新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「何がしたいか」という判断軸は仕事の適正を見誤らせる

何で読んだのかは忘れましたが、天職の定義について、二つの言説が印象に残っています。

ひとつは「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」というもの。

そしてもうひとつは「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」というものです。

人の気がつかない分野に気付くことができて、当たり前のこととして没頭できるのが、その人にとっての天職であるように思います。

僕は驚くくらいに営業の適正がありません。

好き嫌い以前に、人が当たり前に気付くところに気がつけないのです。

たとえば、プレゼンの資料を作ったとして、営業がうまい人は当たり前のようにミッションが正しく表記されているか、数値の「,」の使い方はどうか、フォントは組織で統一されているかということに気がつきます。

しかし、僕の場合は、そういうところが重要であるという「認識」そのものがない。

だから、僕にとって営業面の細部は気がつかないのではなく、そもそも「目に写らない」のです。

一方で、使っている文字ひとつひとつがとても気になってしまいます。

LINEで会話をしていても「て」「に」「を」「は」一つまで気になってしまう。

だから、何かで言い争いをするときには、ついつい「あそこで無意識に『も』って言っていたけど、どういう意図があるの?」というようなことを聞いてしまう。

先ほど言った営業がものすごく上手な友人は、反対にこういった部分に無頓着です。

彼にとっては「彼が」も「彼は」も対して違わない。

その違いが目に写っていないのです。

彼は文字を扱うことに対してはそれほど得意ではないのだと思います。

あるいは、音楽に適正がある人であれば、同じ曲を聴いたとしても、全ての楽器の音が認識できます。

一方で音楽に適正が無い人にはそもそも細かな違いは「聞こえ」ない。

デザインが得意な人には当然のように見えているも文字の背景の影や視線誘導の導線も、苦手な人にはそもそも見えていないし、映画監督に適正のある人には気になって仕方がないカメラワークやカットの部分も、興味の無い人には認識すらできない。

これが、「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」という言葉の真意であるように思います。

 

もう一つの「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」という言葉も凄くしっくり来たことを覚えています。

僕はよく、新しく出た参考書や入試問題が載っている問題集を自腹で買って休日の暇なときに解いたりノートにまとめたりしています。

あるいは仕事終わりに飲み屋の席でお酒を飲みながら、新しいプリント作りをしている。

昔友人と飲んでいて、「何で仕事時間外でそんなことしているの?」と言われて初めて気がついたのですが、僕にとって新しい入試情報を調べてまとめるというのは、全く苦痛ではないんですよね。

だから、「勤務時間外に仕事をしている」という実感が全く無い。

逆に、事務的な雑務を頼まれたときは一分でも勤務時間を超えたらやりたくない。

後ちょっとだけみたいに頼まれると、強制されているという意識が強くなり、明らかにパフォーマンスが落ちる。

逆に、僕の友人でエクセルの入力みたいな作業には没頭できるのに、デザインのようなものになると全く進まなくなるという人がいます。

 

「細部に気がつく」という能力と、「没頭できる」という能力。

どちらか一つでも備えている仕事であれば、その人にとって向いている仕事であるのだと思います。

「何がしたいか」みたいな軸が、必ずしも自分に向いている仕事を選ぶ判断基準になるとは限りません。

「細部に気がつく」ことと、「没頭できる」ことという2軸による仕事の適正の判断は意外と重要であるように思います。

古典と落語の境界線

ツイッターで連続ツイートした内容についてまとめました。

普段と違う書き方であるので、その点はご了承下さい。

 

僕は、立川談志の「源平盛衰記」がとても好きだ。
平家物語を題材にした落語(というか殆ど講釈なのだけど..)で、平家一門の繁栄から衰退までを、一気に話あげる。
そのテンポと談志の小気味いい江戸弁のおかげで、30分を超える演目なのに、全く飽きさせない。

 

平家物語というと、多くの人が学校の古典の授業を思い出すと思う。
古文を教える身としては残念なのだけれど、恐らく学生時代に学んだ平家物語は、退屈な一コマに過ぎなかったという人が殆どではないかと思う。
どうして同じモチーフを扱うのに、落語は面白く、授業は退屈なのか。
そこが興味深い。

 

かくいう僕も、学生時代に習った平家物語は退屈という印象しかなかった(ごめんなさい...)
それが談志の源平を聴いて面白いと思ったのには、次の特色故だろう。
1.談志独自の解釈で語られる
2.キャラクターが作り込まれている
3.ギャグを盛り込んでいる

 

もちろん、正しく古典作品に触れることを目的とした古典の授業と落語はそもそも目的がちがうのであるから、比較することがそもそもナンセンスだ。
しかし、落語家が芸を磨く一環で文献を紐解くのと同様に、教師が落語に学ぶことのできる点はあると思う。

 

僕はここ数年、テスト対策の時などに、実験的に「内容を楽しんでもらう説明」というのを試みている。
学校ですでに「正しい読み方」は習っているのだから、噺家のそれと同様に、楽しさと分かりやすさに重きを置いた説明だ。
自分自身が多くの資料にあたり、1番しっくりくる解釈で訳を構築する。

 

そして、それぞれの登場人物のキャラクターを明確にイメージして、彼らを物語の中で動かす。
ちょうど、僕が書き上げた台本をキャラクターたちに渡して、その役割を演じてもらうような印象だ。

 

僕の中で和泉式部はその気はない男の子にも平気でハートマークを送ってしまうような無自覚な男垂らしだし、菅原孝標女は妄想恋愛に浸る海月姫
・・・自分で書いていてかなりキモい(笑)
とまあ、説明のために登場人物のキャラや輪郭を、できる限り明確に頭に浮かべて説明する。

 

そうすると、自然と行間にリアリティが出てくる。
そして語り手の立ち位置の僕が時々、メタ視点のナレーターとして、作品世界にツッコミを入れるという形でギャグを挟む。
これでは古典作品の素晴らしさが味わえないのでは?というお叱りも受けるかと思うが、僕はまず作品を楽しいと思って貰いたい。

 

だから、二股をかけた大和物語の女なら矢口真里をネタにするし、出家がテーマなら清水富美加をイジリ倒す。
「古文的」な正しい解釈や、美しい文を堪能するというのはその後でいい。
(もちろんそういう説明も用意している)

 

もちろん価値観の問題で、このやり方に賛否はあるだろうけれど、少なくとも僕は、テストで一定の結果が出て、かつある程度は好評価を頂いている(はずだ)から、教え方の一つのスタイルとしてアリだと思っている(受験指導は毛色が違うのでこの限りではない)。

 

源平盛衰記のように、落語のような笑えてためになる古典のネタ(教案)作り。
これが、ここ数年の講師としてでなく、1人の古典ファンとしての研究テーマだったりする。

なぜあの人はいつも彼女が途切れないのか~デブがモテるのにはワケがある!?レバレッジデブ理論~

僕の周りには「モテるぽっちゃり系」が多くいます。
テレビでもてはやされるイケメンでは無いのに何故か彼女が途切れない人たち。
また、一緒にいるとむちゃくちゃ面白いぽっちゃりもたくさん。
もちろん体形関係なく、面白い人は面白いのですが、面白いぽっちゃり系の持つ、面白さの破壊力は常人のそれとは比較にならないと思うのです。
なんでだろう?といろいろ考えていて出て来た僕の結論はぽっちゃり系にはレバレッジがかかっているのではないかと言うもの。
名付けて「レバレッジデブエフェクト(LDE)」(笑)
大変失礼な言い回しで恐縮ですが、語感がいいのであえてレバレッジデブエフェクトというネーミングでいこうと思います。
レバレッジデブエフェクトとは、周囲に対して何かしら影響を与える際に、ぽっちゃりしている人の場合、その醸し出す雰囲気により影響がいくらか強化して伝わっているというお話です。
この強化には正の側面への強化と負の側面への強化があり、それぞれをポジティブデブエフェクト、ネガティブデブエフェクトと呼びます。
ここで重要なことは、ポジティブデブエフェクトとネガティブデブエフェクトによって、強化の度合いが違うということ。
ぽっちゃり系はどんな時でも強化されるからプラマイゼロというわけではないことに注意が必要です。


ポジティブデブは2割増し、ネガティブデブは5割引き

ぽっちゃり系はその雰囲気を有効活用すれば、普通の人に比べて好印象を与えることができるけれど、一歩間違えれば悪い印象を与えるから、雰囲気の安全運用が必要と言うのが僕の持論。
具体的にはぽっちゃり系であることが周囲に与える良い影響(=ポジティブデブエフェクト)は大体2割増し、反対に周囲に与える悪い影響(ネガティブデブエフェクト)は5割増しくらい。
たとえば、非常に清潔感のある服装のぽっちゃり系の人であれば、通常の人に比べて2割くらい好感度が増しますが、体臭がきつく脂ぎっていたりすると印象は細身の人と比べて5割近くダウンしてしまうという具合です。
仮に10項目でレバレッジデブエフェクトがかかった状態になっているとして、ポジティブデブエフェクトとネガティブデブエフェクトが5項目ずつであったとしたら、N×0.3(Nはそれぞれの項目値の合計)だけマイナスになってしまうわけです。
したがって、レバレッジデブエフェクトを有効利用するためには、ポジティブデブエフェクトをいかに増やすかを考えなければいけません。


頻出項目におけるポジティブデブエフェクトとネガティブデブエフェクトの発生要因

僕の考えるレバレッジデブエフェクトは特定の局面でどちらかが働くというものではなく、それぞれの項目において両面があり、当人がどちらを選択するかという問題です。
レバレッジがかかりやすい代表的な項目をいくつか挙げてみたいと思います。
①人と一緒にいるときの振る舞い方・・・気配りの出来るデブは好感度2割増し/自己中なデブは嫌悪感5割増し
②デートのときのエスコート度合い・・・優しいデブはトキメキ2割増し/消極的なデブはイライラ5割増し
③服装・身だしなみ・・・清潔感のあるデブは爽やかさ2割増し/汚いデブは不潔感5割増し
④意思決定・組織におけるリーダーシップ・・・芯のあるデブは信頼度2割増し/優柔不断なデブはメンドくささ5割増し
⑤仲間うちでの盛り上げ方・・・面白いデブは面白さ2割増し/モブキャラ系デブはつまらなさ5割増し
ざっとこのような分類の仕方になります。
(ひとつひとつで「ぽっちゃり系」と書くのが面倒だったので、便宜上「デブ」と表記しています)
ぽっちゃり系の人で常に彼女・彼氏が途切れないような方々は、例外なくこれらの項目でポジティブなレバレッジがかかっています。
通常の人たちがそれぞれ100点満点中70点で合計350点あるとしたら、全ての項目でポジティブデブエフェクトがかかるエリートぽっちゃりの人たちは、それぞれの項目で2割の傾斜がかかり420点となるのです。
これが僕の考えるモテるぽっちゃり系と人望のあるぽっちゃり系のからくりです。

雰囲気イケメン雰囲気美人に加えて僕の新たな関心事、ぽっちゃりイケメンについてのレポートです。
情報が集まったら少しずつ改定していきたいと思います。

 

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 アイキャッチはモテの伝道師山田先生のこの本

 

旅芸人のための指南書

僕には(控えめに言って)素行のよろしくない幼なじみがいて、彼と遊ぶことで、いろいろな「知識」を教えてもらいました。

自動販売機からジュースを抜き取る「知識」とか、自転車の鍵を外して盗む「知識」とか、原付を鍵なしてパクる「知識」とかetc...

もちろん僕はそんな事を実際にしていないし、しようとも思ったことはありません(だからこそ、それらをカギカッコつきの「知識」と呼んでいます)

僕が小・中学校時代に家が近いから遊んでいた友達をみてみると、多くは中卒で、良くても高卒くらい。

成人式で久しぶりにあって、大半が働いていたのをみて、大学に通っている僕なんかよりも彼らの方がずっと「大人」だなあと感じたのを今でも覚えています。

 

一方で、中学時代の僕はありがたいことにそこそこ勉強ができた(笑)ので、学校でよくつるむ友達は委員長をやるようないわゆる先生ウケのいい人たちでした。

で、こっちはこっちでむちゃくちゃ面白い。

全く違う文脈のグループにいるときに、「楽しい」ことも「大切な」こともまるで違うということをとても面白いなと思ってみていました。

 

高校に入ると、今度はリア充のグループとオタクのグループに(なぜか)所属することになります。

自分が自然と仲良くなったのは、少数の仲間内で同じ趣味について盛り上がるオタク気質のグループ。

一方で、偶然席が隣になった友達と馬があって、彼とつるむうちに仲良くなったのは学校の空気を作るようなリア充グループ。

女の子と喋る必要性すらないようなグループで過ごしているかと思うと、一緒に遊びに行くのが当たり前の空間でワイワイやっているみたいな印象で、ここでも全く違う文脈が流れていることを面白く思っていました。

 

大学に入ると今度は、サークルでワイワイするのが第一のグループと、バイトに全てを捧げるようなグループに所属することになります。

サークルにいるときは大学生なんだからとことん楽しまないとというのが「当たり前」の生活をし、バイト先では社会に触れるのだから「こうあるべき」という振る舞いをするような生活をしている。

ここでも僕は違う文脈があることを楽しんでいました。

 

少し前、居酒屋で飲んでいたときに、「その人の特性は小さい頃の経験から決まる」という話と「社会人になって振り返ってみると気づきがあるかもしれない」という話を聞いて、なるほどと思いざっと振り返ってみたのですが、改めて思ったのは、僕にとっては常に2つの対照的な文脈に身を置くのが心地よいということでした。

だいたい僕がしんどさを感じるのは、義務感や競争なりで、一つのグループに打ち込んでいるとき。

盲目的に何かに取り組むというのが凄く苦手なのだと思います。

バーベキューをするのなら1番楽しいのは肉を焼いたりする係だし、海に遊びに行くのなら泳ぐよりも荷物番をしてたまに疲れて休みに来る人と話すくらいがいい。

飲み会の席でもちょっと引いたところで楽しい空気に触れているのが1番楽しい。

グループで集まろうと呼ばれるよりも、

好きな先輩や贔屓にしていた後輩から「久しぶりに合わないか?」と個人で連絡をもらうとむちゃくちゃ嬉しくなる。

一貫して自分が心地よさを感じるのはこういった部分であるように思います。

 

ある組織に没頭してそのメンバーを引っ張っていくとか、そのグループの中でやるべき仕事を引き受けてその役割に責任感を持つみたいな関わり方は多分自分の性分にあっていない。

それよりも後方にいて、穴があったらそこにそっと入るみたいな関わり方をしているときが1番自分では力を発揮できているように思うのです。

少なくともそうやっているときが僕にとっては1番楽しい。

「いなくてもいいけれど、アイツ呼んでおこうか」くらいのところが、多分僕にとってのベストポジションなのだと思います。

 

こういう関わり方が好きな人って、案外多いんじゃないかなって思います。

そして、そういう人たちの欲求を満たせる場は少ない(笑)

僕の経験上、こういうグループへの関わり方をするには、組織を作るタイプの人に気に入られることが不可欠です。

自分でグループを作っても上手く回らないし、役割を担った一員として参加したら役に立たないやつとなってしまう。

僕の座右の銘は「好きな人の懐刀になる」。

ここでいう好きな人が組織を作る人だったり、圧倒的なカリスマ性を備えた人だったりすると、上手くいくのかなあと思います。

ちょうど、黒子のバスケの黒子と赤司くんみたいな関係(笑)

僕みたいなグループとの関わり方が好きな人は、人を集めるタイプの人と出来る限り出会う機会を増やして、縁があった人とは片っ端から付き合ってみる。

そんな風にしていくと、自分のやりがいや勝ちパターンが見えて来るような気がします。

 

 アイキャッチは最近はまっている東浩紀さんの著書

 

 

鬼束ちひろ「私とワルツを」考察〜とても深い女性の優しさを描き切った歌〜

あるときから突然風貌が変わったり、Twitterで「和田アキ子死ね」のような奇声を発して度々話題になる鬼束ちひろさん。
僕は風貌や声質が変わる前からずっと、当然変わったあともファンとして追いかけています。
ただ、個人的に歌として隙なのはやっぱり初期の鬼束さん作品です。
最近の曲はメロディありきで書いていることが多いらしく、どうしても初期の歌詞を先に書き上げて、そこをメロディにのせるという作り方をしていたころの曲のほうが、歌詞に解釈の幅があったように感じてしまうのです。
今回取り上げる「私とワルツを」はその代表例だと思います。

僕がこの曲を最初に聞いたとき、伊藤整さんの「典子の生きかた」という小説が頭に浮かびました。
「私とワルツを」という曲が、何らかの理由で彼女と共に歩んでいくことが出来ない(先が長くない)男性が、それでも彼女を悲しませないように、「ずっと一緒だよ」と言っているような曲に聞こえたのです。
そして、彼女はそんな彼の気持ちを理解しているからこそ<誰にも傷がつかないようにとひとりでなんて踊らないで どうか私とワルツを>なんてことをいう。
そんな、彼女を思いやって優しく接する男と、そんな男の優しさにいっそう胸が苦しくなる彼女の気持ちを描いたというのが僕の解釈です。

<時計は動くのをやめ…>と始まり繰り返されるAメロは、最後のときが近いことにお互いが気付いているのだけれど、それを口に出さないようにしている様子であると解釈することができます。
だからこそ、口を閉じて体を寄せ合うだけになる。
「典子の生きかた」が重なったのは、恐らくこの辺のフレーズからだと思います。
そしてAメロが終わると<優しいものはとても恐いから泣いてしまう 貴方は優しいから 誰にも傷がつかないようにとひとりでなんて踊らないで どうか私とワルツを>という印象的なサビに入ります。
ここの部分なのですが、どこの部分で区切るのかによって、意味が変わってきてしまうような作りになっています。
ポイントは「貴方は優しいから」というフレーズ。
これをメロディで考えて前半4小節がひとかたまりと考えてしまうと、内容がよくわからなくなってしまいます。
「私とワルツを」を書いた当時の鬼束ちひろさんが歌詞を書いた上でメロディに当てはめていたということを考えると、音楽的な小節の区切りというよりも、歌詞の意味の区切りを優先していると考えることができると仮定することができます。
この仮定に基づいて、意味の切れ目を3小節目<優しいものはとても恐いから泣いてしまう>に置くとします。
すると、優しさが恐くて涙が出てきてしまうのは主人公、恐らくは鬼束さん自身がベースとなる女性?ということになります。
そして、あなた(男性)は優しいからこそ周りを傷つけないためにひとりでワルツを踊っていると解釈できる。
最後の一行<どうか私とワルツを>は、そんな男性に向けて「私にくらい重荷を打ち明けて」という女性の気持ちとして考えることが出来ます。
このように、自分を気遣って本当のことを打ち明けない男性に対して「ひとりで苦しまないで私に打ち明けて」という女性の気持ちを歌った曲と考えると、二番以降も内容が推測できます。

<この冬が終わるころには凍った鳥たちも溶けずに落ちる…>
僕が2番の歌詞で気になったのは、「冬が終わる」という言葉と「鳥」という言葉です。
「冬が終える」というのは新しい季節を迎えるということでしょう。
そのころまでにはきっと、鳥が溶けずに落ちてしまう。
ここから分かるのは、二人の関係が新しい季節を迎える頃までは持ちそうも無いということ。
これが単なる二人の関係の破局ではなく「死」を連想させるものだと考えるのは2番のサビがあるからなのですが、それは後述するとして、とりあえずここでは二人の関係が長くないということが暗示されています。
もう一つ僕が気になったのは「鳥」というワーディングです。
「鳥」には、夢が叶う、大空に羽ばたく、というような未来志向、ポジティブなイメージがあります。
それが凍ったまま落ちていく。
関係は長くなく、未来が無いことを隠喩するような2番のAメロは次のように続きます。

<あとどれだけ歩けるのだろう きっと貴方は世界の果てまで行くと言うのだろう>
「あとどれだけ…」という歌詞には、一つ前のAメロ(著作権的に分量がまずそうだったので書きませんでしたが)に書かれていた主人公の不安が書かれています。
さらにそれを相手に伝えたところできっとその男は<どこまでも行く>という優しさからくる男性のアンサーを類推したフレーズが続く。
ここは主人公が相手の男性の心情を推し量る描写となっていて、「どうせ私が聞いてもあなたは私を気遣って優しい言葉をかけるだけなのでしょう」という主人公の本当のことを言ってもらえない「悲しさ」が書かれています。
そして2番のサビで、そんな主人公が相手の男性に対して言いたい気持ちを吐き出すフレーズがやってきます。

<失う時がいつか来ることも知っているの 貴方は悲しい程 それでもなぜ生きようとするの 何も信じられないくせに そんな寂しい期待で>
2番のサビはこう続きます。
最初のフレーズは倒置になっているので、本来は「貴方は悲しいくらいにいつか失う時が来ることを理解している」という内容になります。
そんな相手の男性に対してさらに倒置を利用しながら、何も信じられないくせにどうして生きようとするの?と主人公が訴えかける構成になっています。
そんな「寂しい期待」というのは2番のAメロで「貴方」が言った(正確には主人公が言うだろうと思った)「世界の果てまで行く」ということばを受けているのだと思います。
僕はこの2番のサビが一番のお気に入りです。
主人公の「貴方は誰も信じることができずひとりで強がっているけれど、それなら何を望みに生きているの」という相手に対する自分を信じてくれない悲しさと、自分にさえ心を許すことの出来ない「貴方」に対する哀れみがはっきりと出ているように感じるからです。
そして、ここから間奏を挟んで、最後のサビに向かいます。

間奏後、1番のサビを繰り返したあと、貴方が炎に焼かれているのならという言葉の後に、<悲鳴を上げて名前を呼んで 一度だけでもそれが最後でも 誰にも傷がつかないようにとひとりでなんて踊らないで どうか私とワルツを>と続きます。
「名前を呼んで」というのは私の名前をという意味で捉えるのが適当でしょう・
ここには、「苦しいときは私を頼って」という主人公の気持ちがストレートに出ています。
そして、1番の歌詞の繰り返しになっている後半のフレーズがさらに聞き手を歌に引き込む作りになっています。
一番では「あなたの優しさが恐いからひとりで踊ろうとしないで」と自分の不安から出た言葉であったのが、最後のサビでは「貴方がつらいのなら無理してひとりで躍ろうとしないで」というように相手を思いやる気持ちからでた言葉になっています。
この心境の変化、というよりも2番を経過した後に出て来たこぼれた本音のような効果が非常にうまいと思います。
だからこそ、最後の「どうか私とワルツを」という最後のリフレインが、主人公が気持ちを搾り出した心の声のように感じられる。

そもそも鬼束さんの曲はあえて抽象的になっているからこそ、さまざまな解釈で感情移入ができるわけなので、それに解説を書くこと自体がナンセンスだとは十分に分かっています。
そのうえで書いた考察なので、あくまでも「僕はこう感じた」という、一つの見方であるということはご理解下さい。」

 

 

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私とワルツを

私とワルツを

 

 

 

面白い人になるためのコミュニティ論

いつも同じメンバーで集まって、いつも同じ話題で盛り上がっている。

しかもその話題が往往に高校時代や大学時代の思い出の再確認だったりする。

僕はこういうグループの集まりが非常に苦手です。

「時」の止まった話の中で連帯感を深めることに満足しているようなその空気が、どうしても肌に合わないのです。

 

僕は、話が面白かったり一緒にいてこの人は人生経験豊かだなあと思ってもらうためには、複数のコミュニティに所属することと、トレジャーハンティングをしにいくことが大切だと考えています。

一つのコミュニティにしか所属していないと、自分自身のアイデンティティをそこに求めることになる。

だから、そのコミュニティに入り浸るし、そこでの承認の度合いが自分の主な関心ごとになってしまいます。

そして、そういう人同士が集まったコミュニティはやがて、お互いの空気の読み合いや傷の舐め合いで成り立つようになってしまう。

こうした環境では、どうしても新しいことに出会う機会が少なくなってしまうように思うのです。

 

複数のコミュニティに属している場合、自分の承認欲求の求め先が分散されます。

従って、一つあたりの依存度合いが少なくて済む。

極度に一つのコミュニティへの依存をしていなければ、過度に空気を読む必要もなくなるため、ある程度議論(のような人間関係)ができるようになります。

そうするとコミュニティ内での話が生産的なものになると思うのです。

 

生産的な会話のないコミュニティでは、ちょうど替えの効く単純労働のように、どれだけ時間を積み上げたところで「経験」が身につきません。

だから、そういう人はどうしても薄っぺらに見えてしまうのです。

一方で生産的なコミュニティに属していると、様々な経験が積み上がっていく。

だから、同じように時間を費やしたとしたらその分だけ人間的に面白くなっていくように思います。

 

複数のコミュニティに所属することと同時に重要なことが、トレジャーハンティングをしに行くことです。

トレジャーハンティングとは、新しく、面白いことを自分から探しにいくこと。

そして、そこで見つけた面白いことを自分のコミュニティに持ち帰って共有しようとすることです。

僕の友達で、会うたびに「この前こんなことをしてきたんだけど、、」と、新しい経験を語ってくれる人がいます。

僕にとって彼の話は新鮮でとにかく面白い。

彼はいくつかのコミュニティに属すると同時に、そこで提供できるような面白い内容を常にトレジャーハンティングしているのです。

お互いが違うフィールドで面白いことを見つけてきて、コミュニティ内で共有すれば、当然そのコミュニティ内での会話は生産的なものになります。

新しい経験をしていたとしても、いつも同じメンバーであったとしたら、結局「あの時は面白かったね」と思い出の消費で終わってしまう。

新しい経験を価値のあるものにするためには、コミュニティと切り離したところで何かしらの経験を積むことが重要なのです。

 

東京タラレバ娘。と逃げるは恥だが役に立つの対比が上にあげたことをよく表しています。

タラレバに出てくる主人公たちは、一つのコミュニティに深く属し、新しい経験をことごとくそのメンバーで消費してしまっています。

それに対して、逃げ恥に出てくる登場人物の殆どがそれぞれ複数のコミュニティをもち、それぞれのフィールドで経験を手にしてくる。

そしてそれをコミュニティ内に持ち帰る。

同じ女性と結婚をテーマに書かれたマンガですが、逃げ恥の登場人物の方が総じて幸せそうに見えるのは、きっと多くの人が納得してくれることだと思います。

 

複数のコミュニティに属し、自らトレジャーハンティングをしにいく。

魅力的な人であろうとするとき、こうした姿勢が非常に重要だと思います。

人前で「おちんちん」を出せるか論争!?~人を惹きつける人のマインドセット~

僕は人前で「おちんちん」を出せる人(女性の場合はおっぱいを揉ませられる人)には2種類いると思っています。
一つは人前に出る再には、半ば別人格とも言える自分のキャラクターを作って、「そのキャラだからできる」というキャラクター性に任せて「おちんちん」を出せる人。
もう一つは人前に出るとき、普段の何倍もエネルギーを放出して、そのアドレナリン(勢い)でおちんちんを出す人。
やり方はまるで違いますが、僕はこのいずれの特性を持つ人も、人前に立つ才能がある人だと考えています。

初っ端か下品な物言いになってしまいましたが、もちろんこれは人前で羞恥心を捨てられるかということのメタファーであり、本当に「おちんちん」を人前で出せるかどうかについて言及しているわけではありません。
僕は大学1年生のときからかれこれ8年近く塾の先生をしてきて、それなりに人前に立つ経験もしたし、そういう経験をする人を多く見て着ました。
その中で決定的に思ったのが、うえで「おちんちん」にたとえた内容です。

人前で無茶振りを回されたとき、その対応には人によって2種類のものがあると思っています。
一つは羞恥心が上回り、頑なに拒否をする人。
そしてもうひとつが、自分の羞恥心と周囲の「盛り上がり」を天秤にかけ、自分の恥ずかしさを捨てる人です。
僕が「人前で『おちんちん』を出せる」といっているのは後者の人。
そして、後者にも2パターンの人がいます。
それが、キャラを作って住み分けている人と、素の自分の延長でエネルギーを増大させて人を惹き付ける人です。

キャラを住み分ける人は、普段の自分とは切り離した「人前でこうあるべき自分」を持っているので、その理想像に近づけようという欲求から、恥を捨て去ることができます。
お笑い芸人さんなんかに多いタイプ。
それに対して、出力を上げるタイプの人たちは、あくまで自分のキャラクターの延長線上で恥をすてることができます。
グッとテンションを上げているからこそ、感情の触れ幅も大きくなる。
そんな状態で無茶振りをされれば、その場のノリに任せてたいていの恥ずかしいことはできてしまうというタイプです。
どちらがいい悪いではなく、人前で注目を集めようと考えたとき、このいずれかのパターンしかないよねというお話。
因みに僕は学生時代のバイトで(いい意味で)追い詰められて後がなくなった結果、「キャラを作る」という方を撰びました。
だから完全に切り替えるクセがついてしまい、普段は無茶振りにまったく対応ができません。
だから、自分の出力を上げることで対応できる(切り替えるのではなく、普段の延長線上に人前にたつ自分がある)人がうらやましく思ったりします。
先ほど前置きしたように、どちらがいい悪いでは無いですが、その人の性格でまるで適正は異なります。
ただ、人前で「笑われよう」と思ったら必須のスキル。
人前に立つと恥ずかしいという人はこの辺を意識してみるといいと思います。