新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



マーケティングの分析①〜西村博之のYouTube戦略〜

本業は塾講師なわけですが、学部生時代の専攻が経済学だったことや、これまでにも本業とは別の部分でちょこちょこ広報やマーケティングに関わらせていただいていることもあり、そういった分野にはそこそこ興味があり、気になったものはメモ書きなどをしています。

で、ただメモしておくだけではなく、自分の中で咀嚼して保存しておくことで、今後の自分の仕事の役に立つのでは無いかと思ったので、気になったマーケティングや広報の事例をまとめておくことにしました。

 

西村博之のコンテンツ

スレッドの投稿サイト2ちゃんねるの管理人からライブ動画配信サイトのniconico動画を経て、現在はフランス在住で動画配信を行っている西村博之さん。

現在2021年4月時点で77万人の登録者、6600万再生がされています。

彼の配信はいわゆるYouTuberといわれる人の配信するコンテンツとは以下の点で異なります。

〈普通のYouTuber〉

①短尺

②編集、テロップ有り

③編集動画中心

ひろゆきYouTube

①長尺

②(ほぼ)無編集

③生配信

上の登録者数と再生回数だけを見ると、一見大した数字では無いように感じられますが、注目すべき点は一本あたりの収益率と動画の作成コストにあります。

ひろゆきさんの動画は基本的に1時間以上、中には2〜3時間のものも少なくありません。

収益に関して言うと、一本あたり10分未満の動画をあげている多くのYouTuberさんとは収益額が違います。

仮に最後まで見られるとしたら、一般的な動画の10倍以上の尺のあるひろゆきさんの動画は単純計算で10倍の収入が見込める訳です。

逆に言えばひろゆきさんの動画の場合、収入で勝負するのであれば、短尺動画を上げるYouTuberの1/10の再生数でも構わないことになります。

その計算でいくと、ここ最近の配信は軒並み10万pv越え。

収益率という観点からかなり優秀なコンテンツということができるでしょう。

 

また、視聴者からの質問に答えるという生配信スタイルという部分は制作コストの観点からも極めて優秀と言えます。

おそらく、手の込んだ編集をするYouTuberであれば、企画、撮影、カット割、テロップ入れなどで、どうやっても一本あたり数時間はかかることでしょう。

しかしひろゆきさんはその辺りが全ていりません。

この点も大きなメリットであるように感じられます。

 

さらに、これは生配信の強みなのですが、ひろゆきさんの場合、配信するたびにスーパーチャットと呼ばれる投げ銭も入ってきます。

(別にどんな質問にも答えるようですが、視聴者は投げ銭をしてひろゆきさんに質問をするというような流れになっています)

そのため、ひろゆきさんの場合は「撮影」それ自体でも儲かることができる仕組みになっている訳です。

 

マーケティングとして優秀な「偽ひろゆき」というYouTube戦略

さて、以上まででコンテンツとしての面白さをまとめましたが、本当に面白いと思うのはマーケティング戦略の方だったりします。

上ではひろゆきさんの動画が長尺ノー編集であるという話をしましたが、僕たちがYouTubeを開いておすすめに出てくる動画は短く、しっかりまとまっているものであるという印象があるはずです。

実はあの種々の編集済み動画は他の人が勝手に元ネタを切り取って編集したもののようです。

本人が自分の動画の無許可利用を公認しています。

その代わり、そこで得た収入の一定数は自分の所に収まるようにという仕組みを作っている訳です。

僕はこのやり方が非常に優秀だなと。

こうすることにより、①ひろゆきさんのライブ配信を切り抜いてまとめることで収入を得ることができる人がでてきます。また②ひろゆきさん自身にも再生数に応じて収益が入り、その上③「ひろゆき」の名を冠した動画が氾濫することで、元の動画のアーカイブへの集客にも繋がります。

このモデルを考えて実行したのが本当に凄いなと。

 

岡田斗司夫的手法とホリエモン的手法をうまく取り入れたひろゆきさんの戦略

自分の動画をコンテンツとして無料で出してしまうというのはずっと前から岡田斗司夫さん(あと内田樹さんあたり)が言ってきたことです。

「自分をフリー」にすることで認知度を上げて、結果的には市場で優位になるという思想はまさにこの戦略に近いものでしょう。

(最近では岡田斗司夫さんが自分のコンテンツの再利用という話をしていましたが、その辺にも通ずるものがあります)

また、数年前から堀江貴文さんや茂木健一郎さん、立花孝さんあたりが、撮って出しのノー編集動画というものを行ない、ある程度のアクセス数を稼いでいました。

ひろゆきさんのYouTube戦略はこの両者をうまく複合させたものだなあと思うのです。

 

この二つをうまく合わせることができたのは、2ちゃんねる時代に培った一般人巻き込み型のマネジメント手法と、ニコ動時代からのニコ生主(ニコニコ動画の中でライブ配信をする人の愛称)としてのスキルにあるように思います。

自分のコンテンツをフリーにすることで一般の人に編集パートを分離する。

さらに、生主として配信していたからこそ一般の方からリアルタイムで質問を吸い上げるという「無限にネタに尽きないシステム」を構築する。

この辺のシステム構築力はさまざまなものに応用できるように思うのです。

 

今の動画配信のシステム構築とベーシックインカムの繋がり

ここからは僕の勝手な想像です。

ひろゆきさんは数年前までしきりに「ベーシックインカムを実現しよう」というお話をしていました。

そのための主張も、予算制約的には物理的に可能であるから政治家に働きかけるという真正面からの主張から生活保護を国民がどんどん取り続けて実質的にベーシックインカムにしてしまうというシステムハック的なものまでさまざま。

僕は別にこの手法の妥当性や善悪の判断には興味がありません。

僕が注目したいのは、このひろゆきさんの動画モデルが、彼なりのベーシックインカムなのではないか?という部分です。

ひろゆきさんがコンテンツとして広まれば、そのコンテンツの収益化率は上がります。

素材としてのひろゆきさんはフリーなので、自由に使うことができる。

そうすると、お金に困った人はとりあえずひろゆきさんの動画をキチンと編集してアップロードすることで、少量かもしれませんが収益を得ることができる可能性が出てきます(もちろんそんなに簡単では無いことは百も承知です)

ある意味では初期投資ゼロ円で商品だけは既に与えられた起業ができる状態です。

これは極めて変則的ですが、ある種のセーフティネットの働きにもなるように思うのです(少なくとも僕にはそう見える)

 

人を救おうということより、社会実験としての色合いが強そうですが、もしかしたらそういう側面もあるのかなと思ったり。

そんなわけで色々な観点から面白い戦略だと思います。

 

アイキャッチはビジネス書として結構な売り上げになっているらしいこの本。

1%の努力

1%の努力

 

 

 

ひとりで回る仕組みづくり

最近はめっきり更新頻度が減ってしまったこのブログ。

かれこれ7年近く(昔のブログから数えれば10年近く)ブログを書き続けています。

もちろん趣味という側面でやっていたというのが動機の大部分ではありますが、それ以外にも、始めた当初はさまざまな理由がありました。

その中のひとつの実験に、サービスの自動化というものがあります。

僕のこのブログは、現在有料サービスを利用しているわけですが、その費用はこのブログの広告収入で賄っています。

今は月に数本アップすればいい方という、この非常にやる気のないブログですが、それでも最低限、年の有料サービス代は売り上げが立つ程度のアクセス数が見込める仕組みづくりにしてあります。

 

更新しなくてもアクセスが見込める仕組みづくり

SNSの時代になって、アクセスの集客方法はSNSで拡散→サイトへ集客というのが主流になりました。

もちろん多くのコンテンツにとって、この流れが王道ではあると思うのですが、半面、未だに必要な情報に関しては検索→アクセスという方法は根強く残っています。

僕の肌感ですが、娯楽情報や流行ネタなどはSNSで、自分にとって必要な情報はGoogle検索でという棲み分けは未だにあるように思うのです。

 

少し話がとびますが、みなさんはバレンタインデーのBGMと聴くと、どんな曲を思い浮かべますか?

おそらく国生さゆりさんの『バレンタインデーキッス』を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

クリスマスや卒業シーズンというとさまざまな競合があるのに対し、バレンタインデーとなるとライバルが一気に少なくなる。

その上バレンタインデーは毎年必ず来るため、『バレンタインデーキッス』は毎年必ず曲が使われ続けます。

僕はこれを、マーケティングとしてかなり優秀だと思っています。

 

23歳くらいのころ、僕はブログを運営する戦略として、①毎年決まった時期に②需要が生まれ、かつ③その需要が生まれ続けるコンテンツを作れば延々とアクセスが増え続けるのではなきかという仮説を立てました。

そしてそのコンテンツの総和が生み出すアクセス数からくる広告収入額が、有料会員費よりも多ければ、何もしなくともブログが回り続ける。

そんな仮説に基づいて、上の条件に合致するコンテンツを所々に混ぜていきました。

大体それが全体の3%くらいのコンテンツ。

これがあるため、僕のブログは基本的に広告収入だけで賄えているため、更新しなくても、無理にアクセスを意識せずに好きなことを書いてもうまく回るようになっています。

ちなみにこの広告収入で得た収益の余り(ほぼ無いけど!)は、銀行に貯め続けてあり、ブログ文化が完全に消えるまでにいくら貯められるかの実験中(笑)

 

そんなわけで、僕は純粋に記事を書く以外にも、いろいろな楽しみ方をしています。

この前久しぶりにブログを書いている理由を聞かれたので、少し真面目に理由の一つをまとめてみました。

アイキャッチは僕がマーケティングにハマるきっかけになったバレンタインデーキッス

 

ベスト・コレクション

ベスト・コレクション

 

 

 

ワンピース1008話以降考察〜おでんの正体とヤマトの今後+α〜

ワンピースのワノ国編が盛り上がってきました。

今週の週刊少年ジャンプに掲載された1007話では敵方のウィルスに見事チョッパーが打ち勝つ場面、モモの助が食べたであろう悪魔の実の招待、そして突然出て来た今回のお話の中心的存在と言っても過言ではない光月おでんのシルエット。

さまざまな話題が散りばめられた1話でした。

もちろん作品なんて、掲載された日に楽しむもので、素人の予想なんて野暮なものです。

そのことは分かっていても、ついつい気になるのがファンの気持ち。

しかも尾田先生は設定をかなり細かく、論理的に積み上げる人です。

そんな観点から、いくつか僕がこうなるんじゃないかと予想したことがあるので、今回はその予想をいくつかまとめていきたいと思います。

 

予想1 麦わらの一味に入るのはヤマトである理由!?

 

まずは予想の1ということでヤマトにふれたいと思います。

ワンピースを読んでいる人ならば説明は不要かと思いますが、このヤマトとは現在戦っている敵カイドウの実の子ども。

本来なら敵方のはずが、おでんの死際に感動して、今は味方になっています。

巷ではこのヤマトが最終的にワノ国編の終盤で麦わらの一味に加入するのではないかと言われています。

僕もこの説に大賛成です。

ただし理由は単純にルフィとの関係性だけではありません。

 

僕がヤマトを麦わらの頭のメンバーになるだろうと思った一番の理由は今週号でモモの助が食べた悪魔の実がモモの助に食べられたという描写です。

今回の話から、パンクハザードにあってモモの助が食べた悪魔の実はカイドウの遺伝子を研究して作られたものであるようです。

とすると、モモの助とヤマトには、それぞれ、「父おでんの血とカイドウの能力を継いだ子」と「父カイドウ血とおでんの思想を継いだ子」という対照的な関係性が成り立ちます。

そしてそんな対照的な2人が、手を取り合って現状に立ち向かっている。

僕にはこれがとても興味深いのです。

 

これまでのシチュエーション的にモモがワノ国を離れることはありません。

とすれば、モモの助、そしてその家臣である赤鞘九人男がルフィの船に乗ることはないでしょう。

そこで候補として出てくるのがヤマトです。

ヤマトはモモの助を救い、かつおでんの旅の記録を読んで感銘を受けています。

そしておでんは世界を知るために海へ出た。

現在の関係性からも、モモの助とヤマトは意気投合するように思います。

話が完結する時には、2人は手を取り合うみたいな状況になるのではないでしょうか?(そうすれば間接的に百獣海賊団を止めるであろうプレジャーズやウェイターズたちがワノ国にいられる理由にもなる)

そのとき、ワノ国から外に出るのは、おでんの思想を継いだヤマトだと思うのです。

モモの助はワノ国をまとめ上げ、ヤマトは世界を旅した知見を持ち帰りワノ国の発展に貢献するというような形。

これが、最もスムーズな展開であるように思います。

 

予想2 チョッパーがスマイルの副作用を治す

パンクハザード、ゾウと、「治療」という側面からの活躍が増えてきたチョッパー。

今回もウィルスを打ち消すという意味で大きな活躍を見せました。

僕はこの活躍に加えて、ワノ国ではもう一つスマイルの副作用に苦しむ村人と百獣海賊団のメンバー、そしてキラーを救うという描写が出てくるのではないかと思っています。

 

そもそもチョッパー自身が、悪魔の実の能力に作用して本来3段変形しかしないはずのゾオン系の能力を7段変形できるようにする、ランブルボールを開発していました。

さらにこれは推測の域ですが、チョッパーの出身国ドラム王国は黒ひげの襲来により一度滅ぼされています。

そもそも黒ひげがドラム王国を襲った理由は何なのでしょう?

ドラム王国が医療大国という設定です。

そして、黒ひげは正体不明ですが「2つの悪魔の実を食べる能力」と「能力者から悪魔の実の能力を奪う」能力を持っています。

さらに今までの描写的に無駄なことを行わないのが黒ひげの性格。

これらの要素から、僕は黒ひげが悪魔の実に関してなんらかの知識を得るためにドラム王国を滅ぼしたのではないかと思っています。

だからこそ悪魔の実に関する知識をチョッパーは作り得た。

 

まあこの予想が正解かどうかは別として、そんか悪魔の実に関する知識を持つチョッパーですから、スマイルの副作用の除去ということをできる可能性が十分にあると思うのです。

そして、ゾロのエビス町の人々を見た時の怒りや、キッドがキラーを見たときの怒り、そしてチョッパーを守ってくれたプレジャーズの言葉をみれば、こうした状況を治さずに次の街へ行くとはちょっと考えられません。

そこで治すとしたらチョッパーになるのかなと思うわけです。

 

予想3 1007話で出てきたおでんの正体と赤鞘を助けた人物

1007話の最後のページでおでんが登場したのには本当に驚きました。

おそらく同じ感覚になった人は多いのではないでしょうか。

あの最終ページに関してネット上では「おでんが生きてた説」や「偽物説」など、様々な憶測が飛び交っています。

そのどれもが一理あるなとは思うのですが、僕個人の予想としてはそのどちらでもないと思っています。

ここでおでんが復活するにしろ、偽物であったにしろ、ストーリー展開上盛り上がりが台無しになってしまうと思うからです。

 

では、あのおでんの正体は誰なのか?

結論から言えば、あれはトキの能力で遺言を受け取ったおでんの思念のようなものではないか?というのが僕の予想です。

トキは未来に自分や人を飛ばすことのできるトキトキの能力を有していました。

その能力には、人は意外にも思いのような物を未来に送る能力があったのではないかと思うのです。

おでんはカイドウに挑む前、全てを察知していてトキに最期の言葉を託していた。

そして、トキはそれを赤鞘の数人とモモの助を20年後に飛ばしたあとにそこに残った日和に託したみたいな展開になるのではないかと思うのです。

ワノ国編の冒頭から、トキの残した言葉として次のセリフが繰り返し登場しています。

 

============

月は夜明けを知らぬ君

叶わばその一念は

二十年(はたとせ)を編む月夜に九つの影を落とし

まばゆき夜明けを知る君と成る

============

 

この月というのは光月おでんのこと。

そして9つの影というのは赤鞘のことだと思います。

まばゆき夜明けはワノ国が救われることと考えていいでしょう。

このように見ていくと、一つ一つが理解できるのですが、どうしても2行目の「叶わばその一念は」という部分が理解できなくなってしまいます。

「一念は」という部分の文構造を追ってみると、「影を落とす」にかかってきます。

影ができるのは月の光があるから。

もちろんここを20年後に現れる英雄の存在と捉え、ルフィたちの登場を示唆した物であると見ることもできるでしょう(というかそういう意味もあるのかもしれません)。

しかし、あくまで文言に忠実になるなら、それだと「夜明けを知らぬ君」の意味が成立しません。

とするのなら、ここでの月は光月おでんのことだと考えることもできると思うのです。

 

仮にこの仮説が正しいとすると、20年後におでんの遺言をトキが送り、その言葉を聞くことで赤鞘の「9人」が再び立ち上がり、それによりワノ国を救う&開国に導くと考えることができます。

だんだんカイドウとも戦えるようになりつつあるルフィたちですが、完全な攻略法といったものはまだ見えそうにありません。

そこにきて、おでんの遺言を聞いた赤鞘たちが、カイドウの倒し方を聞いて再び立ち上がり、ルフィたちの元に駆けつけいっしょに倒す。

そのような展開になるのではないかと思うのです。

 

僕がおでんの思念説を推すのにはもう一つ理由があります。

それは、おでんが世界を回って得た知見がまだどこにも語られていないという部分です。

旅の記録を回想するシーンがあったり、ヤマトが持つおでんの手記なども出てきましたが、肝心の開国したい理由や、旅を通して得たコアな情報といったものは出てきません。

国のためにそれらを得たおでんの情報が、何もフィードバックされないというのはちょっと考えられないと思うのです。

こうした部分を伝えるためにも、おでんの遺言として登場するのではないかなと思ったりしています。

 

さて、色々と推論を並べましたが、僕がおでん=思念説を推す最大の理由は、1007話の最後のおでんの「会いたかったぞお前ら!ずいぶん歳を取ったな」という一言があったからです。

この「ずいぶん歳を取ったな」というひとことは、最期の釜茹での刑以前に未来へ飛んでいないと成り立たないと思うのです。

仮に、一連の事件のあと、(未来に飛んだのか今までかくれていたのかは別として)実はおでんが生きていたとして、それであるならば全員に向かって「ずいぶん歳を取った」という言い方は馴染みません。

錦えもん、雷ゾウ、お菊は明らかに変わっていないからです。

トキの能力を知っているおでんのことを考えたら、彼らに対する声かけとして「ずいぶん歳を取った」は矛盾する。

これが全員にかけたことばであるとしたら、過去のおでんからの声かけくらいしか可能性がないように思うのです。

 

また、トキは死際に「旅の終着点に着いた」と言っています。

その人間が前言撤回して、20年後に飛んでいましたという事も無いような気がします。

だとしたら、死際に抱きかかえていた日和に何らかのおでんの遺言が再生される物を託したという可能性が考えられるのではないかと思うのです。

そして、日和が赤鞘を治療するために鬼ヶ島へ来ていた(河松の治療された影を見た後の「いや、まさか」という微妙な驚きの度合い的にも、日和あたりがちょうど合致する驚き方です)

 

というわけで僕の仮説は、瀕死の状態を手当てしたのは日和で、彼女がトキから託された何らかを持ってきたためにおでんの思念のようなものが再生されたというのが僕の仮説。

 

 

色々推測を書いてきましたが、このように今後の展開を予想しながら楽しめるのも、長寿マンガの魅力の一つだと思います。

おそらくここに書いた内容のほとんどは当たらないでしょう。

あくまで今後の展開予想のひとつとして楽しんでいただけたらと思います。

みなさんは今後の展開をどのように予想しますか?

 

アイキャッチはワンピース

 

第964話 白ひげの弟! おでんの大冒険!

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「速い世界」の処世術

まだまだ高校入試、大学入試が残ってわれるのですが、一旦仕事のピークを通り過ぎ2月の1周目はゆっくりと過ごしています。

久しぶりに時間に追われることもないため、ゆっくりとご飯を食べに行く毎日を過ごしています。

この1週間は仕事関連の連絡も届かないようにしているのですが、そうしてみて改めて感じたのは、日頃どれくらい僕がバタバタと時間に追われているかと言うことでした。

昨日僕がご飯を食べに行った時、あえてすまほでお店を検索せずに行きました。

自分の足で歩いてこの店はいいなと思ったところに入ろうと思っていたのですが、そうやってやってみたときにどの店にも目移りがして、なかなかお店が決められませんでした。

おいしそうなお店はあるけれどせっかくならもうちょっといいものがあるんじゃないか、この店ずっと気になっていたけど今日はそんな気分じゃない、、、

そんな風なことを思いながらお店を探しているうちに1時間がすぐに経過していました。

さて、この経験を優柔不断と取る人もいるでしょうし、時間の無駄と取る人もいると思います。

実際僕自身もそのように元は考えていました。

しかしふと思った時に、実はそれは時間を無駄にしているのではなく、「本来の自分の選択、もっと言えば人の選択にはそのくらいの時間が必要なのではないか?」という可能性に考えが至りました。

つまり、時間があるからダラダラ決められないのではなく、本来僕たちは満足に物事を選択しようと思ったときそのくらいの時間が必要なのではないかと言うわけです。

 

僕たちが普段仕事に追われていて即断即決が最も大切だと思いがちです。

実際に仕事の場でもよく現場の情報から即断する力、あるいは決断力なるものが大切だと言うことが言われがちです。

実際に仕事の場ではそうでしょう。

短期間に結果を出し企業のために価値を創出しなければならない。

そのように考えたときに、現場手に入り生材料から最適解を求めると言う判断は必須です。

しかし、これらをよく考えてみると、得られている情報の中から最適解を求めているのであって、現場の中の最適解を追求しているわけでは無いのです。

そこに予算なり時間なり情報なりの制約がついている以上その状況下で下された判断は常に最適解からの妥協であり続けざるを得ないわけです。

僕たちはその妥協に妥協を重ねた選択肢のことを「最適解」だと信じ込んでいます。

 

さて、短期スパンの結果を求めなければならない仕事に関してはそれで良いでしょう。

なぜならば決められた期限内に予算や目的を達成することが至上命題だからです。

しかしプライベートになったら必ずしもそれが正しいとは言えません。

プライベートは決められた期限を達成しなければならない目標も存在するわけでは無いからです。

もちろん具体的な目標を定めることで生活が充実する人もいるでしょう。

しかし必ずしも全員がそのようなビジネスの手法によってプライベートも充実できるとは限らないと思うのです。

むしろビジネスではそういった戦いを全力でやっているからこそ、プライベートではそこから離れた充実を目指したい。

そのように思っている人は少なくないのではないでしょうか?

 

僕は普段、自分自身がかなりのスマホジャンキーと言うこともあり常に画面を見ているからできることではあるのですが、仕事の連絡等にはかなり早く返信をしています。

しかしこの1週間は、あえて仕事関連の連絡が目に入らないような仕組みを作ってゆっくりと過ごしていました。

そうしてみると速い思考とは全然違う世界が開けてきたのです。

時刻表を気にせず電車に乗り、次と予定を気にせずゆっくりとカフェで過ごす、帰り道にはゆっくりと散歩をして気になったところに立ち止まり、ぼーっと風景を見て過ごす。

そしてご飯のお店はアプリで出てきたオススメのお店や、ふと目にとまったファーストフード店ではない、ゆっくりと歩いてみてそのお店が出しているデザインとでも言っていい看板おすすめメニュー、そしてそこに書かれている店主の言葉も参考にお店を選ぶ。

このように時間を過ごしていることで、改めて普段自分が切り捨てていた部分と言うものに向き合うことができました。

 

もちろんそういった忙しい生活が僕は嫌いではありません。

むしろ根っからのせっかち症なのでそういった生活の方が好きだったりします。

しかしそういった戦い方ばかりしていると、思考が単調になり、出てくるアイディアは凡庸なものになってしまうなと言うことを改めて感じました。

速い思考や各種制限彼の判断は、鍛えさえすれば誰でもできるものなわけです。

しかも今の時代であればそういった能力を鍛えたり補完したりするツールは無限に存在する。

だからこそ現在の環境で結果を出せる(そういう言い方も好きではありませんが)思考法と言うのは、速さや合理性そういったものから対極にあるものであるようです。

現代であれば、頭の回転を速くするだとか合理的な決定をするというのは本を読むだけで誰でも身に付きます。

しかし反対に、ゆっくりと長く深く思考する、あるいは現場の情報だけでは判断しない、あえて保留して変化を待つ…このような思考や姿勢はどうでしょうか?

前者が非常にやりやすくなった反面こういった姿勢はかなり意識をしなければできなくなってしまったように思うのです。

で、あるならば、僕たちはあえてそういった行動原理を生活に取り入れ、速さや合理性とは別の軸で物事を判断するスキルを身に付けておくことが長期的な武器になるのではないかと思うのです。

 

僕がここ最近畑を始めたのも同じ理由です。

頭の回転の速さで合理的な思考は誰でも身に付けることができる。

一方で思考の深さや受け止める力、あるいは決断しない力こういったものはどんどん身に付けづらい時代になってきていると思います。

だからこそそれを持っているだけで将来どこかのタイミングで大きな力になる。

すべてが需要と供給のバランスで成り立っているとしたらきっとそういう風になると思う

のです。

そもそも僕は何かに役に立つからといって技術やスキルを身に付けているわけでは無いのですが、言語化する過程でそういった効果があるのかなぁと思ったってこんな風な書き方をしていました。

忙しい人ほど、一旦そういった余裕を持つことができる。

そういった人ほどここからは鉤括弧うきではない意味での豊かさを目指せるのではないかなと思うのです。

 

アイキャッチは最近僕がハマっている本の一冊

 

 

 

学生時代の答え合わせ

あけましておめでとうございます。

晦日にまたひとつ歳を重ねて、ひとつ人生の節目を迎えました。

短期ビジョンをもって、具体的な数値を掲げてそれに向かって頑張るみたいなことは僕の主義に反しますのでしませんが、今後ともよろしくお願いします。

 

さて、ひとつの節目を迎えたということで、今回はざっと学生時代に決めた自分の選択と未来予想の「答え合わせ」をしてみたいと思います。

記者になりたくて就活に挑み、うまくいかなかったために当時持っていた内定を蹴って就活浪人を選んだのが22歳の時。

結局翌年も希望の仕事に就けず、当時の縁で塾業界に入るわけですが、結局はその選択が自分にとって最良のものになった気がしています。

 

初めは2教室を掛け持ちしつつも、当然任せていただけるコマ数など微々たるもので、本当にギリギリ他のバイト無しで生活できる程度でした。

(3lくらいの安い焼酎を買ってきて、細かくグラム測ってちびちび飲むのがやっとくらい 笑)

そんな生活ということもあり時間だけは有り余っていたために、ブログを書き続けいた23,24歳。

幸い国語のネタが受け入れられたようで、ブログのPVが5万/月くらいになるようになります。

因みに時間が有り余っているという理由から、先輩に誘われたマルチ商法の団体に入れられ、1年くらいそこでフィールドワークをしていました(一年でポン酢1本しか買わなくて追い出された)

 

ちょうどその頃、知人が事務局長を務めるNPOの関西支部を立ち上げるというお話が出てきて、僕はその立ち上げに関わることになりました。

結果的に力及ばず数年でそこを去ることには鳴ったのですが、そこで担当させてもらった人事と広報のスキルは今でも役に立っています。

また、このタイミングくらいで、上とは別のNPOの知人から中学校の講習のお手伝いや夏休みの親子クッキング等のイベントのお手伝いのお話を頂き、よくわからない形で「公」の教育にも触れるようになりました。

 

社会に出て3年目くらいからは、ありがたいことに塾の仕事がたくさん入るようになって、それだけでまあ生活できるようになります。

積極的に飲みに出かけ始めたのはこのくらいの時期から。

行きつけになったお店で同業の友人と出会い、以上に息があったのがきっかけで、そこからたまに広報や教材開発でお手伝いさせてもらうような仲になりました。

ちょうどそのくらいのタイミングで、ずっと書き続けていたブログが某編集者の目にとまり、ウェブメディアからの記事の執筆依頼をいただきます。

結局1年間の契約で終えてしまったのですが、図らずも社会に出て3年目くらいのタイミングで、「ライターになりたい」という自分の夢は成就しました。

 

そこから2年ほど、ある程度実績や経験を積んだタイミングで、僕が今務める2件目の教室から仕事の話を頂きました。

これは親子クッキングのお手伝いをしたNPOさんからのご縁。

そんなわけで国語科主任というお仕事を引き受けました。

そこからは個人事業主に切り替え、税金などの勉強を。

知人の教室の研修やちょっとした縁でイベントの司会などをするようになったのもこの辺から。

この辺から初めて社会人が楽しいと思えるようになってきました。

 

ここから数年はこれまでにできた縁から記事の執筆や広報や授業のお話を頂きつつ、仕事に打ち込む数年。

そしてこの1,2年ではプログラミングの教材開発や全国向けの入試教材の開発、オンライン授業に、クラウドファンディングの広報戦略作り、書籍の出版に関わったり、ウェブマガジンの連載の話を頂いたりということをさせてもらいました。

 

というのが、僕の大学卒業から今までの足跡だったりするわけですが、振り返ってみて、まあおもろい経験をたくさんさせていただけたなあというのが率直な感想です。

こうしてみると、そこそこ色々やってきたとは思うのですが、そもそも僕は学生時代のバイトから含めて、いわゆる就活的な自分で働き口を探しに行くということをした事がありません。

全て知人の紹介が、声をかけてもらえたことに乗っかっただけ(笑)

多分自分の夢とかやりがいを追いかけて自ら行動していたら、何一つとして得られていなかったことだと思います。

ある意味22歳の時に夢が折られて、やれること(塾の先生)に徹してきたことがよかったなと。

振り返ってみると、できることをただ愚直に努力した結果、やりたいことが後から付いてくるというここまでの道のりでした。

やりたいことを声高に叫んで夢を叶えて行くという少年ジャンプの主人公みたいな生き方もかっこいいけれど、振り返って改めて、僕にはそういう生き方は無理だなあと。

そういうかっこいいことはできないけれど、周囲に与えてもらった期待に、せ」て裏切らないように、できればほんの少し期待を上回ることができるように。

そんなことを考え続けるという方向の先にも、案外やりたいことへの道があるというのは振り返ってしみじみ思うことだったりします。

 

もちろん、フリーで生きて行くと決めるにあたって、収入口を5つ作るとか、不労所得を作るだとか、資産形成の仕方とか、年収のコントロールの仕方とか、お金に関する計算はかなり緻密に立てて、それは概ね思った通りに動いています。

ただ、こうした機会に振り返ってみて面白いのは、多分こうなると左脳で立てた計算よりも、上に書いたような、できることをした結果やりたいことに近づいたという部分だったりします。

ようやく自分の戦い方が分かってきたので、ここからはきちんとらしさを意識しつつ、自分にしかできない立ち回りが追求できたらなあと。

ひとつ年齢的な節目を迎えて、そんな風に思っていたりします。

今後とも迷惑をかけるかと思いますが、みなさんどうぞよろしくお願いします。

 

アイキャッチは好きな漫画

 

 

日常としての非現実と非日常としての現実

僕の家にはバーカウンターがあります。
といってもオンラインのmtgや飲み会用に簡易的に用意した一畳くらいのスペースです(別にいい家に住んでいるわけでも、お金をかけて改築したわけでもありません)。

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春先のコロナの流行をきっかけに作りました。

コロナで生活スタイルの大幅な変更が余儀なくされたときから、僕の中で「身体性」という言葉が非常に大きなテーマとなっています。
物理的なさまざまな制約とここ数年のテクノロジーの進化から、僕たちはこの半年でさまざまな分野において急速にICTを取り入れてきました。
そうした変化の先にどのような世界が広がっているのだろう?ということを考えたときに、僕の中でひとつの「解」であると思えたのが「身体性」だったのです。

未来を考えるとき、僕は技術脳とSF脳で物事を考えるようにしています。
技術脳とは「今ある技術で何ができるかを考える」を考える思考で、SF脳は「今ある技術が広がった先にどのような世界が待っているか」を思い描く思考です。
たとえば、ベーシックインカムについて技術脳で考えると、「全員に一律のお金を給付すれば、つまらない仕事につく人は減り、多くの人がより楽しんで暮らせるようになる」となる一方SF脳で考えたら、「完全に仕事から自由になった人々は、それまで仕事で得られていた承認欲求や帰属意識からも解き放たれ、それらを満たすために結局『搾取』のような構造を求めるようになる」みたいな感じ。
未来を考える際には、技術で論理的に可能な「強い世界」ではなく、その論理的に可能な世界と論理では割り切れない世界の差を考えることが大事だと思うのです。
それが、僕のいう技術脳と論理脳という考え方です。

こうした考え方からコロナ禍をみたとき、僕が興味のあるのが身体性です。
コロナでさまざまなものがオンラインでできるようになった反面、実体ベースの体験が大幅に減りました。
テレワークが大幅に進んだり、オンラインでの飲み会が増えたりと、僕たちの生活に便利な選択肢が増えました。
反面失われた(今後さらに失われるだろう)ものが実体を伴う体験だと思うのです。
オンラインの飲みは距離のある人とも繋がることができて、好きな時間まで飲むことができていいことが多いですが、やっぱりやればやるほどに対面で飲む楽しさを時間します。
表情の節々、一緒にメニューを選ぶ過程、その場の匂い、偶然居合わせた人との即興的な関係性などなど、対面の良さを思い出します。
飲みに限らず、僕たちがオンラインで得たものが多ければ多いほど、トレードオフになっているものへの価値みたいなものへの欲求は大きくなると思うのです。
僕たちのメンタリティ的に、どこかのタイミングでそういったものへの回帰が起こるというのが僕の予想。
だからこそ、身体性を感じられるものを今のうちから積極的に開拓しておこうというのが僕が取っている選択だったりします。
冒頭で紹介したBarスペースもこの考え方の延長です。
オンラインで背景が自由に選べるからこそ、実体のあるセットのような背景を作ってみたのです。

ITの進歩は素晴らしいけれど、僕たちはどこまでも実態としての存在です。

だとすれば僕らの日常がバーチャルによればよるほど、僕たちは非日常にリアリティを求めるのではないか?

今までは当たり前だったリアリティこそ、贅沢品になるのではないか?

そんな仮説を持っての、「身体性」というテーマだったりします。

左脳と右脳で"2回"読み解く『千と千尋の神隠し』

作品にどう触れるのか?

もちろん作品の楽しみ方なんて十人いれば十通りのものがあって然るべきだとおもうのですが、僕の中で個人的に大切にしている読み方があります。

それは演出の節々に表出した意図を拾い集めた先に、作者の真意にたどり着こうとする読み方です。

桑原武夫さんの『文学入門』という本の中(確かこの本だった気がします)で「論理の積み上げの先にたどり着く『観念』ではなく、表出したappearanceの積み上げの先にたどり着くcloseを追いかけるのが小説愛読者としての読み方である」というようなことを言っているのですが、まさにそんな感じ。

もちろん大きな構成や演出を左脳的に読み取って、「論理的に」たぶんこうやろなという解釈をすることは大切ですし、実際僕もよくやるのですが、本当の大作の場合はそうではなく、時間をかけて繰り返し繰り返し作品に触れて、細部に散りばめられた作者の意図(appearance)を拾い集める。

その積み上げの上に作品を読んでいくと、それまでとはまるで違う作品の側面(close)が見えてくる。

こう言った楽しみがあるのが、appearance→closeという読み方だと思っています。

僕の中で宮崎駿さんの名作『千と千尋の神隠し』は、論理→観念の読みとappearance→closeの読みでは違った見え方がする作品だったりするので、今回はこの映画を題材に、appearance→closeという読み方をしてみたいと思います。

 

論理→観念ベースで読んだ『千と千尋の神隠し

いきなり論理やら観念やら、appearanceやらcloseやら、いっても訳がわからないので、実際に順を追って『千と千尋の神隠し』を楽しんでいきます。

 

まず、論理→観念というのは、そこに直接的に描かれるメッセージ性やテーマを追いかける読み方のこと。

千と千尋の神隠し』でいえば、「名付け」や「主人公の成長物語」というのがここにあたるでしょう。

この作品では名前を奪われたり、声をかけることで豚となった両親を救ったり、物語の要所にあるキャラクターの名前が名前を持たないという意味の「カオナシ」(顔無し)であったりと、「名付け」に関するテーマが頻繁に登場します。

「名付け」の持つ意味には①物事を分節化する(認識できるようにする)働きや、②特別なものである証(恋人同士で特別なあだ名で呼びあったりしますよね?)とか、③支配の対象(ペットに名前をつけたりが好例)みたいなものがあります。

こうした観点から見ると、神の世界に迷い込んだ主人公の千尋とその両親はそれぞれ名前を奪われ(千尋は湯婆婆に名前を没収されるという形で、両親は豚にされるという形で)、それを取り戻すというアドベンチャーが始まります。

そして、正体不明の神の名前は「カオナシ」。

ここには神聖なものには「ナシラズ」とか「ナナシノキ」とか、あえて名前をつけないという"名付け"をすることで支配の対象としないようにするという名付けでよく使われる手法がとられています。

名前をとられるとはどういうことか?名前を取り返すことがどういうことか?

こういった角度から物語を読むという楽しみ方が『千と千尋の神隠し』ではできて、これが大きな面白さの1つだと思うのです。

 

また、この作品は千尋というひとりの少女が社会に触れて大人になるという文脈でも読むことができます。

初めは自分のことばかりだった千尋は、湯婆婆に出会い風呂屋で働くことになり、数々の大人や客と接する中で、どんどん他社意識や礼儀、そしてなによりそういったものを通して強さを身につけて成長していきます。

この主人公の成長する姿を見て共感していく観客は少なくないはず。

こういった、ひとりの少女が仕事とは何かを学ぶ物語としても楽しめるわけです。

 

これらはどちらも作品のプロットやテーマに基づき、左脳でこの作品を見た場合に受け取るメッセージです。

もちろんこれで十二分に面白いわけですし、そもそもジブリとしてはそういう映画として『千と千尋の神隠し』を作ったと思うので、この読み方は間違えなく正しいと思うのですが、こうしたプロットの部分をいったん棚上げして、作画や演技に散りばめられたものを拾い上げてこの作品を見ていくと、先に書いたのとは少し異なる物語として見ることができるようになります。

 

appearance→closeベースで読んだ『千と千尋の神隠し

ここからはアニメ評論家で自身も『オネアミスの翼』などの監督を手がけている岡田斗司夫さんの解釈をベースにして、映像や演技の細部に散りばめられた疑問を積み上げて、作品を解釈してみたいと思います。

 

この作品はふつうに見ていても楽しめるのですが、細部にこだわっていくと、様々な疑問点が浮かび上がってきます。

・いきなり迷い込んだ不思議な世界は何なのか?

・両親はなぜ冷たいのか?

・ハクと千尋の関係は何なのか?

etc...

じつは、作品の中で語られていない「納得できない部分」がこの作品には数多くあるわけです。

こうした違和感は細かな映像や演出を追っていくことで少しずつ「意味のない惰性」から「描かねばならなかった必然」へと変化していきます。

 

例えば冒頭で千尋の家族が砂利道に車で入っていくシーン。

ここの場面をよく見てみると、舗装路から悪路は変わる所にあった気には引っこ抜かれた鳥居やお墓のようなものが捨てられています。(これは岡田斗司夫さんが解説していました)

つまり、直接は描かれていませんが、冒頭で千尋の家族が入っていったのは、何らかの形で潰されてしまった聖なる地であることが示されているわけです。

だからこそ、ここから不思議な体験がはじまります。

 

また、ここで出てくる(後にコハク川の守り神であるおわかる)ハクという少年は、記憶が曖昧に出てくるわけですが、なぜその川を守る神になったのか?、そして何故記憶が曖昧なのかは描かれません。

また、不思議な土地に迷い込んだときに千尋が悪路でつまずいても一切気にかけないという、千尋に対して「不自然に冷ややかな態度を取る両親」

千と千尋の神隠し』では、こういったいくつもの一見すると必要なない演出が繰り返されています。

そして極め付けは、ハクが守り神としている川で千尋が溺れたというエピソード。

なぜ千尋は"偶然"にもハクが守り神となった川で溺れたのか?そして溺れた千尋に手を伸さしのばした人物は誰なのか?

部分部分でこういった違和感がいくつも描かれているにも関わらず、それらの理由はこの作品の中では最後まで語られません。

 

岡田斗司夫さんは、こうした違和感を並べた上で、宮崎駿さんが『千と千尋の神隠し』の製作の際にされたインタビューで語った「僕は一度『銀河鉄道の夜』をやらなければいけないと思ったのです」(細かな言い回しは違うかもしれません)という言葉に注目しています。

宮崎駿さんが語った『銀河鉄道の夜』とは、もちろん宮沢賢治さんの名作であるあの作品のこと。

銀河鉄道の夜』には、ザネリという学校のヤンチャな子どもが川で溺れたのを主人公ジョバンニの親友カンパネルラが命と引き換えに救い、そのことに銀河鉄道に乗ったジョバンニが不思議な電車の旅を通して気づくという物語が描かれます。

この作品が宮崎駿さんが「銀河鉄道をやらなければならない」と言った以上、そのどこかにザネリはいるし、カンパネルラもいるし、もちろんジョバンニもいるはずです。

そして、こうした前置きをもって先に挙げた"違和感"を並べていくと、次のようなストーリーが見えてくるように思うのです(ほぼ岡田さんの受け売りです)

 

ハクをその土地の守り神としてみることもできますが、見方を変えれば未練からその土地に縛られた霊と捉えることもできます。

そして、その土地で溺れた千尋

これを『銀河鉄道の夜』のプロットに当てはまるのなら、川で死にかけたけど助かったザネリが千尋で、それを助けようと命が失われたのがハクと考えられます。

さらにこの前提を踏まえて両親の千尋に対する(完全に無意識な)距離感を考えると、ハクは実は幼い頃に千尋を助けて亡くなった千尋の兄ではないのかと岡田斗司夫さんは結論づけています。

確かに、それなら両親の(決して悪意があるわけではないのに)なぜか千尋に冷たい態度にも説明がつく。

つまり、映像や演出(そして宮崎駿さんの言った「銀河鉄道」というキーワード)を踏まえると、神の世界に迷いこんだ千尋が、幼い頃に自分を助けて亡くなった兄と再会する物語と読むこともできるわけです。

(ここまでほぼ岡田斗司夫さんの説をお借りしました)

もちろんこれには賛否両論あると思うのですが、僕はこれがappearanceからcloseを読み解くということだと思っています。

 

さらに、ここからはこのエントリの本筋に関係のない僕の個人的な解釈なのですが、だとしたら『銀河鉄道の夜』における主人公ジョバンニは誰なのでしょう?

僕はこれが、見ているぼくたち視聴者自身だと思っています。

ジョバンニは銀河鉄道での旅の中でカンパネルラと話し、様々な人の人生に触れる中でじっくりとカンパネルラの死を感じ取ります。

この列車内での心情の動きそのものを映画を通して観客にさせたのが『千と千尋の神隠し』ではないかというのが僕の解釈。

 

論理的な読み方とappearance的な読み方

以上に書いたのが、論理的な作品の味わい方とappearance的な作品の味わい方です。

繰り返しますが、どちらがいいというわけではなく、いろんな読み方があって、それぞれの楽しめるやり方で作品を見るのが一番いい方法だと思います。

その上で、僕は(仕事柄かもしれませんが)ここ最近appearanceを追いかける読み方をすることが多くなり、その先に色々な気づきがあったので、今回はそれを紹介させてもらいました。

 

作者に対する全幅の信頼、そしてその先にある論理とは違った見え方。

こういう楽しみ方ができるのも、作品に触れる楽しみなのかなと思ったりします。

もしこういう見方に興味がある人がいたら、一度実践してみてください。

 

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