新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



SNSの時代に「コンテンツを持つ」ということ。

ちょうど僕は、中学時代にプロフ、高校時代にmixi、大学に入りfb,Twitter,インスタが流行り出しという形で、ほぼほぼSNSの発展(プロフがSNSといえるかは微妙ですが)と共に大人になってきました。

当時から今までのSNSの変化を、実際に使いながら感じてこられたのは、結構僕ら世代の武器だなと思っています。

昔のSNSと今のSNSで機能面はもちろん、僕らの使い方や接し方で大きく変わったなと思うところが多々ある反面、変わらず僕たちがSNSに求めるものもあるように感じます。

そんな中、「大きく変わった」側は頻繁に取り上げられる反面、「ずっと変わらないまま」の部分にはスポットがあまり当たりません。

ということで、今回はSNSの変わらなさについてまとめていきたいと思います。

 

僕たちはこれまでもこれからも人に構って欲しい

1:nのオープンなコミュニケーションから極めて近しい仲間内でのやり取り。

長く残る記録としての投稿から、刹那的で一期一会な「残らなさ」が売りのやり取り。

SNSでのコミュニケーションは、それ自体が大きく変わって来たと共に、世代によっても様々になってきました。

しかし、僕たち利用者がそこに求める①注目共に②コミュニケーションという欲求は変わりません。

(これはビジネス目的で運用している人にとっても同じ。)

親しい知人に「今日こんなことあってん!」と伝える程度のことから、フォロワーに向けた「僕はこんなプロジェクトを進めています」というものまでスケール感は様々ですが、発信したいという欲求は変わりません。

そして発信する手段が増え、形態が多様化する程に、僕たちは必然的に発信するコンテンツを求めるようになります。

「私は別に発信するとか興味ないし」と思う人も、例えばYouTubeTikTok、Voisy、snowなどで歌やダンス、ラジオみたいなコンテンツを発信している人は少なくないのではないでしょうか?

あるいはLINEのグループに動画や画像を発信したり。

それ自体が「これらのメディアがなければ存在しなかった欲求」です。

その次元で捉えれば、僕たちの発信したい欲求は確実に増えているといえると思うのです。

 

技術の進歩により発信したいという欲求は広まってきた一歩で、僕たちの日常生活に溢れるネタの量は変わりません。

とすれば、SNSの生活に占める割合が増え、発信手段が多様化するにつれて、僕たちはネタ不足になってくるわけです。

しかもSNSはそこで繋がる人々に対して一斉に情報を発信してしまうメディアです。

ちょうど、それまでは数本のネタがあれば全国を営業で回っていられた漫才師がテレビでそれを披露した瞬間に、もう、営業では使えなくなるのと同じく、SNSではひとつのコンテンツの消費スピードが、それまでの1:1コミュニケーションと比べ非常に高くなっているわけです。

 

こうした「発信したいもの不足」の時代に有利なのか、「コンテンツを生み出す『コンテンツ』を持っていること」だというのが僕の持論です。

例えば飲み屋を経営している人ならば、その日のお客さんとのやり取りを書くだけでコンテンツになりますし、なんだったら今なら「コロナで苦しい」ということ自体だって発信する事ができます。

あるいは猫好きであるなら、毎日猫の成長を動画にするだけで、ネタはつきません。

 

僕がここでポイントだと思うのは、①コンテンツを生み出す「コンテンツ」を持っていることと、②その「コンテンツ」は放っておいても勝手にコンテンツを生み出し続けるという2点です。

仮に同じコンテンツを生み出す「コンテンツ」であったとしても、それが例えば音楽や絵描きのように自分の「労働」によって生み出されるものであってはいけません。

(もちろん、フォロワーを集めてクリエイターになりたいみたいな人はこちらが必要ですが、今回はあくまで一般人が友達とのやりとりに使うSNSを想定しています)

努力の必要な「コンテンツ」は、日常にネタを探すのと変わらないからです。

そうではなく、無限にコンテンツを生み出してくれる「コンテンツ」を持っていること。

これが発信手段余りネタ不足の時代にうまくSNSと付き合う方法だと思うのです。

 

一連のコロナの影響で、僕たちは否が応でもオンラインとの接触を増やさなければならなくなりました。

今まで以上にSNSでのコミュニケーションは活発化するはずです。

そうなったときに、注目の種としてのネタ、会話のきっかけとしてのネタへの欲求が相対的に上がるのは間違えないでしょう。

(現に、料理の写真や歌ってみた、ラジオや読書チャレンジなど、明らかに日常の切り取りみたいなコンテンツが増えています)

僕の中でこうした自分の中の欲求を、負荷なく満たすための最適解が、「勝手にコンテンツを生み出す『コンテンツ』を持つこと」だったりします。

 

アイキャッチはこうした未来を20年前くらいにかなりの解像度で言い表していた岡田斗司夫さんのプチクリエイターのススメ。

プチクリ!―好き=才能!電子版

プチクリ!―好き=才能!電子版

 

 

 

かしこいデモとストライキ〜仕組みを押さえ方とサードドアという考え方〜

連休中に何気なくSNSを見ていたら、安倍さん、麻生さんの家の近くでデモをしたというニュースが流れてきました。

僕はこれを見たとき、これを考えた人頭いいなと思いました。

いうまでもないかもしれませんが、ここで僕が感心したのはデモの内容や行動に起こしたという、政治的な部分ではありません。

僕が興味を持ったのは、あくまで戦略の部分。

「安倍さんや麻生さんの家の付近(閑静な高級住宅街)でデモをする」という、伝えたい相手が最も痛いであろう方法を考案し、ルールに則り実装したところが面白いなと思ったのです。

 

普通政治的なデモといえば、国会議事堂だったり、人目につくところであったりを狙います。

でも、正直な話、そこでデモをやられたとしても、受け手の側にそれほどダメージはありません。

しかし、自宅付近でやられれば別です。

当然政治家の人にも家族がいますし、まして安倍さんや麻生さんの家の近くは高級住宅街で、そんな所で大声を出されたら、周囲に住む人は迷惑に感じることでしょう。

確かに、国会議事堂の前でデモをすれば話題になりますが、家の近くでデモをした方が与える実害は比較になりません。

もちろんデモは事前にコースを警察に届けているはずなので合法。

合法的に最もプレッシャーをかける方法として、①高級住宅街にある、②対象者のプライベート空間でデモをするという方法は、何かを訴える手段として大変優れているように思ったわけです。

(繰り返しますがあくまで戦略に対する感想で、事象の是非は述べていません)

 

 

こういった、戦略的な上手さを感じる例はいくつもあります。

僕が好きなのは岡山県のバス会社が行った、「賃金を受け取らない」というストライキです。

普通ストライキといえば、主張を通すために労働者たちが団結して、仕事を休むなどの行動をすることで雇用主と交渉を行うというイメージです。

しかし、岡山県のバス会社であったこのストライキはバス自体は通常運転をして、料金はいただかないというものでした。

 

普通、ストライキといえば雇用主の懐を痛めるために、雇用主の売り上げの源泉である労働部分を断つという形で行います。

そのため、多くの場合消費者もその影響を被るわけです。

しかし、「バスの運賃をタダにする」というストライキは違います。

これにより雇用主がダメージを受けるのはその通りですが、消費者の側はむしろ得をします。

そのため話題性があるのはもちろん、消費者を味方につけることもできるわけです。

 

僕はこのふたつの例に同じ賢さを感じています。

「デモをするから国会前に行く」ではなく、「プライベート空間に影響を及ぼす」という対象者にとって最も痛い部分はどこかを考える。

ストライキだからバスの運行を取りやめる」ではなく、「運賃を無料にすることで消費者を味方につける」という対象者だけを敵にする構造を作る。

もちろんどちらもキチンと与えられた権利にのっとって行われているので問題はありません。

 

デモやストライキの例なので自分の主張を押し通すためには手段を選ぶなみたいな話に聞こえるかもしれませんが、ポジティブな分野でもこうしたことは多分にあります。

例えばスピルバーグが映画監督になるきっかけになった方法や、ビルゲイツマイクロソフトを作った秘話にも、似たような構造が見て取れます。

(詳しくは『サードドア』という本を読んでください)

彼らは真正面から戦うのではなく、少し斜めな方法で、でも理をつめていくと合理的な方法で成功への一歩を踏み出しています。

これは仕組みを押さえて相手に主張を伝えようとしたデモとストライキも同じです。

 

達成したい目標に対して、真正面から挑むのではなく、角度を変えて戦略を考えてみる。

こうした姿勢は、何かを達成したいときには少なからず必要だと思うのです。

『サードドア』という本では、真正面から多くの人たちと競い合って目的にたどり着く方法をファーストドア、人脈やコネを使って目的に裏道からたどり着くのがセカンドドア、そして思わぬ抜け道を探すのがサードドアといっています。

デモの話はまさにこのサードドアのやり方です。

物事を達成する手段としてのサードドア。

こうした視点を知っていることは非常に便利な気がしています。

 

アイキャッチはサードドア

 

サードドア: 精神的資産のふやし方

サードドア: 精神的資産のふやし方

 

 

 

「教えてあげるよおじさん」の手なづけ方

居酒屋のバーカウンターなどで飲んでいると、たまに求めてもいないのに上から目線で的外れなアドバイスをしてくるおじさんに出会います。

僕はそういう絡み自体が面白いのでニヤニヤしながら話を続けてしまうのですが、マスターやママさんと話をしにきている時に絡まれたりすると少し迷惑です。

そんな人は「そもそも『解決』が前提ってなんなん?そんなに問題解きたきゃくもんいけよ」と一蹴してしまえばお終いなわけですが、馴染みのお店だったり、相手が年上だったりすると、バッサリ一刀両断するわけにもいきません。

僕はこうした、相談をするとやたらとアドバイスをしたがる人のことを「教えてあげるよおじさん」と呼んでいるのですが、彼らは真正面から相手をするとなかなか大変です。

角が立たないけどサラッといなせる方法はないか?

そんなことを考えてながらいろいろな人を観察していると、何人かやたらと「教えてあげるよおじさん」を捌くのが上手い人たちを見つけました。

彼らの会話にはいくつか共通点がある。

というわけで、今回は僕がいろいろな人たちのコミュニケーションの仕方を見ていて有効だなと感じた「教えてあげるよおじさん」の攻略法を3つまとめたいと思います。

 

「教えてあげるよおじさん」とのアドバイス欲しいでしょラリーに勝つ方法

僕が「教えてあげるよおじさん」の捌きが上手い人を見ていて特に有効だと感じた方法は次の3つです。

壱ノ型 うなずきトス

弐ノ型 実はこんな事もあってボレー

参ノ型 詳しく聞かせてドライブ
「教えてあげるよおじさん」とのコミュニケーションは持久戦です。

別に勝ち負けをつけたいわけではないので、のらりくらりと会話を楽しむ事自体が大切。

そのための有効な方法が上に挙げた3つの型です。

 

壱ノ型 あえて相手を乗せる「うなずきトス」

教えてあげるよおじさんを手なづけるのに有効なコミュニケーション方法の一つ目は「うなずきトス」です。

うなずきトスとは、とりあえず相手のアドバイスに(仮に的外れでも)大きくうなずいて、相手を話のオチに向かわせてあげる方法です。

教えてあげるよコミュニケーションの大変さは、ダラダラと会話のラリーが続き、(しかも大抵はこちらが振り回され)、消費することです。

そのようにコート上を左右に振り回されて体力を消費するくらいならいっそトスを上げて相手にフィニッシュを決めさせてしまった方がいい場合があります。

そんなときにつかうのが、このうなずきトスなわけです。

大きくうなずいて、全面同意の意を示し、そのまま話を終わりに持っていってしまう。

こういう方向に持っていきたい時に有効です。

 

弐ノ型 関係ないエピソードの連発で相手を翻弄する「実はこんな事もあってボレー」

実際に教えてあげるよおじさんと話す場面で最も多用することになるのが「実はこんな事もあってボレー」でしょう。

これは、相手が「じゃあこうすればいいでしょ?」とどんどん詰めてきた時に、「でもこんな事もあって...」と、全く関係ないエピソードを、さも関係しているようにどんどんぶっ込んでいく方法です。

こうすると、教えてあげるよおじさんは、新たに出てきたエピソードの解決策を考えるために、新たな話を用意しなければなりません。

そのため、クドクドと説教くさいラリーに持ち込まれるのを防ぐ事が可能です。

また、こちらはエピソードを一言発すればいいだけなのに対して、相手はその都度頭を使って返しを考えなければいけません。

(ちょうどハライチの漫才における澤部さんみたいな感じ)

ゆっくりじっくり相手の興味を晒したい時に有効なのが弐ノ型

 

参ノ型 大口を叩いた懐に攻め入る「詳しく聞かせてドライブ」

最後の「詳しく聞かせてドライブ」は、相手をこちらから話を終わらせようとする時に有効なコミュニケーション手段です。

教えてあげるよおじさんは、総じて人にアドバイスをしているときは気分良さそうにしています。

まして相手がたくさん頷いてずっと付き合ってくれたら尚更です。

そんな会話を続けていると、人は誰でも気が大きくなり、エピソードを盛ったり、大げさに話したりと、大口を叩くようになります。

そんな時にすっと相手の懐に攻め入り一気に話をたたみにいく方法が「詳しく聞かせてドライブ」です。

例えば教えてあげるよおじさんが「俺も○○だったから、同じようにやればいいよ」みたいに言ってきたとき、「えっ、凄いですね!参考にしたいのでもっと詳しく教えてください」という感じです。

そこまでの話の運びで話が大きくなってしまっている手前、そこでの具体的なエピソードはショボいものになりがちです。

だから、「急な具体例」を求めると、とたんに歯切れが悪くなる。

こうすることで別の話題に切り替えたり、話を終わらせたらすることができるわけです。

これが参ノ型「詳しく聞かせてドライブ」

 

おわりに

もちろん、相手は好意で話してくれているわけですし、中には実際に役に立つアドバイスが多いのかもしれません。

しかし、大前提として受け手の心境としては、そもそも「あなたのアドバイスは求めていない」なわけです(笑)

とはいえそんな気持ちをどストレートにいうのも憚られる。

このようなシチュエーションになったときは、ぜひ上に挙げた3つの型を試してみてください。

 

アイキャッチは最近ハマって最終話が待ち遠しい『鬼滅の刃

 

 

地震雲の種明かし〜地震雲を見て恐くなった人が安心する方法〜

昨日の夜、千葉で地震があったようです。

残っていた授業の予習を終えてSNSを見ていたら地震の話が。

で、その中に地震雲についての話が混じっていて、それに対して不安がる人のコメントをいくつか見つけたので、ちょっと地震雲について考えてみたいと思います。

 

地震の直前には現れる不思議な雲を指している地震雲

結構多くの大地震の前に確認されています。

(ツイッターで検索してもらえればどんなものか写真が出てくるでしょう)

不気味なものが多く、しかも大地震の前には必ず現れるというようなことを聞くと、不安になる気持ちは分かります。

さて、では地震雲というのはどうして発生するのでしょうか?

僕はその答えは奇術の仕組みと同じだと考えています。

 

昔、ユリゲラーという超能力者がいました。

テレビの前の視聴者の持つスプーンに念力を送って、その人たちのスプーンを曲げてしまうという超能力が売りの人です。

彼がこのネタを行うと、行った直後に、テレビの収録スタジオに用意されたコールセンターの電話には「スプーンが曲がった!」というエピソードが次々に届きます。

 

一見すると凄い現象が起きているようにも見えますが、実はこれはテレビの仕組みをうまく利用したマジックにすぎません。

そもそも、スプーンには色々な種類があって、中には曲がりやすいものも存在します。

そして、視聴者の中には力持ちで、スプーンが曲がってしまうような人たちもいるはず。

仮に視聴率が10%だとして(当時話題だったらしいのでもっと控えめな数字だと思います)、約1000万人が見ている計算です。

視聴者のうち、1万人に1人くらいは、スプーンが柔らかく、かつ力持ちだったりテコの原理で上手いことスプーンが曲がったとします。

そんな人がテレビ曲に電話を入れるだけでも、1000件の「スプーンが曲がった!」というエピソードがテレビ局の電話デスクには届くことになるのです。

これをお茶の間で聞けば「凄い人数の人のスプーンが曲がった」という印象になるわけです。

 

これは一定数の母体数であれば必ず起こり得る特殊な事象を集めて超常現象っぽく演出した典型例です。

地震雲もこれと同じ構造が見て取れます。

まず、日常生活で世界のどこかには、①いつだって不思議な形の雲は発生します。

そして、一定の人数がいる媒体であればあらゆる人があらゆる画像をあげるため、②そういった不思議な雲をSNSで探せば必ず毎日画像が見つかります。

あるいは、地震雲研究みたいなことをしている人が、毎日せっせと不思議な形の雲をSNSにアップし続けているかもしれません。

③そこに大きな地震が発生したとして、④気になった人が「地震雲」について調べます。

そうすると、⑤本当は「毎日あげ続けられているだけのちょっと変わった雲の写真」が、調べた人には「大きな地震があった時に現れた不気味な雲」に映るわけです。

何なら地震雲を主張する人はドヤ顔で、「空見たことか」と呟けばいい。

(で、何も起きなかった日のつぶやきは消していく)

 

毎日起きている事象を特定の時だけ見にいくと、いつもそこにあるから妙な恐怖心が芽生える。

僕はこれが地震雲の仕掛けだと思っています。

ユリゲラーの種明かしをされると、

「なんだそういうことか」となる人がいるように、地震雲に関しても確かにと納得できれば、不安が減ると思うのです。

もちろん地震雲を信じるも信じないもその人次第ですし、もしかしたら本当にそういったものがあるのかもしれません。

でも、信じたくもないのに目にしてしまった不安に思ってしまう人がいるとしたら、それはいらぬコストだなあと思うのです。

というわけで、地震雲について、手品のタネ的に仕組みを明かしてみました。

 

 

アイキャッチは論理的思考力を身に付けたいならこの一冊と僕が思っている野矢茂樹さんの論理的トレーニン

論理トレーニング101題

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  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2001/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

オンライン授業をやってみて便利だった小技5選

ここのところ、コロナとか、コロナとか、それからコロナとかコロナでバタバタしていて、すっかりブログの更新をストップしてしまっていました。

休校の延長や非常事態宣言を受けて、急遽オンライン授業、動画授業、遠隔学習管理等、いろいろな事に取り組む事になり、中々に大変ではあったのですが、一方で、色々なパターンの授業をすることができたために得られた知見も多く、また、僕みたいな若手の経験でも、これからオンライン授業を行う先生方の役に(ほんの少しでも)立つことができるんじゃないかと考え、僕が試したもののうち、比較的効果が高かったものを紹介したいと思います。

 

ZOOMを利用したクラス授業のパターン

ZOOMを通したオンライン授業以外にも、動画授業やGoogleclassroomを活用した課題管理型の学習指導なども行なってきましたが、それらを全て書いていたら雑多な文章になりそうなので、今回はZOOMで行った授業についてまとめていきたいと思います。

 

僕がZOOMで多く実践した授業の形式は以下の4パターンです。(今回は授業の構成の話というより、もっと具体的なTipsをまとめたいので、ここはサラッと流します)

①自習室質問対応型(基本的には自習。質問がある場合はブレイクアウトセッションで個別対応)

②プリント穴埋め型(事前に教材を準備。穴埋め形式の演習中心の授業)

タブレット書き込み型(教材をスライドにしたものを画面に表示&直接書き込みで行う授業)

④ホワイトボード撮影型(ライブ授業をカメラで配信)

当たり前のことではありますが、いずれも一長一短です。

それぞれの手法で、明確にそれが向いている生徒さんと向かない生徒さんがいるのが印象的でした。

(この辺がハーマン分析に近い傾向が出ていたように感じたので、今後掘り下げようと思います)

 

ZOOM授業で少しだけ役に立つTips5

それぞれの授業形式における利点と欠点、可能性と改善点みたいなものをあげていくと、それこそ1万字ではきかないような分量になりそうなので、今回のメインはこちらです。

僕がZOOMで授業をした際に試してみた仕組みのうち、結構役に立ったなと思うものを7つほどまとめていこうと思います。

 

①オンラインルームへのチューターの配置

僕がオンライン授業を行う中で、これをしてよかったと思う一番の工夫が、この「オンラインルームへのチューターの配置」でした。

どうしてもオンライン授業だと様々な機材トラブルが発生します。

また、仮に機材は上手く動いても、急に電波が悪くなったりということも起こりました。

簡単なトラブルであれば、授業をしながら対応することもできるのですが、生徒さんが落ちてしまったり、画面が止まってしまったりした場合、どうしてもご家庭に電話して対応といったようなことをしなければいけません。

これを授業しながら行うのは中々に大変です。

そこで僕の授業では、僕と生徒に加えて、1人トラブル対応用のチューターを配置しました(音声も画像も切って気にならないようにしています)

こうすることで、何かトラブルが起きても、すぐにチューターさんが対応してくれるため、かなりスムーズに授業を進めることができました。

 

②サブ画面の配置

こちらもかなり役に立ったやり方です。

僕は授業をする際、配信用のパソコンに加え、生徒さんの表情確認用のサブモニターを置くことにしていました。

このやり方は特にオンライン自習と授 とホワイトボードを用いた授業の際に有効でした。

僕の場合、オンライン自習室では、基本的に子供たちはミュートにして自習(学年によってはこちらで課題設定)&質問があるときはブレイクアウトセッション(1:1で質問対応ができるシステム)に移動して対応という形を取っていたのですが、こうすると、どうしても質問対応中は他の生徒さんたちに目が行き届かなくなります(対象の生徒と1:1になっているため)

そこで、メインモニターと供にサブモニターを配置しました。

そうすることで、個別に質問対応中も他の子たちに目を向け、つまずいていないかなどを確認できるようにしていました。

また、ホワイトボードで授業をする際にもサブモニターは効果を発揮しました。メインモニターをホワイトボード用にすると、どうしてもパソコン画面が離れたところになってしまいます。

2,3人ならともかく大人数になると画面が離れていると上手く表情が読み取れません(この辺は目の悪い僕だけかもしれませんが...)

そこで、講義を配信するメインモニターに加え、手元に生徒の表情を確認するようのサブモニターを置きました。

こうすることで細かな表情を読み取ることができ、指名や発問の精度がぐっと上がったように思います。

 

ひとつひとつをこの長さで書いているととても終わらないので以下ざっとまとめていきます。

③大きめのストップウォッチ

意外と役に立ったのがこれでした。

特に小学生の指導などでは時間を区切った演出が重要です。

オンライン授業をしていて案外焦ったのが、ストップウォッチが見えづらいことでした。

普段教室で使うようなホワイトボードにくっついているストップウォッチをカメラで写しても、文字が小さすぎて読めません。

そこで、(上に挙げた)サブモニターに演習中は映せる文字の大きなストップウォッチを用意しました。

これが案外便利でした(笑)

 

④ペンとバインダーに挟んだ紙

こちらは特に自習や人数が多いときに役に立ったツールです。

演習中、みんなにミュートにしてもらっている時などに対面授業の感覚でいきなり声をかけたら、生徒さんを驚かせてしまいます。

また、どうしても画面を通してということで、普段の感覚で指示をすると聞きもらす子も出てきます。

そういった場面に対応しやすかったのが、バインダーに挟んだ紙とペンでした(テレビのディレクターさんが持っているカンペのイメージ)

ミュート中にちょっとした指示を出したかったり、こちらの言ったことを聞き逃したりした子に対応したりするときに有効でした。

 

⑤早く入室した子向けの扉絵

オンライン授業だと、お家から接続するため、場合によってはかなり早くから繋がる生徒さんが出てきました。

一方、講師の僕たちは、普段の準備に加え機材チェック等もしなければならないため、授業前は結構バタバタします。

とはいえ生徒さんが入室してくれたなら相手をしなければなりませんし、場合によっては保護者の方々との挨拶と会話をする場合もあります。

これが直前の時間では意外とバタバタする原因になることも。

こうした状況にならないために、僕は早く入室した子が解くことができるようなちょっとした科目に関連するクイズを扉絵として用意しておきました。

(僕の場合は少し難しい数字を使ったことわざや慣用句の数の部分を穴抜きして足し算にしたものなど)

その問題はそのまま授業の導入に使うものとして、早く入室した子は、調べたり早く入室した子同士で相談してもいいというパターンにしておきました。

こうすることで慣れないオンラインからくるそわそわ感を払拭するとともに授業の導入がスムーズになりました。

 

 

まだまだ、カメラの理想的な位置とか、光の度合いとか、カメラ越しならではの間の取り方やしゃべり方、他にもGoogle classroomをオンラインサロン的に利用してみて得られた学びなど、書きたいことは山ほどあるのですが、文字数が増えすぎてしまうので今回は僕が振り返って便利だったなと思った5つの小ネタについて紹介させていただきました。

 

 

アイキャッチはイアンレズリーの『子どもは40000回質問する』

子どもは40000回質問する  あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

 

 

 

学生になれない「大学生」〜学生と生徒の違いを考える〜

先日、行きつけの飲み屋さんで言語学の教授と飲んでいた時のこと、その教授が「最近は自分のことを生徒って考える学生だけでなく、職員にも学生のことを生徒と考えている人が多いんですよ」というお話をしてくれました。

生徒と学生。

学校教育法では、初等教育を受けている子供たちを「児童」、中等教育(中学・高校)を受けている人のことを「生徒」、高等教育(大学・大学院など)を「学生」と呼ぶことになっています。

一緒に飲んでいた教授は、もちろんこのことを踏まえて指摘していたと思うのですが、その会話のニュアンスにはそれ以上の意味が含まれているように感じました。

つまり今の大学生は学びに関して、もう少しいえば社会との関わり方に関して、そのスタンスが「学生的」ではなく「生徒的」であるということです。

僕の周り大学生さんは、比較的「学生的」な関わり方をする人が多いのですが、確かに「生徒的」な関わりの大学生とあるなあと思います。

そこで、僕の中で「生徒的」なスタンスとは何なのかを分解してみました。

 

学生になれない大学生に共通する3つの「生徒思考」

僕がこの人は学生というより生徒だなと感じる基準を掘り下げていったら、次の3つの思考にたどりつきました。

①消費者思考

②他責思考

③リセット思考

年齢に関わらず、この3つを抜け出せない人は、どこか学生ではなく生徒的に感じます。

 

①の消費者思考とは世の中の学びや面白いことは、全て周囲から「与えられる」と思っている思考です。

たいていの場合「楽しさ」や「やりがい」というものは、向こうが与えてくれると同時に、こちらの参加意識が必要になります。

勉強の楽しさも仕事の楽しさもそうです。

ライブや遊園地のようにそこにいれば盛り上がる「楽しさ」ではなく、自分が積極的に参加することによって感じる楽しさがある。

というか、社会に出たあとの楽しさなんてほとんどこちらです。

もちろん、高校生くらいまでなら消費者で十分でしょう。

しかし、大学生の学びになれば能動的に楽しむスキルは必須であるように思います。

この何でもかんでも「与えられる」消費者としての思考。

これが学生と生徒の1つ目の違いに思いました。

 

次に②について。

何か嫌なことがあったとき、全て社会のせい、相手のせいだと思い、自分の側にも問題があるのではないかと振り返らないのが他責思考です。

例えば、大学の授業がつまらない、分からない、単位を落とされたみたいなことをいう「生徒」がいたとして、それは実際のところ、教える教授の側に100%の責任があるのかといえば、そうとは限りません。

授業中に自ら理解しようという努力を怠っていた、スマホをいじっていた、友達としゃべっていた、あるいは授業をサボっていた。

こういう態度を取っていたとしたら、授業の難しさの責任が100%教授にあるのかといえばそんなわけがありません。

本来ならまず他者の非を責める前に、自分の非を見つめるべきです。

それをせずに全てを相手のせいだという前提で考えるのが他責思考。

これも、生徒から学生へのステップアップを阻害する大きな要因です。

 

最後のリセット思考について。

これは、何か物事が起こった時に、そこで終了と考える思考法です。

ちょうど、スーパーマリオを始めとするゲームや試験勉強みたいな感じ。

ゲームでは操作を誤って的に負けてしまえばそこで終わりですし、試験勉強ではテストで結果を残せなければそこで数値がついてしまいます。

中学生・高校生までの僕たちの周りには、「一度エラーが起きたら終わり」というシステムがあふれています。

だからついつい僕たちは「一度でもうまくいかなくなったらそこで終わり」というような考え方をしてしまいがち。

しかし、言わずもがな社会に出たあとの殆どの課題は、「一度失敗してからどう修復をするか?」や「成功と失敗の間の妥協点をいかに探るか?」ということが大事になってきます。

大学での研究もそうでしょう。

仮説を立て、調べて教授にレポートを提出して、こっぴどく論破され、「ダメ」を突きつけられた後でだめだった点に修正を加えるということを繰り返す。

そうやって少しずつ「正解」に近づけていく作業が必要です。

そんな環境に置かれているのに、一度でも駄目を突きつけられた瞬間にもういいやとなってしまえば、そこでの学びができるはずもありません。

これが僕の考えるリセット思考です。

 

学生になるということ

便宜上タイトルには大学生と書きましたが、これは何も大学生に限ったことではなく、社会人(極端な話50歳や60歳のオトナな人たち)でもたくさんこういった人が存在します。

逆に、中学生や高校生ですでにこの3つの思考を抜け出せている人もいます。

だから別にこうした3つの視点のままでは大人になれないなんてことを言いたいのではないですが、大学を楽しみたい、ひいては社会を楽しみたいと考えるのならば、この3つの思考は必須なんじゃないかなと思います。

自分に無意識に染み付いた①消費者思考②他責思考③リセット思考を自覚して、少しずつこの思考の癖を脱していく。

もし、大学生生活を有意義にするために「生徒」から「学生」になろうとするなら、その辺が大事なんじゃないかと思います。

 

アイキャッチはちきりんさんのこの本。

ひとことでいえばこういうこと(笑)

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

  • 作者:ちきりん
  • 発売日: 2011/10/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

サル化する人々と時間旅行という戦い方

Googleマップで時間旅行ができる

「このままGoogle Mapがデータを集め続ければ、Google Mapは時間旅行ができるようになる。」
僕が大学生のころに聞いた論の中で、もっとも感動したもののひとつがこのお話でした。

 

Googleマップで時間旅行ができる」なんて説明だけでは何のことか伝わらない気がするので、そのロジックをざっくりと説明します。

グーグルはストリートビューというサービスで今世界中の画像を3Dで持っている

→将来的にそれを用いてVR空間を作れば家にいながら世界中を旅行できるだろう

→ただし、グーグルが今から画像を集め続けていることの本当の強みはそこではない

→例えば何十年と世界中の画像を集め続けていれば、将来、「2015年のヴェネチア」とか「2035年のロシア」みたいに、場所だけでなく時代を指定してVRで世界を見ることが可能になる

→グーグルが早いうちから画像を収集し続けている本当の強みはここで、この時間資産だけは後追いでは集めることができないだろう。

 

なるほどなあと感じました。

 

「古都」は今から作れない

もう1つ、僕の中で印象に残っているエピソードがあります。

それは、元2ちゃんねる管理人の西村博之さんのことは今からは作れないというお話です。

 

例えばフランスのパリでは、イタリアのフィレンツェ、日本の京都などの地域は、何百年も前からの景観を保っています。

そして、その古くからの景観を求めて、世界中から観光客がやって来る。

仮に他の地域Aでこの「古都」という付加価値を作ろうとすれば、その構想が叶うのは何百年後になりますし、何より、その構想が叶って地域Aが古都としての評価を受けるようになったとしても、その頃にはパリやフィレンツェや京都は、「Aよりも何百年も古くからの景観を残した古都」となります。

古くからそこにあるということに紐付いた価値は、その古さの差分はどうやっても逆転できないわけです。

 

「時間差」という差別化戦略

僕は大学生のころ、ちょうど同時期にこの2つの話を聞き、長期的な目で見たときに、「時間差」という差別化戦略が、最も強い戦い方なのではないかと直感的に考えるようになりました。

Googleマップのようなサービスは他の企業もできるかもしれないですし、Googleマップよりも膨大で高画質な画像を集めることができる企業も出て来るかもしれませんが、それらの企業がGoogleマップが持っている画像よりも前の世界の画像を撮ることはできません。

パリやフィレンツェよりも大きな歴史価値が評価される都市が今後うまれるかもしれませんが、その都市は古さという点においてパリやフィレンツェを上回ることはできません。

戦術の中に「時間軸」をいれた瞬間に、絶対に逆転されない戦い方が生み出せるように思ったのです。

その戦略は、直近数年の結果を追い求める際にはまるで役に立たない。

でも、10年、20年というスパンで見たとき、その積み上げは絶対に逆転されない。

当時3回生とか4回生だった僕は20代で結果を出すことを捨て、30代40代で逆転されない時間差という価値を取りに行こうというようなことを漠然と考えていました。

 

サル化する人々と「脱サル」戦略

先日、内田樹さんの『サル化する世界』という本を読みました。

タイトルにある「サル」とは、人をバカにするための言葉ではなく、中国の故事成語「朝三暮四」からとってきた言葉だそう。

朝三暮四は宗という国にいたサル使いのお話です。

狙公という男は猿を可愛がり大切に育てていたのですが、生活が貧しく、食料を思うように得られません。

ある日、狙公は猿に「朝の食料はトチの実を3つ、夜は4つに減らさせてくれないか」という提案をしました。

すると猿は怒ります。

それを見て狙公は「それならば朝の食料はトチの実4つ、夜は3つでどうか」と提案したところ、猿はよろこんで喜びました。

朝三暮四をざっくりとまとめればこんなお話。

朝三暮四という言葉は、ここから目先の結果にとらわれ、結果が同じことに気がつかない様という意味で使われています。

内田先生はこのエピソードに出てくる「目先の利益にとらわれたサル」に現代人を例えて、我々は目先の利益ばかりを追うようになってはいないか?ということをしてきしていました(やっぱり皮肉には違いありませんね 笑)

 

言い方は内田先生らしく、非常にひねくれていますが、僕もこの指摘は本当にその通りだなあと思います。

今はとにかく夢や目標、KPIやマイルストーン、中期戦略という言葉に見られるように、「短期間の指標」に目が向きがちです。

僕は別にそれが悪いことだとは思わないのですが、いわゆる4半期の結果で判断される勝負、1〜2年の結果で勝とうとする勝負では、どうしても速さと量と強引さという部分で差別化するくらいしか方法がないように思うのです。

別にそれで戦い続けるのもいいかもしれないですが、1人くらいそのスピード感以外の戦い方をしてもいいような気がします。

 

そこで僕が思い出すのが先に挙げたGoogleマップや古都のお話です。

直近の結果には直接的な影響を与えないけれど、10年20年というスパンで見たときに、自分の武器になる道具を残すという思考。

内田先生の言葉になぞられるなら、「脱サラ」ならぬ「脱サル」が、長期的な視点で見たときに優位な戦略なんじゃないかと思うのです。

 

思考の時間旅行という武器

僕は漠然と10年後に使える武器を貯めようと思った大学3年生くらいから、ブログを始めました。

何年も後に振り返ったとき、当時の僕の思考にアクセスできたら、経験を積んだ何年後の自分には思い付かないようなアイデアが溜まった僕のネタ帳になるかなと思ったからです。

(余談ですが、ヒカキンさんも始めのYouTubeで似たような事を言っていた気がします)

あるいは、僕は自分の授業で、誰がどの問題をどう間違えたとか、音読でどこで引っかかったみたいな、絶対に他に記録が残っていないような瑣末な情報をずっ定量的に把握するようにしています。

こうしたデータの収集手法はデジタルやAIの強いところですが、「彼らが入る前」のデータは僕だけの価値だと思うからです。

 

話がややこしくなるのでブログに絞りますが、僕は広報の戦略や企画を寝る際、あるいは授業準備をする際に、自分のブログをよく見返します。

そうすると、8年分くらいの僕自身がしてきた思考が残っているわけです。

もちろんその大半は役に立たないものなのですが、中には「確かにそんな考え方もしていたな」と思うものに出会うこともあります。

こんな風にしてアイデアを作る際、僕は「8年分の自分の思考」を引き連れて戦えるわけです。

もちろんそんなことしなくても経験値は積まれていると反論されるかもしれませんし、それはその通りです。

しかし、その当時の本当に些細な興味や、ハマっていた熱量みたいなものは、当座ほどには覚えていないと思うのです。

そんな些細な武器の積み上げがまさに、何十年の蓄積の強みなのかなと思っています。

社会に出るとビジネスの文脈での思考が当たり前になり、どうしても殆どの人がこう言った何十年という視点は忘れがちになります。

だからこそこういった「どうでもいい記録」を残しておくだけで、結構強い武器になるようなきがしています。

この記事もまた、未来の僕への投資だったりするわけです。

 

アイキャッチ内田樹先生の『サル化する社会』

サル化する世界 (文春e-book)

サル化する世界 (文春e-book)