新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



物事の解像度と本物に触れるということ

僕たちは買い物に出かけると驚くくらいに安価に、様々なものを手に入れることができます。

またインターネットの普及で、あらゆる情報にアクセスできるようになりました。

例えばお寿司を食べたいと思えば一皿100円で食べることができますし、安くお酒を飲もうとすればそれこそ100円も出せば十分に酔っ払えるだけのお酒を手に入れることができます。

あるいは気になる音楽があればYouTubeで調べると大概は出てきますし、Google検索すればあらゆる名画にふれることができ、本の内容をパッと知りたければ調べれば大抵要約が出てきます。

今を生きる僕たちは、かなり安価に、そして容易に欲しいものにアクセスできるようになりました。

 

「解像度」という考え方

僕は基本的にテレビを見ないのですが、お正月に放送される「芸能人格付けチェック」だけは(実家に帰省いてテレビがあるということもあり)よく見ています。

昔はあの番組を見ていて、違いなんて分かるわけない、あんなのヤラセだ、GACKTは答えを教えてもらっている(笑)くらいに思って見ていました。

でも、最近は確かに違いは分かるだろうなという視点になっています。

 

こんな風に考え方が変わったのは、僕自身が日本酒にハマったのがきっかけでした。

何年もいろんな日本酒を飲み続けて、色々な知識を手に入れるにつれ、それぞれの酒蔵、銘柄による味の違いが、はっきり分かるようになったのです。

 

僕はこういう細かな差異に気づけるようになることを、「解像度が上がる」と表現しています。

日本酒という抽象度のレイヤーで見ていたものを酒蔵という抽象度のレイヤーで見るとかいうのが解像度が上がる典型です。

より解像度の高いカテゴリーで物事を捉えていることで、より細かな差異に気づけるようになります。

「芸能人格付けチェック」って次々と正解できる人は、その分野を捉える解像度が非常に高いからこそ、違いが分かるわけです。

 

解像度と情報量の関係

こうした高い解像度を手にしようとするときに不可欠なものが圧倒的な情報量です。

そもそも違いをわかろうとしたときに、違いが分かるだけの知識のストックが無ければいけません。

この「情報量」という観点で見たときに、本物に触れるということが非常に大事になってくるわけです。

昔、エヴァンゲリオン等のアニメの監督である庵野秀明さんと、角川ドワンゴ川上量生さんが、アニメにおける情報量というお話をしていました。

細かな内容は忘れてしまいましたが、おおよそは現実世界に100という情報があるとしたら、アニメはそこから60とから70という情報を抽出したものになるみたいなお話だったたら思います。

また、宮崎駿さんはインタビューで「僕の作品を見て森に行きたいっていう人がいたけど、実際の森は暑いし虫も多いし、必ずしもアニメに描いたような美しいものではないんですよ」ということを言っていました。

こうしたエピソードから、情報量という視点で見ると、必ずメディアを通した情報量<本物の情報量となることがわかります。

また、ミュージシャンや映画監督のインタビューでしばしば見かける締め切りと予算のお話もそう。

「限られたスケジュールと予算の中でよくここまでのものになった」みたいな評価を見ますが、これは裏を返せばスケジュールと予算の都合で妥協した部分があるということでもあります。

映画や音楽なら、それでも高い品質で保たれているでしょうが、そもそも薄利多売を目的にした商品であれば、その削られた品質の部分がどれほどかというのは想像に難くありません。

 

本物に触れて解像度を上げる

冒頭で、僕たちはあらゆるものに簡単にアクセスできるようになったと書きましたが、その便利さは少なからず(時に膨大に)本来そのもののもつ情報量を犠牲にして手に入るものだったりします。

100円寿司では職人の握ったシャリのホロホロと崩れる感じや、切りたてのネタの質感、計算され尽くした温度みたいなものは分かりませんし、スマホの画面でいくら名画を見たところで、実際の美術館で目にした時の迫力や油絵の質感、まして置かれている空間の湿度や匂いは伝わりません。

イヤホン越しの音楽では、全身で音の波長に共鳴するあのライブでの高揚感は味わえないでしょう。

僕たちはあらゆるものを手軽に楽しめるようになりましたし、確かにそれ自体は喜ばしいことなのですが、同時にそれは「本物」ではないということを意識して置かなければ、僕たちはどんどん解像度が低い方へと流れていってしまいます。

もちろん「それで何か問題でも?」と言われればそれまでなのですが、少なくとも僕は解像度の低い暮らしが幸せとは思えません。

また、競合との差別化という観点でも、今後解像度が低い人が増えるとしたら、解像度を高く保っているというだけで、結構な強みになる気がしています。

 

椎名林檎さんが、東京事変で「贅沢は味方」と歌っていますが、まさに廉価版ならなんでも容易に手に入る社会において贅沢は大きな武器になるように思います。

別に散財しろというわけではないですが、適切なものに適切な対価を支払い、本物の情報量に触れる。

これは特に僕たちくらいの若い世代にとって、10年スパンで見た時に大きな武器になるのではないかと思うのです。

 

アイキャッチは「歌論集」。俊頼髄脳と歌意考は今にも通ずるものがあってオススメです。

 

 

優雅をクリエイトする

最近いろいろな動画を物色している中で出会ったGACKTさんのYouTube

その中に登場した「優雅をクリエイトする」という言葉がとてもいいなあと思ったので紹介させて下さい。

https://youtu.be/oeJ_b0iG9lM

 

記録より思い出をつくる

GACKTさんは今、マレーシアのクアラルンプールに住んでいるらしいのですが、その移住の決め手が「優雅」を求めたからだったのだそう。

それまでは仕事に全力投球で、記録はたくさんあるけれど、思い出がまったくないことに気づき、思い出を作る生活をしたいと思うようになり、そしてそれが「優雅」という言葉につながったらしいです。

 

僕は基本的に仕事が大好きで、仕事>>>プライベートみたいな生活をしていたのですが、ちょうど去年くらいからプライベートをもっと楽しんだ方がいいんじゃないか、仕事以外の経験や思い出をもっと作ろうと考えるようになってもろもろの行動に移していたところだったので、GACKTさんのこの言葉は胸に刺さるものがありました。

 

再現性の高いゲームと再現性のないゲーム

「これからはやりたいことに全力投球して働き続けられないと生き残るのは難しい」みたいな言葉をしばしば耳にしますが、僕はむしろ逆の考え方をしています。

仕事に没頭するのは楽しいですし、結果がついてきてワクワクすることは間違いないのですが、それって「誰でもできる」ことだと思うのです。

「仕事で結果を出す」というゲームは、ルールも明確でプレイヤーも有象無象なため、かなりイージーなゲームです。

誰でも参入しやすいし、だからこそ今後プレイヤーが増えたら大変な分野だろうなと。

僕にとって「仕事」というフィールドはそんな印象の場所です。

 

仕事で価値を生み出すことが全ての価値観の人たちの村に身を置くなら別にいいのですが、僕にはそういう価値集団の牌自体が小さくなりつつあるような気がして、だからこそ、それ以外の価値観を備えた生き方が個人の幸福追求という意味でも、また戦略的にも正解なような気がしています。

それでかなり意識的に自分の生活の中に「仕事以外」を取り込むようにしました。

 

積極的にノイズを集める

具体的にルールとして定めたのは次の三点です。

コスパを考えない

②意味を求めない

③目的を作らない

僕たちはついつい、目標を設定したり、効率を考えたら、理屈で説明しようとしがちです。

ただ、これらを意識するとどうしても再現性の高いものになってしまう。

言い換えればつまらないものになってしまうように思うのです。

本当に強いのは周囲がその結論にたどり着けない(けれどいざ目にしたら楽しそう)物だなと思い、こんなルールをつけた生活を少しずつ取り入れるようになりました。

僕の家の中に作ったBARスペースも、畑を借りたのもこんな部分に根っこがあったりします。

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最近、どうせテレワークなら自宅にいる意味もなくない?と思い、仕事道具だけを持って一泊二日で沖縄へ行ってきたのですが、こちらも先にあげた①〜③を満たすからやったものだったりします。

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強い願望や目標を持って行うことはかっこいいけれど、分かりやすいしそれゆえ再現性が高いなあと。

それより考えが分からない無駄、ノイズのようなものの方が面白いし、そういうある種オーダーメイドのものの方がこれからの社会では価値になる気がするわけです。

そんな風に思うからちらほらプライベートで時間を作ってこんなことをしています。

 

「箱庭優雅」の作り方

冒頭に紹介したGACKTさんの言葉にもどりますが、実際にこういうことを意識するようになって「優雅をクリエイトする」っていうゲームの難しさを実感しています。

でも、それを考える過程がむちゃくちゃ楽しかったりします。

これは価値提供をどこまでも突き詰めたり、数字や結果を求めたりするビジネス的な考えの中では得られない高揚感だなと思うわけです。

もちろん僕のいう「優雅」なんてちっぽけなものですし、GACKTさんの規模とはかけ離れてはいますが、そんな箱庭程度の「優雅」でも、結構面白かったりします。

今はテクノロジー的にも、そして身近な環境を良く見てみたら、周囲からするととても魅力的な環境が転がっていて、案外色々なことができる環境だったりします。

ぜひみなさんも「優雅をクリエイトする」をやってみませんか?

 

アイキャッチは『GACKTの勝ち方』

GACKTの勝ち方

GACKTの勝ち方

  • 作者:GACKT
  • 発売日: 2019/09/06
  • メディア: Kindle
 

 

 

映画を見ない僕がとりあえず100作品みて気付いたこと

コロナの影響で4月6月と、仕事がバタバタしていました。

オンラインに切り替わったり休校になったり。

それで良くも悪くも時間が出来たので、せっかくなら普段しなかったことをしようと、5月頭からずっと映画をみていました。

 

少し前まで途上国に映画を届けるNPOに所属していたにも関わらず、僕が見た映画の数は、子供の頃から合わせても10作品あるかないか。

本当にその程度だったので、この機会に映画を学ぶ事にしたわけです。

 

§とりあえず100作品

 

音楽でも本でも、僕は何かを学ぶときには「とりあえず100理論」ということで、ひとまず100作品見るようにしています。

映画もそれに合わせて1日1作品、100日間かけてみてみました。

(因みに後半は塾の夏期講習に被って死ぬかと思いました)

この期間に見たのが以下の100作品。

 

アメリ」「キャプテンファンタスティック」「ウルフ・オブ・ザ・ウォールストリート」「イミテーションゲーム」「スラムドッグミリオネア」「ミスト」「LALALAND」「カメラを止めるな」「EXIT THROUGH THE GIFTSHOP」「スポットライト」「プライベートライアン」「ムーンライト」「ゴーストインザシェル」「フューリー」「インフェルノ」「シンゴジラ」「オートマタ」「ターミネーター ジェニシス」「禁じられた遊び」「犬夜叉」「キャビン」「LUCY」「ザ・インフェルノ」「グリーンインフェルノ」「帰ってきたヒトラー」「万引き家族」「告白」「10クローバーフィールドレーン」「冷たい熱帯魚」「パッセンジャーズ」「秒速5センチメートル」「ハミングバード」「SE7EN」「メン・イン・ブラック3」「ビリギャル」「ヘルタースケルター」「エリザベス 神なき遺伝子」「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」「進撃の巨人 END OF THE WORLD」「オーシャンズ11」「ジョン・ウィック」「ビューティフルマインド」「パシフィックリム」「グレートウォール」「もののけ姫」「アナベル 死霊館の人形」「シャーロックホームズ」「突入せよ!あさま山荘事件」「移動都市 モータルエンジン」「パプリカ」「銀河鉄道999」「借りぐらしのアリエッティ」「ターミナル」「星を追う子ども」「ルパン三世くたばれノストラダムス」「となりのトトロ」「LoveLetter」「マイ・インターン」「打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?」「はじまりのうた」「エヴァンゲリオン 新劇場版:序」「この世界の片隅に」「クロール 凶暴領域」「us」「賭ケグルイ」「舟を編む」「人魚の眠る家」「天空の城ラピュタ」「ONE PIECEスタンピード」「空の青さを知る人よ」「エクス・マキナ」「海街diary」「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」「名探偵コナン 純黒の悪夢」「ゲド戦記」「亜人」「劇場」「BLEACH」「マッドマックス怒りのデスロード」「耳をすませば」「ハッピー・デス・デイ」「ルパン三世 風魔一族の陰謀」「エヴァンゲリオン 新劇場版:破」「ジェーン・ドゥの解剖」「メメント」「寄生獣」 「レザーフェイス」「MAMA」 「ライト/オフ」 「残-住んではいけない部屋」 「きみに届け」 「うる星やつら2ビューティフルドリーマ一」 「最強のふたり」 「暗い水の底から」 「千と千尋の神隠し」 「鬼談百景」「カイジファイナルゲーム」 「きみに読む物語」 「銀河鉄道の夜

 

100作品全て感想は書き留めてあるのですが、それら全てを書いていては文字数がとんでもない事になってしまいますし、何より今回の趣旨とズレるので感想は無しにしたいと思います。

 

§§100作見る中で生まれたこと

 

それぞれの映画の感想や仕掛けについて語りたいことがあるのはもちろんですが、僕がそれ以上に書きたかったのは、100作品を見る道中で起きた繋がりのほう。

極度の怠け者なので、サボらないために「#ひきこもり映画館」というタグで見た映画とその感想をつぶやくことにしていました。

そうしたら、20作品を超えたあたりから、リアルの友人に会った時、あるいは合わなくてもラインで連絡が来て、作品をオススメしてくれるようになりました。

さらに仕事先の社長や先輩からもちょいちょい教えてもらう機会が増えていきました。

さらにさらに、40作品を超えたあたりでそれまで絡みのなかったフォロワーさんから作品を紹介してもらうようになり、60作品くらいになるときには、twitterの質問箱経由でオススメ映画の情報が届くようになりました。

 

結果オススメ映画が膨大に届き(因みに今も溜まっていて、少しずつ見ています)、僕は人のお気に入りを楽しむという大変贅沢な生活をし続けることになりました(笑)

 

§§§旗を立てると繋がりが生まれる

 

そんなわけで後半は様々な人から紹介して頂いた作品を見続けるという大変贅沢な趣味に変貌した僕の映画鑑賞(笑)

100作の映画を見て、僕が得られた1番の経験はこの「人との繋がり」でした。

多分これは映画に限らず何でもいいのだと思います。

HUNTER×HUNTERで主人公ゴンの父親が息子に向かって「やりたいことがあるなら道草を楽しめ ほしいものより大切なものがきっとそっちにころがっている」と語るシーンがあります。

僕が始めた映画観賞はまさにそんな感じ。

やる事を決めて続けているうちに思いもしなかった繋がりが生まれ、当然その繋がりで紹介して頂いた作品の多くが僕の興味の延長には無いものだったので、思わぬ出会いや視点が多く得られました。

ここが1番の収穫だなあと思うわけです。

 

今はいろいろ手を伸ばしすぎて映画観賞が出来ていないのですが、ぼちぼち再開

したいなあなんて思っています。

みなさんもよかったら、何でもいいので続けて発信して見るということをして見てください。

きっと思わぬ繋がりが生まれるはずです。

そして、もしよかったら僕にオススメの映画を教えてください(笑)

 

アイキャッチ鈴木敏夫さんの『ジブリの文学』

ジブリの文学

ジブリの文学

  • 作者:鈴木 敏夫
  • 発売日: 2017/03/29
  • メディア: 単行本
 

 

 

「人のとっておきを味わう」という贅沢

コロナ禍で仕事が飛んだらしたのをきっかけに、映画を見始めました。

途上国に映画を届けるNPOに所属していたにも関わらず、それまでほとんど映画を見たことがありませんでした(すみません...)

ありがたいことに長らく仕事を忙しくさせて頂いていて、2時間前後の尺を他の作業をすることもなく1つのコンテンツに奪われるのがどこか勿体無い気がしていたんです。

コロナで時間ができたのなら、そりゃ見ない理由はないだろうと。

そんな訳でGWくらいから映画を見始めました。

 

そんなわけで始めた映画鑑賞。

寝る前と朝の時間を利用して、基本的に毎日一本を見ています。

映画に関する知識が何もないので、とりあえず出てきた映画を片っ端かれみ始めて、今日で60日弱。

毎朝見た映画の感想をTwitterでつぶやいていたこともあり、どうやら少しずつ僕が「毎日映画を見ている人」というのが認知されてきたみたいです。

で、最近嬉しいことに、会った知人、あるいは匿名の質問箱などで、オススメの映画を紹介してもらえるようになってきました。

 

紹介してもらった映画はできるだけ早く見るようにしているのですが、これがむちゃくちゃよかったりしています。

色々な方が「オススメ」として紹介してくれているだけあって、どれも例外なく面白いんですよね。

 

で、最近人からのオススメを聞いて映画を見るというのを続けているうちに、ふと、僕はなんて贅沢なことをしているんだろうという気持ちになりました。

ある人がお気に入りに出会うまでを考えると、そこにはそれまで出会ってきた何十、何百というコンテンツが背後に存在しています。

人からオススメを教えて貰うというのは、そういう他の人の宝探しの経験全てをおすそ分けしてもらっているということなんですよね。

しかもそれをSNSで不特定に発信するのではなく僕に1:1で教えてくれるという。

有名な評論家のオススメも、人気映画のアンケートもネットで調べればでてきます。

でも、1人の普通の生活をする人間(時には顔すら知らないネット上での繋がりの人)が感動したというコンテンツを、「いいから見てみてよ」と紹介して貰うなんてことは殆ど無いわけです。

そんな風に考えたとき、人のお気に入りを紹介してもらって、それを楽しむっていうのはなんて贅沢なんだと思ったらしたわけです。

これは映画にとどまらず、本でも、お酒でも何でも同じ。

 

あんまり贅沢しないよね。

少し前に、知人からこんな風に言われたのですが、僕は確かにお金を出して手に入るものに関してあまり物欲がないかもしれません。

別にお金を出すだけでいいのであんまり興味がわかないのだと思います。

少なくとも、ブランド物のバッグや芸能人御用達の高級料理店みたいなのが「贅沢」だとはあんまり思えない。

むしろ僕にとっては、歳でお店をやめてしまったお蕎麦屋さんが一夜だけ復活してくれて作ったかけ蕎麦とか、外に出すつもりではなく身内で楽しむつもりで作った実験的なお酒とか、お金を出しても買えない物の方が贅沢に感じたりします。

オススメの映画を紹介してもらえるというのも、僕にとっては間違えなくその部類です。

どんどん色々な人の「お気に入り」に触れて、その人の感動体験を少しだけおすそ分けしてもらっていて、僕はいまかなり贅沢をさせてもらっています。

まさか「毎日一本映画を見る」ってことを始めてそんな繋がりができるとは思ってもみませんでした(笑)

みなさんもぜひ、オススメの映画があったら僕に紹介してください!

 

アイキャッチ鈴木敏夫さんのこの本。

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)

  • 作者:鈴木 敏夫
  • 発売日: 2016/06/16
  • メディア: 新書
 

 

 

恋人がいる時はモテるのに、別れると何故かモテなくなる「恋人チューニング問題」を考える

恋人がいる間はやたらと色々な人からデートのお誘いがあったり、あるいは告白されたりするのに、別れて新しい相手を探そうとすると、それまでのお誘いが気のせいだったかのように途絶えてしまうという経験をしたことがある人はいませんか?

先日知人から、ちょうど上記のような相談をされ、また自分自身も確かになあと思うことがあったので、今回はこの「恋人がいる時にはモテるのに、別れると何故かモテなくなる」という現象について考えていきたいと思います。

 

あなたの魅力を引き出す「恋人チューニング」

タイトルにもしましたが、僕はこの恋人がいる時には何故かやたらとモテる現象のことを、「恋人チューニング」と読んでいます。

「恋人チューニング」とは、付き合っている相手の嗜好や思考によって、自分の好みが影響を受けている状態のことです。

どんな人でも誰かと付き合って深い関係になれば、少なからずその人の趣味や考え方に興味を持ったり、逆に相手のことを考えて行動したりと、相手からの影響を受けます。

それによって自分の持っている好みや人との接し方は変わってくる。

この「変化」が周りにちょっといいじゃんと思われる要因を生み出すという現象が、恋人と別れるとモテなくなるという現象の正体だと思うのです。

つまり「恋人と別れた瞬間にモテなくなった」のではなく、「付き合っている時は恋人チューニングによって普段以上に異性(別に異性である必要はありませんが)にいいと思って貰える要素が引き出されている」というのが僕の仮説です。

 

素の自分らしさとチューニング後の自分らしさ

例えば、女性が恋愛対象の男性Aくんがいたとして、彼が素の状態で女性と接する時、70%の女性ウケであると想定します。

そんなA君に恋人ができて、10%でも彼女さんの影響を受ける。

彼女さんの趣向は概ね女性ウケが良いものであったとしましょう。

そうすると、自分の趣向や好み前回のA君は女性ウケ70%であったのに、10%の彼女さんの影響を受けることで女性ウケは80%になるわけです。

例えば、それまでは毎日お昼ご飯は時間の節約といって同じおにぎりで済ませていたのに、彼女さんが新作のスイーツやアイスを買う姿を見ていて、自分も知らぬうちに興味を持っていたとか、ゴリゴリのロックばかり聴いていたけど一緒に流れてきた流行りの歌を聞いていたためにその辺の歌の情報が自然と身についていたとか。

あるいは自分の趣味に関しても、彼女さんを誘ったときの反応などが無意識のうちに反映されていたり。

 

常に意識する存在があると、どうやったって無意識のうちに自分の好みやしぐさには影響が出てきます。

それがオタクの気心知れた仲間であればますますマニアックな方向に、それが血縁関係であればますます半径数メートルの話題が大事にされるみたいに。

これが恋人であれば恋人の好みや恋人との接し方に影響されるわけです。

そして、素の自分らしさだけの時よりも恋人の影響を受けている状態の方が周囲の異性にウケがよくなる。

これが恋人チューニングのカラクリです。

 

素の自分と編集された自分

恋人チューニングにかかっている状態は「編集された自分」ということができるでしょう。

あくまでベースにある「らしさ」はまぎれもなく自分のものなのですが、その出し方や加工の仕方というアウトプットの部分で恋人の影響を受けている。

このアウトプットの時点の影響は自分ではなかなか気づきませんが、案外大きかったりします。

だから、恋人がいたときには「なんかいいじゃん」という印象だった他者からの評価が、別れた途端に「なんか違うな」というものに変わってしまう。

恋人がいたときにはモテたのに、別れた途端にモテなくなったと感じる人がいるとしたら、この「恋人チューニング」の影響が大きかったということだと思うのです。

自分の良さを引き出してくれる恋人チューニング。

まだまだ仮説段階なので、もし共感してくれる人がいましたら、僕のところまで情報をお願いします(笑)

 

アイキャッチはモテを語らせたら右に出る人がいないマンガ家山田玲司先生のBバージン

 

 

数の暴力に思いをめぐらす

ニュートンほどの偉大な人間が、りんごを見て引力を発見したなんてことあるかい。ありゃジョークなんですよ。ニュートン先生だって初めは万有引力の法則について、毎回聞かれるたびに丁寧に説明してたけど、そのうちあんまりにも同じことを聞かれるもんだから面倒くさくなっちゃった。それで万有引力をどうやって見つけたんですか?なんて聞かれたら、「あぁ、ありゃリンゴが落ちた時に閃いた」とか言ったんですよ。

立川談志さんの十八番『源平盛衰記』の枕で、談志さんはこんなエピソードを盛り込んでいました(言い回しは違ったかもしれません)

この枕は、談志さんが『源平盛衰記』のコンセプトだと考える「真実なんて誰もわかりゃしない」というものを伝えるために張られた枕の伏線なのですが、このギャグそのものに、有名人になって困る「数の力」についての悩みが表出しています。

 

僕がふとこのエピソードを思い出したのは、次の2つの話題を目にしたから。

ひとつめは女子プロレスラーテラスハウスに出演していた木村花さんの誹謗中傷による自殺の話、そしてもう一つが都知事候補でもある堀江貴文さんの野菜食べるんですね発言に対するブチギレのお話です。

もちろん全然レイヤーの違う話ですし、そもそも「木村さんの話と堀江さんの共通項」なんて言うだけでけしからんという誹謗も呼び込みそうですが、このブログの読者の方はきちんと読んでくれるだろうと信じているので、誤解を恐れずに僕が感じた部分についてまとめていきたいと思います。

 

僕が上の2つの話題に対して感じたのは、①数の力の強さと②持たない者の鈍感さです。

木村花さんの自殺の原因に関して、誹謗中傷か批判かみたいな話がでていますが、そういう発信者の責任意識どうこう以前に、物量の持つ力を僕たちは見なければいけないんじゃないかなと僕は思っています。

例えば、誹謗中傷でも批判でもどちらでもいいですが、僕らはそんなものが1件や2件こようが、鬱陶しいなくらいにしか感じません(因みにそれが誹謗中傷か批判かとかは関係ない)。

そんなもの無視して終わりです。

でも、それが一日数千件に及び、勝つ何日も続いていたらどうでしょう?

なにをつぶやいてもいつコメントしても、常に何百何千というネガティブなコメントがつく。

(おまけにアラームやバッジでの通知機能があれば、24時間自分へのネガティブな言葉でスマホが鳴り止まないわけです)

そんなの、誰でもメンタルがやられてしまうでしょう。

 

ポイントとなるのは、「数による痛み」は、僕ら一般ピーポーには思いも及ばない世界だということです。

僕たちは資本家が何億というお金を動かす時に抱くプレッシャーや喜びなんて想像さえもつきません。

あるいは風俗で働かざるを得ない方の苦悩や生きがいとしてそれを仕事にしている人の矜持に思いをはせる事も難しいでしょう。

これと同じで、「何十万ものフォロワーがいる人」の置かれるSNS運用の大変さも、僕らには知る由がないわけです。

しかし、投資家や風俗に対してSNSは僕らも日常に使っています。

だから、ついつい僕たちせいぜい数千フォロワーの弱小SNSアカウントの世界を、誰のスマホ画面にも広がる世界だと思ってしまうわけです。

だから、「文句があれば議論すればいい」とか、「気にせずスルーすればいい」みたいな、フォロワーがせいぜい100人程度の人の論理を相手に要求したりします。

批判だろうが誹謗中傷だろうが、もっと言えばたとえフォローの言葉であったとしてもそこで揉め事が起こってしまえばそれ自体が、何十万とフォロワーを抱える人間にとっては相当のダメージだと思うのです。

 

誹謗中傷や批判に限らず、「ただ数が多い」というだけで、有名人にとっては不快な思いをさせるのに十分な理由になるでしょう。

アイドルの握手会なんてその好例で、そこに並ぶのは熱烈なファンでかけられる声は応援がほとんどでしょう。

それでも何万人からギュッと手を握られたら手はパンパンに腫れるでしょうし、好意からの質問もいい加減飽き飽きしたりもするはずです。

でも、僕らはそんなアイドルの気持ちは「分からない」わけです。

先日、ホリエモンが「野菜も食べるんですね」とライブ配信で言われただけでブチギレてカメラを叩いたという動画が話題になっていました。

確かに、ある視聴者から「野菜食べるんですね」なんて一言をもらっただけであれだけブチギレていると見えれば、(まして都知事候補でもあれば)短気だとか横柄だという印象になるでしょう。

しかし、堀江貴文さんもやっぱり、何百万というフォロワーを抱える超有名人です。

恐らく「野菜食べるんですね」という非常に「何気ない」質問はその日だけで何回もきているはず。

しかも、少なくとも僕の知る限り、何年か前からそういう質問をもらっていました。

おそらく堀江さんだって初めは「野菜を食べたい理由」を初めは懇切丁寧に答えているはずです。

しかしそれの回数が多くなればいい加減鬱陶しくなる。

その「何百回目」かの反応が先のブチギレ動画だったのではないかと思うのです。

(その上で、そうした反応を良いと捉えるか悪いと捉えるかは別です)

 

お金持ちは貧乏人の気持ちなんて分からないという言葉を耳にしますが、同様に僕たち貧乏人だってお金持ちの気持ちなんて分かりません。

同様に、僕らみたいな一般人には、超有名人のスマホに広がるSNSの世界を想像することなんてできないわけです。

そんな想像できない世界にいる人の起こした話題を、想像できる僕らの尺度で解釈しようとすれば、どうしてもズレた答えにならざるを得ません。

とはいえ僕たちは知らない世界を想像なんてできない。

だとしたら僕らは、相手の世界を想像できないという前提の上で、相手のフィールドで解釈する努力をしなければいけないわけです。

相手のフィールドに飛び込ませてもらう。

そんな、知らない世界に対する謙虚な姿勢がSNS時代には特に求められるように思います。

 

アイキャッチは有名人のあるある本。その名も『「有名人になる」ということ』です!

 

 

社会レベルの論理性と生命レベルの論理性

それがロジカルだろうが非ロジカルだろうが関係なしに、何かを考えるには「前提」が大切です。

どんなに論理的に主張を構築しようが、前提がぼやけたまま積み上げたのならやがてそれは瓦解してしまうわけです。

 

僕は物事を分析するときに、必ず2つの論理を大事にしています。

それがタイトルにもした①社会レベルの論理と②生命レベルの論理というものです。

これらは積み上げる思考は同じでも前提とする部分が違うため、しばしば全く異なる解が導かれる。

この差異をどう埋めるか?を考えると、様々な事象が抱える問題点がよりクリアになってくると思うのです。

 

社会レベルと生命レベルの論理の差異が生まれる例をひとつあげるなら、仕事選びがあります。

僕たちはしばしば、自分のやりたいこと、自分に合った仕事、給与の額、仕事の待遇などといった尺度から仕事を探します。

で、よく見かけるのは「金額よりやりがいだよ」とか、「やりたいことの前に福利厚生が大事だ」といった種の議論。

確かにそれらは大切で、論理的に主張を積み上げて考えていくことが大切だとは思うのですが、僕はそれらはいずれもそもそも「社会的レベル」の議論であり、その意味では同じ主張に見えてしまいます。

そもそも上であげた主張はすべて、「社会関係」を前提にしているという意味で同じだと思うのです。

 

前提を生命レベルにすると、話が少し変わってきます。

それはそもそも人は1日24時間、1週間でも168時間という時間に限られていて、仕事をする時間なんて基本的には40時間、働いてもせいぜい80時間くらいといった所でしょうか?

一応は一般的とされる残業しないサラリーマンをベースに考えたら、1週間における仕事が占める割合は23%、もっと大きな人生で考えれば、仮に22〜62歳まで働き(計算しやすいようにしました)、約85歳の平均寿命まで生きるとしたら、744300時間のうち、仕事をするのは76800時間で、割合にして僅か10.3%にすぎません。

働き盛りで、しかもそこそこ結果を出して社会を楽しんでいる人にとっては一見社会的な繋がりはとても大きな割合を占めるようにも思えるわけですが、客観的に数字で見たとき、それらは週ベースで23%、生涯ベースに至っては10.3%にすぎない部分なわけです。

それに対して食う寝る出すみたいな部分は、生きている限り嫌でも100%稼働する分野です。

だったら「その一部にすぎない」仕事に関しても、そちらをベースに考えた方がいいのでは?というのが生命レベルを前提にした論理の構築です。

 

別に社会的レベルで論理を組み立てようが生命レベルで論理を組み立てようが僕は構わないと思っています。

ただ、物理的にも精神的にも豊かになり、それ故に忙しくなった僕たちは、どこか生命レベルの前提をなおざりにしてきたような気がするのです。

で、そうして構築した社会的な前提の論理をみんなが信じているから、一見それが合理的なように見えるけれど、実は様々な部分に不具合が生じていて、結局は長期的に生命レベルを前提にした論理の方が効率的だったなんてことがちょくちょく起こっている。

例えばやりがいも待遇もいい東京の企業に就職してバリバリ頑張ったけど都会で上昇志向の張り詰めた生活は自分の身体に合っていなくてメンタル壊しちゃったみたいな人の場合、仕事のやりがいも待遇も80%くらいだけど通勤ラッシュも無く緩やかで地元の友人と繋がっていられる場所にいてずっと生活できる方が、合理性の観点からも結果としてプラスになったみたいなことはザラに起こります。

目先の結果を追い求めるには有効な社会レベルをベースにした論理的思考と、長期的な勝ち(価値)を得るための生命レベルをベースにした論理的思考。

今の社会を楽しみつつ、かつしたたかに生きるには、この両輪の論理性を身につけておくことが大事なんじゃないかと思ったりするわけです。

 

アイキャッチは僕のオススメの本『銃・病原菌・鉄』

生命レベルの論理を学ぶちょうどいい教材だと僕は思っています。