新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



社会レベルの論理性と生命レベルの論理性

それがロジカルだろうが非ロジカルだろうが関係なしに、何かを考えるには「前提」が大切です。

どんなに論理的に主張を構築しようが、前提がぼやけたまま積み上げたのならやがてそれは瓦解してしまうわけです。

 

僕は物事を分析するときに、必ず2つの論理を大事にしています。

それがタイトルにもした①社会レベルの論理と②生命レベルの論理というものです。

これらは積み上げる思考は同じでも前提とする部分が違うため、しばしば全く異なる解が導かれる。

この差異をどう埋めるか?を考えると、様々な事象が抱える問題点がよりクリアになってくると思うのです。

 

社会レベルと生命レベルの論理の差異が生まれる例をひとつあげるなら、仕事選びがあります。

僕たちはしばしば、自分のやりたいこと、自分に合った仕事、給与の額、仕事の待遇などといった尺度から仕事を探します。

で、よく見かけるのは「金額よりやりがいだよ」とか、「やりたいことの前に福利厚生が大事だ」といった種の議論。

確かにそれらは大切で、論理的に主張を積み上げて考えていくことが大切だとは思うのですが、僕はそれらはいずれもそもそも「社会的レベル」の議論であり、その意味では同じ主張に見えてしまいます。

そもそも上であげた主張はすべて、「社会関係」を前提にしているという意味で同じだと思うのです。

 

前提を生命レベルにすると、話が少し変わってきます。

それはそもそも人は1日24時間、1週間でも168時間という時間に限られていて、仕事をする時間なんて基本的には40時間、働いてもせいぜい80時間くらいといった所でしょうか?

一応は一般的とされる残業しないサラリーマンをベースに考えたら、1週間における仕事が占める割合は23%、もっと大きな人生で考えれば、仮に22〜62歳まで働き(計算しやすいようにしました)、約85歳の平均寿命まで生きるとしたら、744300時間のうち、仕事をするのは76800時間で、割合にして僅か10.3%にすぎません。

働き盛りで、しかもそこそこ結果を出して社会を楽しんでいる人にとっては一見社会的な繋がりはとても大きな割合を占めるようにも思えるわけですが、客観的に数字で見たとき、それらは週ベースで23%、生涯ベースに至っては10.3%にすぎない部分なわけです。

それに対して食う寝る出すみたいな部分は、生きている限り嫌でも100%稼働する分野です。

だったら「その一部にすぎない」仕事に関しても、そちらをベースに考えた方がいいのでは?というのが生命レベルを前提にした論理の構築です。

 

別に社会的レベルで論理を組み立てようが生命レベルで論理を組み立てようが僕は構わないと思っています。

ただ、物理的にも精神的にも豊かになり、それ故に忙しくなった僕たちは、どこか生命レベルの前提をなおざりにしてきたような気がするのです。

で、そうして構築した社会的な前提の論理をみんなが信じているから、一見それが合理的なように見えるけれど、実は様々な部分に不具合が生じていて、結局は長期的に生命レベルを前提にした論理の方が効率的だったなんてことがちょくちょく起こっている。

例えばやりがいも待遇もいい東京の企業に就職してバリバリ頑張ったけど都会で上昇志向の張り詰めた生活は自分の身体に合っていなくてメンタル壊しちゃったみたいな人の場合、仕事のやりがいも待遇も80%くらいだけど通勤ラッシュも無く緩やかで地元の友人と繋がっていられる場所にいてずっと生活できる方が、合理性の観点からも結果としてプラスになったみたいなことはザラに起こります。

目先の結果を追い求めるには有効な社会レベルをベースにした論理的思考と、長期的な勝ち(価値)を得るための生命レベルをベースにした論理的思考。

今の社会を楽しみつつ、かつしたたかに生きるには、この両輪の論理性を身につけておくことが大事なんじゃないかと思ったりするわけです。

 

アイキャッチは僕のオススメの本『銃・病原菌・鉄』

生命レベルの論理を学ぶちょうどいい教材だと僕は思っています。