しいなと願っています。

 

アイキャッチはもちろん『100日後に死ぬワニ』

ここまで書いて、作品タイトルを『100日目に死ぬワニ』と間違えていることに気がついた...

 

 

言語化とギターとバイオリン

バイオリンは弦楽器だけどギターは弦楽器じゃない。

もちろん一般的な認識とズレていることを承知の上で、僕はこのように考えています。

僕は弦楽器の構造上の強みはAとA#の間、EとFみたいに、音と音の間の区切りがないことだと思っています。

例えば、バイオリンであれば音と音の間には連続性があるため、いわゆる微分音と呼ばれるような"音"も確かに「ある」ことになります。

一方で、フレットで区切られたギターの場合は、どれほど音と音の間の"音"を探ると言っても、フレットという物理的な装置で区切られた「文節」が存在しています。

その意味でギターの場合はどんなに頑張っても非連続の音にならざるを得ないと思うのです。

それをピックで弾けばなおのこと、非連続の楽器になります。

(弾き方まで持ち出してくると、むしろ弓で弾くバイオリンの方が特殊なのでは?という議論も持ち上がりそうですが、今回はあえて目を瞑っていただけると幸いです)

音と音の間の、平均律では「無い」とされている音の存在を意識できる。

僕はバイオリンの面白さはここにあるように思っています。

 

僕は何でもかんでも言語化したい理屈人間ではあるのですが、同時に頭の片隅、右の端っこの方では「言語化しない事の大切さ」みたいな事を考えています。

言語化するとは文節に区切ることだと思うのですが、その「文節に区切る」という行為によって失われる物が間違いなく存在し、それを無視するということに酷く違和感を抱くのです。

日本には「ナシラズ」や「ナナシノキ」のように、神聖なものや人の手に余るものにあえて「名無し」という名付けをすることがあります。

からくりサーカスの「ノーフェイス」、千と千尋の神隠しに出てくる「カオナシ」etc...

名付けないという「名付け」はアニメや漫画にも頻繁に登場します。

あらゆるシーンで言語化し他者と思考を共有する事は大切ですが、同時に言語化の際には「言語化することによって失われるもの」に思いを馳せるべきだと思うのです。

例えばある映画を見て強烈に感情を揺さぶられたとして、それを何とか人に伝えたいと思い、「憎しみと喜びが同時にこみ上げる凄い映画だった」みたいな言葉にすれば、確かに相手にある程度の印象は伝わるかもしれませんが、恐らく映画を見た時に受けた「強烈な印象」は、「憎しみ」と「喜び」の間にある、複雑な気持ちを必ず含んでおり、それは言語化した時点で絶対に伝わりません。

チープな言葉で言語化された深い感動は、むしろ言語化されたことにより、共感性が薄れてしまうと思うのです。

そういう時は「言葉にできない」と言うことがむしろ最も適切な言語化になる可能性もあります。

もちろん、言語化して共有できる部分でのみ共感するのが人のコミュニケーションだという意見もあるでしょうし、それは実際にその通りだと思います。

しかし、言葉に表して共有することにより失われる部分にこそ重きを置いている人にとっては、「ナシラズ」という名の言語化もあり得ると思うのです。

 

音と音の間の"音"を追究するバイオリン弾きに、「そんなことよりギター弾こうぜ」と迫るのナンセンスです。

微分音にこだわるバイオリン弾きにとっては「フレット」という存在そのものがノイズでしかないからです。

人とのコミュニケーションにおいては、とかく適切な言語化を求められがちです。

しかし言語化する以上、必ずその過程で失われる物があるのも事実です。

仮に自分が話す相手が、言語化し得ない部分で格闘する人であったなら、言語化しないまま共有する術を模索するのもいいんじゃないかと思います。

バイオリン弾きにギターを渡すのではなく、ギター弾きがバイオリンに触れてみる。

言語化の間で格闘する人」を知ろうとする際には、そんなコミュニケーションの選択肢を持つことが大事な気がします。

 

アイキャッチは音と音の間の"音"で格闘することが明確に伝わる葉加瀬太郎さんエトピリカ

 

 

往復書簡[11通目](2020.02.25)しもっちさん(@shimotch)へ

これまでのやりとりはこちらから読めます!

note.com

 

拝啓 しもっちさま

返信ありがとうございます。
いやはやっ、しもっちさんの〈傾聴〉の哲学(に付随する心地よい思考の言語化)、いつもながら脱帽です。

なので、〈聞いた量〉の値が大きければ大きいほど良いという単純な構造になりにくい。ある人は100聞いてほしいけど、別の人は40がちょうどよくてそれ以上はしつこい。満足するポイントは本当に人それぞれです。

「Barのマスター」という立ち居地だからこそのこの着眼点、目からウロコでした。
と、同時に、それぞれに適切な〈分量〉があるというお話は、なんだか焼酎へのこだわりにも通ずるところがあるような気がしてほっこりしました。


先の手紙で聞くことの公式についてお褒めの言葉をいただきましたが、僕にしてみればしもっちさんの「企画作り」のロジックの方が何倍も何倍も凄いものであるように思います。
特に企画作りの話の後半に出てきた、〈付け加えるなら、諸々の企画をなるべく実行しやすくするために①普段から面白がる人を周りに増やしたり、②お店を構えたりはしています。〉という部分は、これから企画を作ろうと思っている人や、いざ行動に起こしたのに上手くいかなかった人たちが、最も聞きたい部分なのではないかと思いました。
僕が昨年読んだ本の中でBest5に入るだろうと思う本の一冊に、アレックス・バナヤンの『The third door』があります。
僕がこの本をBest5に入れるほどためになったと思った最大のポイントは、偉人の伝記や成功者の自伝本にはほとんど書かれない、「行動以外の準備」の部分が書かれている点です。
チープな自己啓発などを読んでると、頻繁に「成功するための行動力の大切さ」は多く書かれますが、「『成功する確率を上げる』ための行動の仕方」はほとんど見かけません。
「行動が大事」という起業家の人も、多くは創業時には古巣の仕事を業務委託で受注していたり、古巣の縁で仕事をもらったりしています。
でも、ビジネス本の多くにはそういう部分は書かれない
でもでも、実際に起業しようとする若者が聞きたいのは、「創業時に20時間頑張った」とか「一日に200件電話した」みたいな武勇伝ではなくて、「根回し」や「準備」みたいな地味で格好悪い部分だと思うのです。(某N’s Picksの敬虔な読者の皆さんは本当に武勇伝を求めている気もしますが…)
しもっちさんの『企画論』には、こうしたバックグラウンドの重要性が書かれていた(どころかメインとさえみえる)ため、むちゃくちゃ興味深く読ませていただきました。
たぶん、今後人から企画の作り方を聞かれたら、どのアイデア本や記事よりも先に、しもっちさんの先の書簡を紹介すると思います(笑)


さて、剛速球をなんとか受け止めたあとのしびれた腕で、キレのあるボールを放れるかが不安ではあり(すぎ)ますが、僕なりのコンテンツ作り論についてまとめてみたいと思います。
僕が何かしらコンテンツや企画を作る場合は大きく、①自分の欲求を満たすコンテンツと②他者の欲求を満たすコンテンツに分けられます。
僕の中で両者は明確に異なるイメージです。
①の場合(作曲や手品のネタ作りなど)は、「ある技術でどのような世界が表現できるのか?」という視点でコンテンツを作ります。(僕はこれを『SF的創造』と呼んでいます)
例えばトランプの手品の場合で言えば、ティルトという真ん中に入れたように見せて実は2番目にカードを入れる技術と、ダブルリフトという2枚同時にカードをめくる技術を組み合わせたら、どのような現象が演出できるだろうといった具合です。
(因みに下のネタがそれによって作られるネタです)

www.youtube.com

 

次に②の他者の欲求を満たすコンテンツの方ですが、これは広報で学んだスキルを中心に、徹頭徹尾理詰めで「答えを出していく」イメージです。

www.youtube.com


たとえば、これは昔僕がお手伝いした知人のジャグリング大会のネタの動画なのですが、これを作ったときは、①これまでの優勝ネタのパターンを分類した上で、②それまでにやられていない演出を考えるということをしました。
具体的には、それまでのネタを見ると、Ⅰ道具を改造する、Ⅱ奇抜な技の組み合わせ、Ⅲキャラが立つ人がネタをするというパターンがほとんどでした。
そのため、この路線を除いた上で②に合致するものを作ろうと。
で、大会会場を聞くとライブBarであり、開催日時はちょうど鏡開きのあたり。
鏡開きと飲み物という要素の延長でディアボロと考えたとき、僕たちの頭には「みかん」という答えが出てきました(ちょうどみかんを半分に割ってつなげると、ディアボロのコマのように見える)
で、鏡餅の上のみかんを「開き」、ディアボロをその場で作り演技をし、最後は飲み物を振舞うというネタが完成しました(笑)
②のコンテンツを作る場合の僕の思考はこんな感じです(①を『SF的創造』と呼ぶのだとすれば、こちらは『詰め将棋的創造』とでも言いましょうか)

しもっちさんに問われて改めて自分のアイデアの出し方を言葉にしてみたのですが、なんだか手品の種明かし(それもひどくチープな)をしているようで気恥ずかしいですね(笑)
企画論・コンテンツ論は語り始めたらお互いにとまらない分野な気がしますので、また会ったときにお話したいです。

ところで、先日、猿基地さんにお邪魔したとき、大将の光城さんから、しもっちさんと僕の人生に影響を与えた本TOP5なんてお題はいかが?という素敵なお題をいただきました。
個人的にブックバーのマスターのお気に入り本には非常に興味があるので、ぜひぜひ人生に影響を与えた5冊を紹介していただけないでしょうか?
(もしくは、一冊ずつお互いにリレーするとかでも面白そうです)

P.S 花粉のおかげで生産性50%カット(※当社比)の今日この頃。

 

アイキャッチはもちろんサードドア。

サードドア: 精神的資産のふやし方

サードドア: 精神的資産のふやし方

 

 

 

他人にアドバイスしたい人たち~マウントおじさんと救世主コンプレックス~~

2018年度の京都大学で、こんな文章が出題されていました。

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Although admirable, there is a risk in helping others, which is related to the possibility that helping can actually be selfish. That risk lies in falling prey to what some call “the savior complex”. This is just what it sounds like ― an attitude or stance toward the world where you believe you are the expert who can suddenly appear to save others. It is an uneven approach to helping in which the helper believes he or she has all of the answers, knows just what to do, and that the person or group in need has been waiting for a savior to come along.

While this idea genuine problem, we should not let the real pitfalls of the savior complex extinguish one of the most humane instincts there is― the instinct to lend a hand. The trick is to help others without believing yourself to be, or acting like you are, their savior.

 (Wait, What? And Life's Other Essential Questions)

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本文の中では“the savior complex”と呼ばれるこのお話。

日本では「メサイアコンプレックス」あるいは「救世主コンプレックス」という名前であれば耳にしたことがある人もいるかもしれません。

(面倒なので、以後は「救世主コンプレックス」で統一したいと思います。)

救世主コンプレックスをざっくり説明すれば、自分の承認欲求のために誰かを助けたいというマインドになっている状態のこと。

「自分には能力があって、絶対的に正しいんだ。」

「自分は困っている彼らを助けてあげているんだ。」

こんな心理状態で(そもそもあなたの助けを求めているかもわからない)他者に対して「助けよう」という気になる状態を言います(たぶん…)

 

「やらない善よりやる偽善」なんて言葉が示すように、一見すると理由はどうであれ相手の役に立つのならいいじゃないかと思ってしまいがち。

もちろん、それが相手の役に立っているのなら、正直僕もその動機なんてどうでもいいと思う派です。

しかし、救世主コンプレックスの厄介なところは、当人は相手のことを「助けてあげて」いるつもりなのに、実際は相手にとってその行為が助けになっていないばかりか、抑圧になっている場合もあるというところ。

救世主コンプレックスの人たちの「私が助けてあげる」「あなたのためにやってあげる」という感情は、対象者から意図せざる反応が返ってきたとき、その相手に対して「助けてやっているのにこいつはなんでこんな態度なのか?」「こっちはあなたのために貴重な時間をつかってあげているのに」というような攻撃的な態度と表裏一体なのです。

 

「相手の役に立ちたい」という善意の皮に被っている救世主コンプレックスの人の「善意」は、ぱっと見では判断ができません。

そればかりか、自分はまったくそんなつもりではないのに、知らず知らずのうちに救世主コンプレックスになっている人もいる。

居酒屋のカウンターで年下に対してエラソーに説教かましている「マウントおじさん」なんて、その典型です(笑)

 

自己承認欲求に基づいた相手への「助け」は、対象者がよい方向に転換することではなく、「自分が良いと思う方向へ転換」することを無意識に求めます。

そして、自分の期待する方向に変わらないと、「あいつは俺がこれだけ目をかけてやったのに変わろうとしないダメなやつだ」という、攻撃対象に一変する。

結果として、「助けられた」対象者をより追い詰める結末になるわけです。

救世主コンプレックスの面倒臭さはここにあるように思います。

 

入試問題は大学からのメッセージだなんてことが言われますが、2018年の京都大学がこの文章を出題したというのは、大学からの大きなメッセージのひとつである気がします。

SNSを見ていると、学歴の折から未だに抜け出せないマウントおじさんが、救世主コンプレックスを抜け出せずに醜態を晒しています。

学歴、知識、教養、実力etc..がある人ほど、そういう人になる可能性がある。

京大のこの問題にはそういう属性を含んだ人間を諌める強烈なメッセージ性があるように思うのです。

 

アイキャッチは冒頭で紹介したこの本。

 

Wait, What?: And Life's Other Essential Questions (English Edition)

Wait, What?: And Life's Other Essential Questions (English Edition)

  • 作者:James E. Ryan
  • 出版社/メーカー: HarperOne
  • 発売日: 2017/04/04
  • メディア: Kindle