新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



DREAMS COME TRUE『未来予想図Ⅱ』考察〜3部作を比較して主人公の内面の変化を追いかける〜

 

突然ですが、みなさんは「部屋の扉を5回ノック」と聞いたとき、どんな「合図」が頭に浮かぶでしょうか?
おそらくほとんどの人の頭に浮かぶのは「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」なのではないでしょうか?
実は「部屋の扉を5回叩く」というのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる主人公が父親を殺す際に出てくる合図だったりします。
でもほとんどの人が思い浮かべるのは未来予想図Ⅱなはず。
今や「5回の合図」の代名詞とでも言うべき存在となったDREAMS COME TRUEさんの『未来予想図Ⅱ』ですが、実はこの曲は3部作となっています。
今回は、そんな「真ん中の作品」としての未来予想図Ⅱについて考察したいと思います。


「未来予想図」3部作と発表時期の妙

 

というわけで早速『未来予想図Ⅱ』の考察をしていきたいところなのですが、この曲に関しては、まず曲の制作と発表過程を頭に入れておく必要があります。
僕たちが1番馴染み深い「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」が登場するのは『未来予想図Ⅱ』。
実はこの曲には『未来予想図Ⅱ』よりも前を歌った『未来予想図』と、『未来予想図Ⅱ』のその後を歌った『アイシテルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜』という作品が存在します。
この曲を理解するには、この前後関係を知る事が不可欠なので、まずはそこから話を進めようと思います。

ⅠとⅡといわれれば、普通はⅠがヒットしたからⅡが発売されたと思うはずです。
しかしながら、ドリカムのこの『未来予想図Ⅱ』に関しては時系列が異なります。
まず『未来予想図Ⅱ』がヒットして、その前を描いた『未来予想図』がのちのアルバムに収録されるという形。
ちょうど、スターウォーズシリーズと同じ感じです(笑)
しかし、では『未来予想図Ⅱ』がヒットしたから商業上の理由で『未来予想図』が作られたかというと、そういうわけではありません。
この曲の作詞者である吉田美和さんは、歌手になるずっと前から歌を作り続けていました。
未来予想図ⅠとⅡはそんな、プロになる前に作っていた作品。
その中でⅡの方が周囲の目に止まり、そちらを世に出したというのが大きな流れでしょう。
だから、発売日は『未来予想図Ⅱ』が先になっていますが、先に作られたのは『未来予想図』ということになります。

他方、『アイシテルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜』は、2007年。
この曲は映画ともに一役名が知られました。
『未来予想図Ⅱ』の発表が1989年、『未来予想図』でさえ、1991年に生まれた歌。
作られたのはかなり後で、それも映画のタイアップとして作成された曲。
だから、それぞれの曲に出てくる「サイン」はこの時系列を押さえて受け止める必要があります。
その辺を踏まえつつ、考察をしていこうと思います。


『未来予想図Ⅱ』歌詞考察

 

〈卒業してからもう3度目の春 あいかわらずそばにある 同じ笑顔〉
この部分は「何を」卒業したのかでイメージが変わってきますが、恐らくここでは「高校を卒業」と考えるのが妥当でしょう。
なんのインタビューだったか忘れましたが、金環日食を題材に歌った『時間旅行』という曲に関するインタビューの際に、吉田美和さんは「自分の経験から出てきた物しか歌詞にできない」と言っていました。
この曲は吉田美和さんがデビュー前、高校在学中に書かれたもの。
そう考えれば、高校を卒業した3年後と考えるのが妥当でしょう。
「あいかわらずそばにある 同じ笑顔」とは、『未来予想図』の1番 Bメロに出てくる、〈時々心に描く未来予想図には小さな目を細めてるあなたがいる〉を踏まえたもののはず。
『未来予想図』で主人公は今の恋人が笑顔で自分を見てくれている未来を思い描いています。
そんな「あの頃」に思っていた通りの「笑顔」が側にあることからこの歌は始まります。


〈あの頃バイクで 飛ばした家までの道 今はルーフからの星を 見ながら走ってる〉
続く繰り返したAメロではこう語られます。
「あの頃」のバイクは『未来予想図』の2番にに出てくる描写。
〈夏はバイクで2人街の風を揺らした〉とあります。
この時はバイクだった2人の移動手段が、『未来予想図Ⅱ』では「ルーフからの星を」という表現から車に変わったことが伝わります。
『未来予想図』では、「2人で街の風を揺らした」とあることから、2人でそれぞれのバイクに乗ってツーリングしている姿が伺えます。
それが『未来予想図Ⅱ』では、主人公は車のルーフから星を見ている。
この場面を頭に思い描くと、恋人が運転する車の中で、上を見上げている主人公が浮かびます。
ルーフ越しに見える星を見ながら助手席に座っている関係を浮かべれば、『未来予想図』の時よりも親密度が増していることが分かります。
そしてBメロへ。

〈私を降ろした後 角をまがるまで見送ると いつもブレーキランプ5回点滅 ア・イ・シ・テ・ルのサイン〉
Bメロでこの曲の代名詞とでも言える「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」が出てきます。
車を降りた主人公が目にする5回の合図は「ブレーキランプ」
『未来予想図』では、このサインが「ヘルメットを5回ぶつけること」でした。
ヘルメットをぶつけることに比べると、実際にブレーキランプを5回点滅させる時間を考えれば少しリアリティに欠けるようにも受け止めることができますが、それはあえて高校時代の吉田美和さんが考えた『未来予想図』のカップルのその後を想像して描いたと思えばご愛嬌。
むしろ、そのことがこの曲の青春感を引き出しているようにも思えます。

〈きっと何年たっても こうしてかわらぬ気持ちで 過ごしてゆけるのね あなたとだから ずっと心に描く 未来予想図は ほらおもったとおりに かなえられてく〉
「何年経ってもこうして変わらぬ気持ちで過ごしてゆけるのね」というのは、『未来予想図』の時点から三年が経過した『未来予想図Ⅱ』の時間軸でも、全く変わらない関係性を保てている(=同じ「5回のサイン」が2人の変わらぬ関係を示している)ことから、これからもずっと一緒であることを確信させます。
そして、そんなずっと一緒にいるという「未来予想図」が描かれているのが、『未来予想図』の方。
『未来予想図』の歌詞の中では、1番のBメロで〈時々心に描く未来予想図にはちっちゃな目を細めてるあなたがいる〉、2番のBメロでは〈あなたの手を握りしめてる私がいる〉という「未来予想図」が描かれています。
これは優しく主人公を見守る恋人とそんな主人公の手を強く握る、すなわちいつまでもずっと一緒にいる恋人ということでしょう。
そんな未来を思い描いた『未来予想図』から三年経った『未来予想図Ⅱ』の世界では、本当に思った通りの未来になっていた。
そしてだからこそこれからも変わらぬ関係であることを思い描くわけです。
ここまでが1番。

2番では過去を振り返るシーンが続きます。
その振り返る先はもちろん『未来予想図』に描かれる3年前の物語。
〈ときどき2人で開いてみるアルバム まだやんちゃな写真達に 笑いながら〉
『未来予想図』と照らし合わせるのなら、付き合い始めたばかりの2人をアルバムを見て思い返しているのでしょう、
「やんちゃな2人」を「笑う」様子から、2人が地に足ついて大人になったことを連想させます。

2番のAメロの繰り返しですが、ここは歌詞にのっとって、やや変則的なブロックで解釈しなければ意味が通りません。
〈どれくらい同じ時間 2人でいたかしら こんなふうにさりげなく 過ぎてく毎日も〉
ここの部分は〈過ぎてく毎日も〉の部分をAメロ内で完結させることは不可能です。
これはBメロの末尾にある〈素直に愛してる〉の部分にかかっているのです。
Bメロに描かれるのは〈2人でバイクのメット 5回ぶつけてたあの合図 サイン変わった今も同じ気持ちで 素直に 愛してる〉というもの。
この二つを合わせれば、「出会ってからずっと時間は経って、毎日が当たり前になったけど、気持ちはバイクに乗って5回のサインをしていた頃と変わらないよ」という事が描かれています。

2番のサビは〈きっと何年たっても こうしてかわらぬ思いを 持っていられるのも あなたとだから ずっと心に描く 未来予想図は ほら 思ったとおりに かなえられてく ほら 思ったとおりに かなえられてく⋯〉
2番のサビは1番と近いものですが、〈変わらぬ気持ちで過ごして行けるのね〉だった部分が〈変わらぬ思いを持っていられるのも〉と変わります。
言葉で見れば僅かな違いですが、続く〈あなたとだから〉と合わせて意味を考えると、主人公の中で非常に大きな変化があったことに気づきます。
1番では、「変わらずいられて楽しいね」という主人公から恋人への単なる呼びかけに過ぎないのですが、2番になると「あなたのおかげでずっと変わらずにいられるんだ」という感謝に変わります。
この僅かな違いのおかげで、聞く人は主人公の大きな気持ちの変化に気づくことができる。
『未来予想図』で描かれた高校時代のカップルが3年の時を得て「変わらぬ関係性を確信」し、それは「パートナーのおかげである」と考えた主人公たちが次に結ぶ関係性はなんでしょう。
それはもちろん「結婚」しかありませんよね。
2番のサビ、というかこの『未来予想図Ⅱ』では、主人公が目の前のパートナーとの結婚を確信する瞬間が描かれているわけです。

 

『ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図』に出てくるその後のアンサー

 

冒頭でも触れましたが、この曲には『未来予想図』『未来予想図Ⅱ』の発表から10年以上経って書かれた『未来予想図3』とでもいうべき曲が存在します。
二作品が発表されてかなり時間が経って作られたこの曲には、Ⅱまでに描かれた2人のその後の「答え合わせ」が描かれます。

 

〈ちゃんとあなたに 伝わってるかな?〉
こう始まる『ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図』はこれまでのⅠ,Ⅱとは少しだけテイストが違うようにも感じられます。
Ⅰでは〈しっかりつかまえてて〉とどこか相手頼みだった主人公が、Ⅱでは〈もしかしたらこの幸せはあなたのおかげかも〉と気づきます。
そんな、どこか自分本意な感じも漂うこのシリーズの主人公が、Ⅲでは「ちゃんと伝わってるかな?」と、徹底的に相手を想うスタンスに変わるのです。
これは主人公が成長したととることもできますが、僕はこの部分に関しては、吉田美和さんのプライベートが少なからず反映されているように思います。
この曲が発売された年、吉田美和さんの夫は胚細胞腫瘍で亡くなっています。
この曲が収録されたアルバムが発売される直前に夫が亡くなっているのですが、病気からしてもこの曲が作られた頃には、吉田美和さんは病状を知っていたのではないかと思います。
そんな大切な人の「死」が常に頭にあったこらこそ、「自分はあなたに気持ちを伝えられていた?」という問いかけの曲になっているようにも思えます。
そして〈ねぇ あなたとだから ここまで来れたの
ねぇ あなたとだから 未来を思えたの 〉と続くAメロ。
当時、夫の死の後にこの曲を生放送で歌い、最後に涙を堪えきれなくなった吉田美和さんを未だに覚えています。
あの涙はこの歌詞にプライベートの想いが重なっているからであるように想うのです。


〈どんな明日が待っているかは 誰にも分からない毎日を あたりまえのように そばにいて いろんな"今日"を 過ごして来たの だから〉
こうBメロで語り、サビで自分の気持ちを伝えられていたかを確認します。
1番に出てくるのは「ヘルメットを5回ぶつける仕草」と「5回点滅するブレーキランプ」。
こうした過去の合図を振り返りながら、サビの最後では「愛してるって伝わってるかな?」と確認します。
〈ふたりの"今"が"昨日"に変わる前に〉というのは、一瞬一瞬、その場で気持ちを伝えることの大切さを言っているように聞こえます。

 


著作権と文字数の関係で割愛しますが、2番のAメロBメロでも、恋人との思い出を振り返ります。
思い出す思い出は日常の何気ないやりとり。
そんな数々の日常に感謝をして入るのが2番のサビ。
1番同様に〈ちゃんとあなたに伝わってるかな?〉
こう始まり、出てくるのは再び2人の「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」です。
〈花火振り回しながら ハートを5つ書いたり〉
今まで通り5回動作を繰り返すのですが、前二作とは決定的に異なる所があります。
それが、この合図は主人公自らが行なっているものであるというところ。
それまではどこか恋人発信のところがあるような挨拶でした。
それがこの曲では主人公自らが発信をしています。
ここからは、未来予想図Ⅰ,Ⅱと通して主人公が成長した、より恋人を好きになっている様子が伺えます。


そしてCメロでは次のように歌われます。
〈ねぇ わたしたちの未来予想図は まだどこかへたどりつく途中 一緒にいるこんな毎日が 積み重なって描かれるのだから〉
未来予想図Ⅰ,Ⅱではそこに出てくる「未来予想図」はあくまで主人公が思い描いたものでした。
「時々心に描く未来予想図」「心に描くと未来予想図はほら思った通りにかなえられていく」
どちらもあくまで自分視点です。
それがこの曲では「私たちの未来予想図」となる。
そして、「思った通り」ではなく、「まだどこかへ続く途中」と変わります。
恐らくこの言い方から、2人は婚約ないし結婚はしているのでしょう。
そして、主人公は大きく成長して、相手のことを思い、「私の夢」を「私たちの夢」に変えている。
これは前2作から大きく時間が経つ(かつ、吉田美和さんのこの時の置かれた状態がある)からこそだと思うんです。


そして最後の大サビで出てくる新たな「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」は〈おでこ5回ぶつけたり 何度もキスをしたり〉とやはり主人公発信のもの。
その証拠に〈ア・イ・シ・テ・ルって 伝えられてるかな?〉と、「伝わってる」が「伝えられている」と確固たる意思が込められた形に変化しています。
そして〈ふたりの"今"が 明日に変わる時も 新しいサインが 増える時にも〉と、未来を想うことで歌が終わる。


以上が未来予想図3部作です。
もちろんそれぞれに書き方があると思いますし、それぞれ単体で聞いても名曲なのは間違いありません。
その上で今回は3作の関連性と、そうした中での『未来予想図Ⅱ』という曲の立ち位置と歌詞の意味を考えてみました。
皆さんもよかったら3曲を聴き比べてみて下さい。


アイキャッチはドリカムの『未来予想図Ⅱ』

 

 

 

山口百恵『プレイバックpart2』考察〜和歌の技法を使った歌詞の意図を読み解く〜

山口百恵さんといえば『いい日旅立ち』『秋桜』をはじめ、言わずと知れたアイドル。

『少女A』『DESIRE』『飾りじゃないのよ涙は』などのヒット曲を持つ中森明菜さんと並び時代を超えて知られる存在だと思います。

全く世代ではないのですが、お二人の名前と代表曲は僕でも知っています。

そんな山口百恵さんの曲の中でも個人的に興味があるのが『プレイバックpart2』です。

詳しくは後述しますが、この曲に仕込まれた技巧がとてつもないなと思うのです。

単純に歌詞を追うだけでも深掘りするところはありますが、その上この曲は和歌の伝統的な技法である「本歌取り」を用いている。

この辺を踏まえると受け止め方がまるで変わるこの曲。

今回はその辺りを中心に考察していきます。

 

ポルシェの女性はなぜ怒っているのか?

 

〈緑の中を走り抜けてく真紅(まっかな)ポルシェ ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの〉

こう始まる1番のAメロでは、情熱の「赤」をモチーフにしたポルシェを自由に乗り回す女性から描かれます。

あえて相対する「緑の中」を「赤のポルシェ」で駆け抜ける(=相対する関係に近い色をぶつける)という表現から、女性の刹那的な怒りが伺えます。

この物語の始まりは「何か嫌なことがあって飛び出した少女の話」ということです。

 

 Bメロではちょっとしたいざこざに巻き込まれる主人公。

〈交差点では隣りの車がミラーこすったと怒鳴っているから私もついつい大声になる〉

噛みつき返した説明をした直後にくるのは主人公の威勢です。

「ミラーこすった」と怒鳴られる訳なので、おそらく擦ったのは主人公の女性の方なのでしょう。

それに対して謝るのではなくケンカ腰の態度。

この部分から怒っていることが分かります。

そしてここからサビに。


〈馬鹿にしないでよ そっちのせいよ ちょっと待って Play back,Play back 今の言葉 Play back,Play back 馬鹿にしないでよ そっちのせいよ〉

「馬鹿にしないでよ」というのは女性が噛み付いた台詞でしょう。

今の言葉を取り消せというのが「Play back」

この曲が面白いのはここからです。

「Play back」と言ったのは目の前の口論相手かと思うと〈これは昨夜の私のセリフ〉と続きます。

〈Play back〉で間が空いた後、文字通りサビが繰り返されます。

そして戻ったところに出てくるのは口論相手の言葉ではなく昨日の話。

ここで急に回想に入ります。

〈気分次第で抱くだけ抱いて 女はいつも待ってるなんて 坊や、いったい何を教わって来たの 私だって、私だって、疲れるわ〉

この歌詞から前日の夜に恋人とケンカしたことが分かります。

そして、赤いポルシェで飛び出してイライラしていたという1番までの理由が明らかになる訳です。

イライラの理由と車に乗っていた理由が全て明らかになって歌は2番に続きます。

 

和歌の「本歌取り」を利用した技巧的な曲展開

 

2番のA Bメロは車で走るシーンが描かれるだけなので、著作権の都合上省略します。

 Bメロでラジオのボリュームを上げて聞こえる心地よい歌が次のサビにやってきます。

 

この曲の凄さは2番のサビ。

〈勝手にしゃがれ 出ていくんだろ ちょっと待って Play back,Play back 今の歌をPlay back,Play back〉

直接は書かれていませんが、これはラジオから流れてきた曲が沢田研二さんの『勝手にしやがれ』であったことを示しています。

『プレイバックpart2』ではこのような形で沢田研二さんの『勝手にしやがれ』の一部が引用されます。

これは和歌でいう「本歌取り」という技法で、先人が詠んだ有名な和歌の一節を引用することで、自分の歌の中に引用先の歌の物語を読み込むという技法。

 

例えば百人一首にある「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣打つなり」という歌は古今集の「み吉野の 山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり」という歌にある〈み吉野の〉〈ふるさと寒く〉という言葉を引用することで、秋の寒さを歌ったこの歌の先に冬の景色を思い出させるように作られています。

こんな風に昔の和歌の一部を引用して、その歌と関連づけると更に深い解釈になるのが本歌取り

『プレイバックpart2』ではまさにこの技法が使われていることがわかります。

 

沢田研二さんの『勝手にしやがれ』は〈壁ぎわに寝がえりうって 背中できいている やっぱりお前は 出て行くんだな〉と始まり、恋人と喧嘩した後、寝たふりをして家を飛び出ていく女性の音を聞いている事が描かれます。

しかも2番のAメロでは〈バーボンのボトルを抱いて 夜ふけの窓に立つ お前がふらふら行くのが見える〉と「夜」に女性が家を出るシーンも描かれます。

彼女が『プレイバックpart2』の主人公というからくりです。

この歌を踏まえる事で、この曲に描かれる場面が初めて理解できるようになっている訳です。

 

そして「Play back」のセリフの後、戻るのは昨夜の場面。

1番同様、「Play back」のセリフ通り少し間が空いたあと再び始まるサビでは〈勝手にしゃがれ 出ていくんだろ これは昨夜のあなたのセリフ〉と昨日の夜にもどります。

そして直後に〈強がりばかり言ってたけれど 本当はとても淋しがり屋よ〉と心情が描かれる。

ここも『プレイバックpart2』だけを聞くと、実は寂しいと言っている女性しか見えませんが、『勝手にしやがれ』の〈せめて少しはカッコつけさせてくれ 寝たふりしてる間に〉というサビの歌詞と合わせて読むと、お互いに強がっている事がわかります。

つまりこのカップルはケンカでついつい強がったのだけど、本心では相手を好いている。

本歌取りを踏まえる事で、この歌の解釈はこんな風に深まります。

そして最後は〈あなたのもとへPlay back,Play back あなたのもとへPlay back〉と言ってこの歌は終わります。

 

以上がこの曲の構成。

曲そのものも色々な仕掛けがされていて面白いのと、本歌取りという技法が使われている点でも興味深かったので、この曲を取り上げてみました。

よかったらみなさんも『勝手にしやがれ』と合わせて聞き比べてみて下さい。

 

 

 

 

E-girls『Pain, pain』考察〜言葉遊びの裏に隠れた「Pain pain,don't go away」の真意を探る〜

「濁り」が消えて出てきた本音の「信じたい」と、「濁り」に溺れて見えてきた「キズ」の対比

 

お盆休みに久しぶりにインプットをしようといろいろな曲を聴き漁っていたとき、偶然Adoさんの『新時代』に出会いました。
映画『ONEPIECE FILM RED』の表題曲で、Adoさん自体もメインキャラクターのウタとして映画に登場します。
そんな『新時代』の歌詞には「新時代はこの未来だ」と「信じたいわこの未来を」という「新時代」の“にごり”が取れると「信じたい」という言葉になることと、それが本音になっているという構成が気になったのですが、それと同時に思い出したのがE-girlsさんの『Pain, pain』でした。
「キス」に痛みがふたつ重なると「キズ」になるという言葉遊びで、『新時代』とは真反対のアプローチをとっています。
この曲を始めて聞いたとき、当時これは考察しがいがありそうだなと思ったのですが結局放置していたことを思い出し、久しぶりに当時のメモを取り出してきました。
で、これはエントリにしておきたいなと思ったため、今回はE-girlsさんの『Pain, pain』を考察していきたいと思います。
(Adoさんの『新時代』も近いうちに…)

 

『Pain, pain』歌詞考察


〈このキスに二滴 雫を垂らせば またキズになるわ それでも好きです〉
『Pain, pain』はこんな意味深なAメロから始まります。
この曲はこのワンフレーズで、主人公の置かれた境遇を説明しきってしまいます。
「キス」に二滴(ふたつ)雫を垂らすというのは涙か痛みかはわかりませんが、「キス」に濁音をつけると「キズ」になるということを表します。
「キス」という快楽が、相手の仕打ちで“濁ら”されてすぐに「キズ」になってしまう。
しかもそれは「また」の出来事。
主人公が頻繁に「キズ」を負っていることがわかります。
主人公は快楽もくれる替わりにたくさん傷つけてくるような相手のことを好きになっている。
おまけにその相手との関係から、本人は抜け出せなくなっている。
たった30字足らずでそんな主人公を説明しきってしまうのはすごいなと。


〈「バカだね」って他人は 呆れて言うけど 月より妖しい あなたが好きです〉
こんな主人公の関係は周囲の人にも止められるようなもの。
それにもかかわらず主人公はその相手への依存が抜けられません。
そして三度目のAメロでは転調してこう続きます〈優しさと痛み おんなじ心で 感じながらみんな生きてるでしょ?〉
主人公の言い分は「優しさと痛みは表裏いったいなんじゃないの?」というもの。
主人公がたとえ自分が傷ついていることはわかっても今の相手に依存する理由はBメロで明らかになります。

 


〈哀しみは我慢できる ただ孤独は嫌なの 愛されたい〉
Bメロでは「孤独」よりも「哀しみ」のほうがマシと述べられます。
ここでの「哀しみ」は冒頭に出てきた「キズ」のことでしょう。
主人公はこの相手に何度もキズをつけられる=哀しい思いをさせられているようです。
それでもこの相手を離れたくない。
なぜなら離れてしまえば一人ぼっち(=孤独)になってしまうから。
おそらくAメロで「バカだね」といった人たちは確かに親しい人たちなのでしょう。
でも、主人公の孤独を癒してくれるほどの存在ではない。
そんな主人公の孤独を唯一打ち消すことができるのがこの歌に出てくる相手であると。
それがたとえ自分を傷つける存在であっても…


そんな思いがわかるのがサビの部分です。
〈禁断の花園で 咲いてしまった私 実りはしない 恋だって構わない〉
自らの恋心を主人公は「禁断の花園」と表現することからも、自分の恋愛が過ちであることは理解しているようです。
でも、その上でその恋愛を手放せない。
咲いた花になぞらえて「実りはしない」と言っているのは主人公が幸せにならないことの暗示でしょう。
しかしそんな恋であることは十二分にわかっている。
主人公にとっての何よりの痛み(=キズ)はこのことなのではないでしょうか。
そう考えるとこの〈行方を阻むのが棘でも 唱えるわ「Pain pain, don't go away」〉というサビの最後のフレーズはいっそう悲しい印象を帯びます。
「自分の進む道が棘でもいい」、その上で願いたい〈=望みを捨てたくない〉といって出てくる言葉は「Pain pain, don't go away」。
このフレーズはおそらく英語版の「痛いの痛いの飛んでけ(Pain, pain, go away.)」のオマージュでしょう。
直訳すれば「痛みよ消えないで」。
先に「優しさと痛みは表裏一体」と主人公は述べましたが、この言い方にもそのニュアンスがこめられているのでしょう。
痛みと一緒に優しさが去って孤独になってしまうくらいなら、いっそ痛みとともに受け入れたい。
そんな主人公の、ゆがんでいる反面ピュアな姿が描かれます。


もうひとつ、「痛いの痛いの飛んでけ(Pain, pain, go away.)」に対する「Pain pain, don't go away」で僕が感じたのは純真さと穢れの対比です。
まだ幼かった頃、キズをつけるたびにお母さんがかけてくれたおまじないの「痛いの痛いの飛んでけ」。
それをあえて反転させ「痛いの痛いの消えないで」とすることで、汚れを知って大人になったことと無償の愛で守ってくれる存在の不在を強調します。
あえて「痛いの痛いの消えないで」と唱えることで、どうしようもなく寄る辺のない主人公の孤独への恐怖が描かれるわけです。


この答えあわせがなされるのが2番です。
2番のAメロでは〈「ボタンの掛け違い」=運命のズレ〉とともに、〈「痛いの痛いの 飛んでけ」ってママが 幼い頃いつも 抱いてくれた〉という前のサビの内容の確認が現れます。
そしてそんな幼い頃の記憶を思い返すうちに主人公は大人になってしまった。
そして大人になるにつれ、「痛いの痛いの飛んでけ」のおもじないを信じていた純真な自分は見えなくなってしまった。
その結果が2番のBメロのこの歌詞。
〈いつからでしょう 幸せと不幸せ 境界線がああ 歪んでしまったのは…〉


〈禁断の花園に 迷い込んだ私は 叶いはしない 夢だけを見ている〉
2番のサビは1番と多少異なってはいますが、いいたいことは同じでしょう。
したがってここの解釈は割愛します。
そして2番のサビの後半で〈あなたに逢うたびに泣いたって 平気なの「Pain pain, don't go....」と続きます。
ここで注目したいのは一番では自分で棘の道を選んだと言っていた部分が「泣いたって平気」という言い方に変わっている部分です。
1番まではどんなつらさにも向き合うという自分の意思の強さを口にしたのに対し、2番では相手の振る舞いに「泣いた」ということを吐露しています。
その上で先では「Pain pain, don't go away」と最後まで言い切っていたのが「Pain pain, don't go…」と最後まで言い切れなくなっています。
ここには繰り返し傷つく中で主人公が心のそこでかすかに感じている「あきらめ」が表れているようです。
痛みに耐えると覚悟しつつどこか限界を感じる主人公。
そんな思いを胸に歌は佳境へと向かいます。


続くCメロで主人公はアンサーを出します。
それは〈傷ついてもいい〉というもの。
どんなに傷つけられても、〈あなたの唇が〉傷に〈触れるのなら〉私はあなたを選ぶというもの。
〈蝶が舞うように 笑顔が飛び交う そんな場所探していないわ〉というのは、自分が主人公だとは思わない=幸せになれなくてもいいということでしょうか。
さらに蝶でないことはわかっている=しょせん蛾のような存在という読みもできなくはありません。
そう考えたら、注目をあつめる光の中心にいる憧れのある一方で、自分を傷つけるようなやつでもその「光」に寄らずにはいられないという主人公という構図も見えてきます。
そして最後に一番と同じサビ。


曲構成から見る両面性と本音

 


以上が僕が思うE-girlsさんの『Pain, pain』に対して僕が歌詞から受け取った印象です。
この曲は歌詞と同時に曲の展開でも、A, Bメロに不穏な(マイナーな)音階を置き、サビではいきなりポップなメロディになると言う構造をとっています。
僕にはこの曲展開そのものが、つらい日常(A,Bメロ)と楽しい瞬間(サビ)の構造になっていて、一瞬の悦楽のためにつらい仕打ちは耐えられてしまうという主人公を表しているようにも感じました。
その上で歌詞を踏まえると無理して楽しんでいる主人公の姿がいっそう思い描かれるみたいな。


いずれにせよ、面白い曲だと思います。
よかったら皆さんも聞いてみてください。

 

 

 

SEKAI NO OWARI『Habit』考察〜誰よりも優しい若者に対するFUKASEさんのエールを受け取る〜

少し前にSNSで大きく流行っていたSEKAI NO OWARIの『Habit』
実は今回歌詞考察をするにあたって始めて作曲者のインタビューを事前に読みました。
というのは、初見で僕が受けた印象が、SNSでの評価とあまりにかけ離れていたからです。
僕がこの曲を聴いてはじめに受けた印象は「若者への応援ソング」、しかもどこまでも直球で愛に満ちたものという印象でした。
調べてみると、楽曲依頼時に「今を生きる若者たちへの優しさを込めてほしい」と書いてあったので一安心。
っというわけで、今回はSEKAI NO OWARIの『Habit』に込められた「優しさ」について考察していこうと思います。


おしゃかしゃま』的な作りと考察の手順


さて、いつも通り歌詞考察をしていこうと思うのですが、今回は少しだけ普段と違う構成で行っていこうと思います。
というのも、この曲が「詞先」で作られている様に感じるからです。
曲の作り方にはまずメロディがありそこに歌詞をるパターン(back numberやBUMPはこれ?) 、詩を作った上でメロディを考えるパターン(多分コブクロ槇原敬之さんの一部楽曲、初期の鬼束ちひろさんなど)、詞とメロディが同時に生まれるパターン(初期のドリカムの吉田美和さんやラルクの「NEO UNIVERSE」など)があります。
この曲を聞いたとき、僕は明らかに詞先だろうなと感じました。
伝えたい言葉を書き並べた上でメロディをつけた。


そう思ったのはこの曲がRADWIMPSの『おしゃかしゃま』をオマージュしたように作られているからです。
あの曲はまず野田洋次郎さんが言いたいことを並べ、言葉を削り、そしてメロディをつけたということをどこかのインタビューで言っていました。
そうしてできた『おしゃかしゃま』のメッセージは、「年上が作ったわけわかんねえルールや規則なんてごめんだ」というもの。
詳しくは次節以降で解説しますが、この曲は若者に「もっと本能のままに一歩を踏み出そう」というもの。
ちょうど衝動で年上の作った固定観念に噛み付くような『おしゃかしゃま』とは対になるメッセージです。
だからこそSEKAI NO OWARIの人たちは"あえて"RADWIMPSをオマージュしたのかななんて思っています。
(ギターやベースを弾いてみるとメロディがオマージュになっているので、恐らく意図的にやっているのだと思います)


ちょっと脱線しましたが、そういうわけでこの曲は詞先だと思っています。
そして詞先の曲によくあるのは必ずしも小節や Aメロ、Bメロの区切りが意味の区切りと対応しないということ。
歌詞が先行しているので、今回はあくまで歌詞の内容優位で内容を追っていこうと思います。


分類したがる若者


〈君たちったら何でもかんでも 分類、区別、ジャンル分けしたがる〉
いきなり挑戦的なフレーズではじまります。
世界をやたらと二元論で見たがるというメッセージの後には、〈持ってるヤツとモテないヤツ〉〈ちゃんとヤルやつとヤッてないヤツ〉〈隠キャ陽キャ〉と具体例が続きます。
分類しないと落ち着かない若者の現状を述べるのが一つ目。


割り切れない感情と向き合ってみないか?


一つ目のブロックで「何でもはっきりさせて理解したがる」ということを指摘した後、次のパートでは「人間の感情はそんなに割り切れるものじゃないよ」という“説教”パートに移ります。
〈気付かない本能の外側を 覗いていかない? 気分が乗らない?〉
そういわれて出てくるのがそんなに簡単に二分できない、“曖昧で 繊細で 不明瞭なナニカ”たち。
〈持ってるのに出せないヤツ〉〈やってるのにイケないヤツ〉〈持ってるのに悟ったふりしてスカしてるうちに不安になっちゃったりするヤツ〉
3つ目はたとえば、能力があるのに努力なんて無意味と言っているうちに周りが実力をつけてきて自分が不安になるとかでしょうか。
「見下した態度をとっていたのに不安になるなんておかしい」というのが二分法。
ここではそんな間逆の心情が浮かんでしまうのが人間だよねと歌われています。
ただ、「単純に割り切れない例」としてこれらが挙がりますが、最後の〈所詮アンタはギフテッド アタシは普通の主婦です〉という部分だけは少し色合いが違います。
ここでは割り切れない気持ちの例ではなく割り切った例が出てきます。
しかも割り切った上で言い訳に用いている。


ここまでを見ると、まるで若者に対して「本来簡単に割り切れるわけでもないものを割り切ったように見せて、自分が動かない言い訳にしていない?」という指摘をしてるように感じます。


「本能で動け」というメッセージ


〈夢を持てなんて言ってない そんな無責任にはなりはしない そんなHabit捨てる度 見えてくる君の価値〉
このパートからまた色合いが変わります。
〈俺たちだって動物〉というフレーズで、いきなりいままでとは違う描写が入ってきます。
〈ここまで言われたらどう? 普通 腹の底からふつふつと〉というのは先までのパートに出てきた若者に対する指摘のこと。
これは指摘というか、世の中を二分して分かった気になって言い訳しているだけでしょ?という挑発にも取れるここまでのパートを受けてのことでしょう。
Fukaseさんはここまで大人の俺にすき放題言われたら腹立たないか?と問いかけます。
そして〈故に持ち得るOrigineな習性〉と、その反応が自然なんだと語りかけます。
その上で〈壊して見せろよ そのBad Habit〉と続いたのちにメインのパートに。


露悪的にふるまう不可解なサビ


SNSではこの部分が主に流行っているので、曲自体を知らなくてもこの部分を聞いたことがある人は多いかもしれません。
メロディが印象的なので耳に残りやすいですが、歌詞をみると非常にトリッキーです。
〈大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど 説教するってぶっちゃけ快楽〉
サビの部分はこう始まります。
「説教はしている俺らが気持ちいい」という非常に露悪的な文言から始まるこのパートですが、内容としたら①説教はしてる俺らが気持ちいいということと〈そもそもそれって君次第だし その後なんか俺興味ないわけ〉という②お前らなんか知ったこっちゃないという突き放す2つのパートからできています。
これだけ聞くとただ露悪的に振る舞った大人、若者に悪口をいうだけの大人という印象を受けますが、この意図を汲み取るには、それまでの内容を踏まえる必要があります。


ここまでの歌詞で、FUKASEさんは「何でも二分したがる若者」そして「それを言い訳に使う若者」を批判します。
「何でも二分したがる」「言い訳を考える」というのを抽象化すれば、「理性」ということができるでしょう。
それに対応して出てくるのが「気づかない本性」「俺たちだって動物」「Origeneな習性」と言った言葉。
理性に対応させるため、ここは「本能」という言葉で抽象化します。


この曲は「理性」であれこれ考えて動けないでいる若者に対して「本能」で行動してみなさいと提案しているわけです。
そう考えた上でこの曲のサビを振り返ってみると。
「説教って超楽しい」「お前らなんてどうでもいい」というのは非常に強い挑発であると言えます。
そして、そんな挑発をなぜするのか?
その答えは、"怒り"という若者の「本能」に訴えかけ、行動へと駆り立てようとするからでしょう。
一見すると「大人の腹の中はこうだよ」という歪んだ真実の告白は、実はあえて露悪的に振る舞うことで若者の本能に訴えかけようという熱いメッセージなわけです。
この解釈の上で続きを見ていきます。


自分の「弱さ」を伝えることで若者を応援する


〈この先君はどうしたい? ってヒトに問われる事自体 終わりじゃないと信じたいけど そーじゃなきゃかなり非常事態〉
ここからのパートは、「実は構ってもらえるうちが花だよ」というFUKASEさんのさりげないアドバイスから始まります。
そして、〈君たちがその分類された 普通の箱で燻ってるからさ 俺は人生イージーモード〉と、お前たちが動かないから俺は余裕で勝ち続けられると再び挑発を。


ここから自分の過去の吐露に入ります。
〈俺はそもそもスペックが低い だから足掻いて豌いて醜く吠えた 俺のあの頃を分類したら 誰の目から見ても明らか〉
ここでかつての自分のダメな部分を伝え、さらには今の若者の二分で言えば自分は「君たちが負け組と分類して諦めている」弱者の側であると語ります。
そしてそこから死に物狂いで行動して這い上がったと。
〈すぐ世の中、金だとか、愛だとか、運だとか、縁だとか なぜ2文字で片付けちゃうの〉
というのは、それを踏まえた理性で言い訳をするなということの繰り返しでしょう。
そして「ここまで言われてまだ腹が立たないのか?」とくる。
そして、残りはそんなやりとりがこれまでに出てきた内容を通して繰り返されます。
以上が『Habit』の構成です。


きみたちはどう生きるか?

僕はこの曲を聞いたとき、『新テニスの王子様』の2巻で青学テニス部の主将が2年生のエースに対してワザと怒らせて本気を引き出すという場面を思い出しました。
『ワンピース』における、ルフィとコビーの別れのシーンで、コビーを挑発することで自分を殴らせ、海軍に入るきっかけを作ったのもこれと同じでしょう。
SEKAI NO OWARIの『Habit』は、これ自体を歌を通してやろうとしたのではないかというのが僕の解釈です。


「お前らうだうだ言い訳並べてないでさっさと動けや」というメッセージ。
そしてその裏には「だって君たちは僕と違って才能があるんだから」という気持ちが。
『Habit』には、理性であれこれ考えて一歩踏み出せないでいる若者に対して、まずは一歩を踏み出してみようと優しくアドバイスをしているように思うのです。
そして、それをただ歌に乗せて言うだけでは誰も動かせない事が分かっているから、「挑発」という形で無理矢理行動させようとする。
しかもその「挑発」の曲は、発表当時まるで年上が作った社会や価値観にケンカを売る様な内容を歌ったRADWIMPSの『おしゃかしゃま』のオマージュになっている。
とってもとっても攻撃的だけれど、とってもとっても愛に溢れた優しい曲というのが、この『Habit』だと思うのです。

 

 

 

 

Official髭男dism『ミックスナッツ』考察〜表と裏の顔を持つふた通りのミックスナッツを読み解く〜

僕の中で歌詞考察をしたいけれど難しくて保留にしている曲がいくつかあります。

今回の『ミックスナッツ』はまさにその代表例でした。

ただでさえ歌詞が複雑なことに加えて、アニメシリーズのネタも絡んでくるため、全部を拾い切れる自信がなかったんです。

しかも、そうした遊び心に加えて作中の登場人物の心境とも絶妙に絡んでくる。

というわけで避けていたのですが、お盆休みということで時間があったので、今回はこの曲に挑戦しようと思います。

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ピーナッツとスパイと生きづらさを感じる主人公

 

この曲の解説の最大の難しさは、歌詞そのものの解釈と、アニメとの関連性、そして歌詞の登場人物の心情把握の3つを同時並行で行って行かなければならない点にあります。

まず、表面的な歌詞次回に比喩やメタファーが多いため、それについて解釈が必要です。

次にアニメSPY×FAMILYとのタイアップ曲と言うことで、作品に関わる部分に触れなければいけない。

しかもその上で、今度はこの歌単体として作詞者の藤原さんが描きたかった世界観に触れる必要が出てきます。

この3層で常に解釈をしていかなければならないと言う、非常に複雑な歌詞の構造になっているのがこの『ミックスナッツ』です。

 

例えば、この曲に出てくる「ナッツ」と「ピーナッツ」についてみれば、「ナッツ」は木の実の総称であるのに対し、「ピーナッツ」マメ科の植物(pea[マメ]nuts[木の実])を表します。

つまり、この曲はミックス"ナッツ"という木の実の中にひとつだけ紛れたマメ科のピーナッツをモチーフに作られた歌なわけです。

そして、そのピーナッツとはタイアップアニメ『SPY×FAMILY』に出てくるアーニャという主要キャラクターの好物として描かれます。

「アーニャ、ピーナッツが好き」という作中のセリフはかなり有名です(因みにピーナッツの花言葉は「仲良し」なので、アーニャのこのセリフはそのまま「アーニャは仲良しが好き」という家族の仲、もっと言えば世界の平和を暗示したものになっています)

さらに、アーニャを含めた主人公のロイド、妻のヨルはそれぞれエスパー、スパイ、殺し屋で、主人公ロイドの任務を遂行するために、「かりそめ」の家族を演じています。

そんな嘘をついて一般の社会に混じって暮らしているはぐれ者の主人公たちがそのままミックスナッツの中のピーナッツに重ねられている訳です。

さらにさらに、この歌単体とすれば、社会に生きづらさを感じる恋人が、自分たちなりの「幸せの定義を見つけていく」という構成でつくられています。

 

こんなふうに、とにかく構造が複雑な楽曲ですが、それだけに凄いなという伏線も多いので、変則的ですが、以下歌詞を考察していきたいと思います。

 

歌詞をSPY×FAMILYの文脈に沿ったパターンと切り離したパターンで分析する

 

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まずは1番のAメロから。

〈袋に詰められたナッツのような世間では 誰もがそれぞれ出会った誰かと寄り添い合ってる〉

冒頭では「世間」が「袋に詰められたナッツ」に喩えられています。

そしてそんな一般の人々は「それぞれ」が誰かと誰かで出会っていると続く。

ここのそれぞれは「色々な種類のナッツ(=木の実)」を指し、そんな「普通の人たち」はそれぞれ多様な幸せを掴み、普通に惹かれあい、普通の幸せを築いているとうたわれます。

と同時に、この場面では「世間」を「詰められたナッツ」に例えるところから、作詞者(主人公)の、世間に対する心的距離が読み取れます。


続いてAメロの繰り返し部分

〈そこに紛れ込んだ僕らはピーナッツみたいに
木の実のフリしながら 微笑み浮かべる〉

自分たちを他のナッツとは違う「ピーナッツ」という存在に例え、「紛れ込む」、「木の実のふり」「微笑み」という言葉を用いることから、どことなく周囲とのズレを感じつつも、なんとか世間の「普通」に合わせようとしていゆ主人公たちが描かれます。

一方アニメの関連性から考えれば、「僕ら」とは家族のふりをして暮らしているロイド、ヨル、アーニャの家族を指していると見るのが妥当でしょう。

ピーナッツはアーニャの大好物、そして「仲良し」という花言葉を持つひっそりと、でも仲良く暮らすフォージャー家、いわゆる「普通」に異和を感じつつも恋人と楽しくやっている主人公(作詞者)たちが描かれます。

 

〈幸せのテンプレートの上 文字通り絵に描いたうわべの裏 テーブルを囲み手を合わすその時さえ ありのままでは居られないまま〉

「幸せのテンプレート」とは、持家、結婚といった、いわゆる社会で「幸せ」とされるイメージで、その具体例が今回は「テーブルを囲み手を合わ」せるという一家団欒のことでしょう。

1番のBメロではその裏では誰もが本音を隠しているのでは?という事が描かれます。

アニメに沿って解釈をすれば、ここはフォージャー家の関係を述べているのでしょう。(漫画第1巻の扉絵がそのモチーフだと思います)

そしてサビに。


〈隠し事だらけ継ぎ接ぎだらけのHome,you know? 噛み砕いても無くならない 本音が歯に挟まったまま〉

1番のサビの前半はこう書かれています。

(you know?〉は「だよね?」「でしょ?」といった相手に対して同意を求める表現です。

ここでは「家庭って隠し事などもあるし、色々なことを取り繕って何とか家族で運営しているものなんでしょ?」といった意味でしょうか。

そして、アニメに合わせるなら、ここもフォージャー家について描いています。

そして1番の後半。

〈不安だらけ成り行き任せの Life, and I know 
仮初めまみれの日常だけど ここに僕が居て あなたが居る この真実だけでもう胃がもたれてゆく〉

SPY×Familyの7話に出てくる最近「成り行き任せ」なのでというセリフをすっと引用するところがまずおしゃれだなと思うと同時に、直後に示唆に富む表現が来るのは本当にカッコいいなと。

ここでは「人生は不安やなり行きばかりだ」と歌われます。

[and I know]は「わかるよ」という共感です。

つまり作詞者はそんな一般の人々の生き方に共感を示しながら、そんな生活を後半「仮初めまみれの日常だけど ここに僕が居て あなたが居る この真実だけでもう胃がもたれてゆく」とまとめます。

ここがまた面倒なところなのですが、「仮初め」は「場当たり的なこと、重要でないこと」という意味ですので、「仮初めまみれの日常」は「何気ない積み上げの毎日」と言う意味に、「ここに僕が居て あなたが居る」は「2人でただいるだけで」くらいの意味でしょう。

2つを合わせればここは「2人がただ一緒にいるつまらない(=平和な)毎日が」という感じ。

その上でこの「胃がもたれていく」という表現です。

普通「胃がもたれる」はマイナスに使われますが、この歌のテーマは「表と裏」になっています。

ということなら当然この「胃がもたれる」も「裏」の意味をとらなければいけません。

「胃がもたれる」には食べ過ぎなければなりません。

つまりここでは「満腹だ」「十分過ぎる」という意味で使われていると捉えるのが妥当でしょう。

彼らを踏まえればサビの後半は「2人で当たり前の日々を過ごせるだけで十分幸せでしょう?」という意味になります。

と、同時にここはアニメに出てくるロイドの心情を表しています。

ロイドは作中でしばしば、この「隠し事をしてバタバタの対応であまりに大変な家族のふり」だけど、その「仮初めの家族の幸せ」を守るために必死で走り回る姿が描かれます。

これは1番のサビを文字通りに受け取った時の解釈です。

ここではいわば、「バタバタだけどそこに小さな幸せを感じるロイドの心情」と、「大変なことばかりの毎日だけど2人でいられることがもう十分に幸せでしょうという作詞者のメッセージ」が「表」と「裏」の関係で込められているように思います。

 

 

続いて2番のAメロは次のように歌われます。

〈化けの皮剥がれた一粒のピーナッツみたいに
 世間から一瞬で弾かれてしまう そんな時こそ 曲がりなりで良かったらそばに居させて 共に煎られ揺られ踏まれても 割れない殻みたいになるから〉

2番のサビをアニメに沿って解釈するなら、化けの皮が剥がれたら直ぐに周囲から爪弾きにされてしまう世の中というのは、ロイドやヨル、アーニャで言えば文字通り正体がバレること、またアーニャ単体で言えば学校でうまくいかないことがあった時というような意味もあるように思います。

そんな時も側にいたいと言うのは、今後物語が進み正体がバレる事があってもずっと一緒であるという暗示であるように思います。

また、アーニャが学校で失敗して傷ついた時に常に味方でいるヨルやロイドの態度を歌っているのかもしれません。

一方、アニメと切り離して考えた時も、これは「どんな時でも僕は君の味方だよ」という主人公から恋人に対するメッセージとして取ることができます。

ここはそれほど難しい解釈にはならないでしょう。

 

続いて2番のBメロです。

〈生まれた場所が木の上か地面の中か それだけの違い 許されないほどにドライなこの世界を等しく雨が湿らせますように〉

まずは歌詞の解釈をしていきます。

木の上というのはナッツができる場所のことを、そして地面の中というのはピーナッツ(落花生)が花をつけてから一度地面に潜ってそこで実をつけるという性質を歌ったものでしょう。

ピーナッツの育ち方と暗いところで生きてきたロイド、ヨル、アーニャを重ねています。

また歌そのものとしては乾燥した地上とミックスナッツという乾物、湿った地面の中という部分を対比をかけつつ、「もっとみんなに寛容な世界になることへの願い」を歌っています。

 

そして2番のサビへ。

〈時に冷たくて騒がしい窓の向こうyou know? 星の一つも見つからない 雷に満ちた日があっても良い ミスだらけアドリブ任せのShow, but I know 所詮ひとかけの日常だから 腹の中にでも流して寝よう〉

アニメストーリーという「表」から見れば、ここはアーニャの学校生活を歌っているように解釈できます。

〈星が一つも見つからない〉は〈雷に満ちた日〉はアーニャが通う学校イーデン校の代表的なシステムのオマージュ。

イーデン校では良い行いをするとステラという星のマークがもらえ、反対に悪いことをした者にはトニトという雷のマークが与えられます。

ここはアーニャが学校で苦戦しつつも一歩一歩成長していることを歌っているのでしょう。

そして「裏」といてこの歌そのものを考えれば、サビの前半は「希望が見出せない日やうまくいかない日もあるよね」という意味、〈ミスだらけアドリブ任せのShow〉は「人生なんて失敗や不意の出来事の連続でしょう」という意味。

そして、「それもひっくるめて日常なんだから、嫌な事があっても全部飲み込んで忘れよう」と勇気づける主人公の姿が伺えます。

 

そして最後の大サビに入ります。

〈隠し事だらけ継ぎ接ぎだらけのHome,you know? とっておきも出来合いも 残さずに全部食らいながら 普通などない正解などな Life,and I know 仮初めまみれの日常だけど
ここに僕が居て あなたが居る この真実だけでもう胃がもたれてゆく Woah この一掴みの奇跡を噛み締めてゆく〉

ここはアニメの文脈にそうならば、これまでの繰り返しなので特に触れる必要はないでしょう。

しいていえば「仮初め」というアニメに出てくるワードを入れる事で最後までタイアップ曲という印象を強めています。

アニメと切り離した時、これまでに登場していないフレーズは〈とっておきも出来合いも 残さずに全部食らいながら〉〈普通などない正解などないLife〉〈この一掴みの奇跡を噛み締めてゆく〉の3点です。

それぞれ「大きなイベントも些細な日々も等しく楽しもう」「普通なんて価値観に囚われなくてもいいでしょう」「今この瞬間を大事にしたい」と言った所でしょうか。

ざっとまとめれば「当たり前なんて無いのだから、日々の出来事を大切にして一緒に歩んでいこう」みたいな感じかと思います。

 

「表」と「裏」の顔を持つふた通りの『ミックスナッツ』

 

作品テーマがナッツとピーナッツの対比構造になって作られていると同時に、歌全体が「表」と「裏」の両面構造になっているというのが僕がこの歌を初めて聞いた時の感想でした。

今回は便宜的に「表」を作品と関連づけて、「裏」を作品と切り離して考察していきました。

上はかなりごちゃごちゃしてしまったので、最後に2つを簡単にまとめたいと思います。

「表」のアニメ作品のタイアップ曲として聞いた場合の『ミックスナッツ』はSPY×FAMILYのダイジェスト紹介。

今の生活を大変に思いながらも守りたいフォージャー一家がいて、アーニャを中心に日々苦労しながらも一歩一歩前に進んでいるという様が歌われています。

一方「裏」として作品と切り離した時に見えてくるのは、「世間の『普通』の感覚との違いに戸惑いながらも今を必死に生きて幸せを模索するカップル(夫婦)」の姿が見えてきます。

2人は冒頭で「普通の幸せってなんだろう?」という問いかける。

そしてBメロにかけて、「だって彼らがいう『幸せ』はみんなちょっとずつ無理して使っているように見えるんだもん」という疑問をなげる。

そこから歌が進むにつれて、「今この瞬間を必死に生きている事それ自体が『幸せ』なんだ」という答えを導きます。

ナッツとピーナッツの違いのように、普通の『幸せ』なんてものをそもそも考えるまでもなく、今2人で必死に生きている。その一瞬一瞬のことを『幸せ』と呼ぶのでは?というのが2人の導いた答え。

曲がジャズ調でかつ、各楽器が必死にぶつかり合うようなアレンジになっていることも、こうした「今この瞬間」という刹那性を印象づけています。

冒頭に出てきた「ミックスナッツのような世間ではそれぞれが誰かと寄り添い合っている」と歌っていましたが、最後まで歌を聴き終えると、「ピーナッツみたいな僕らもその寄り添いあったミックスナッツのひとつでしょう」といったようなアンサーを出す。

僕にはそんな歌に聞こえました。

 

とにかく解釈の幅が広く、面白い曲だと思います。

皆さんはこの歌をどう聞きましたか?

 

堂島孝平『葛飾ラプソディ』考察〜なぜこの曲が「ラプソディ」なのか?〜

週刊少年ジャンプで40年に渡り掲載されていた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、通称「こち亀」。

90年代後半からは長寿番組としてテレビアニメも放映されていました。

今回の『葛飾ラプソディ』はそんな「こち亀」のエンディングと知られるあの曲。

歌の世界観が「こち亀」の世界観と妙にマッチしていて、多くの人の印象に残っているのではないでしょうか?

何気ないアニメソングのひとつなのですが、歌詞を見ていくと非常に深いものがあります。

どうして「こち亀」にあれほどマッチするのか。

どうして僕たちはあの曲を聴くと、どこか懐かしさが込み上げてくるのか。

今回はその理由を掘り下げて見たいと思います。

 

 

「ラプソディ」とはなにか?

葛飾ラプソディ』の歌詞を読むにあたって、まずは「ラプソディ」について簡単に説明します。

ラプソディは日本語で「狂詩曲」といいます。

「狂詩」なんて文字から禍々しいようなものな感じもしますが、どちらかというと自由奔放な、民族的なという印象の構成を指します。

Queenの『ボヘミアンラプソディ』、ガーシュインの『ラプソディ・ イン・ブルー』、リストの『ハンガリー狂詩曲第2番』辺りが有名です。

Queenの『ボヘミアンラプソディ』を直訳すると「チェコの狂詩曲」となるのですが、ボヘミア周辺に住む人々は放浪民としても知られています。

したがってこの曲は「放浪民の狂詩曲」といったところになるでしょう。

ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』の「ブルー」はおそらく「ブルーノート」という意味で、これはジャズによく使われる音階を指します。

ジャズをアメリカの伝統音楽と考えた時、アメリカの民族性を歌ってみた「アメリカの狂詩曲」とでも言えるのでしょう。

リストの『ハンガリー狂詩曲』は文字通りハンガリー民族音楽を踏まえて作成された曲(実はリストが参考にした曲は伝統曲ではなかったという話もありますが...笑)

この曲はトムとジェリーにも登場するので、もしかしたらそれで知っている人もいるかもしれません。(4分辺りからのメロディが有名です)

 

https://youtu.be/NW0PxVi1Qfw

 

このようにどこか民族的、その地域に名指す文化性みたいなものを自由に歌に込めて表現した「ラプソディ」。

これを踏まえれば『葛飾ラプソディ』は葛飾という土地の空気感を歌い上げたものであると言えるでしょう。

 

 

平凡な一日の終わりが全編に描かれる歌詞構成

というわけで歌詞を見ていきたいのですが、この曲はAメロ、Bメロ、サビという構成を3回繰り返した後に、サビの繰り返しで終わります。

そして、その3回がそれぞれ「何気ない一日の暮れ」を歌っています。

 

まずは1番のAメロ。

〈中川に浮かぶ夕陽をめがけて 小石を蹴ったら靴まで飛んで〉

ある平凡な夕暮れ時に、河原でゆっくり過ごしている主人公が描かれます。

そして「小石を蹴ったら靴も飛ばしてしまった」という微笑ましい失敗をしている姿が描かれます。

Bメロではそれを受けて〈ジョギングしていた 大工の頭領に ガキのまんまだと 笑われたのさ〉と、小さい頃からの顔馴染みにその姿を見られたこと、変わらないと言われたことが描かれます。

このAメロとBメロから、主人公が長いことそこに暮らしていたことが分かります。

そして1番のサビへ。


〈どこかに元気を落っことしても 葛飾亀有アクビをひとつ 変わらない町並みが妙にやさしいよ〉

サビで描かれるのは主人公の心情について。

ちょっと落ち込むことがあっても葛飾の町の変わらない関係性を思うとホッとするという気持ちが描かれます。

おそらく、小石を蹴飛ばしたのはなにか嫌なことがあったからなのでしょう。

八つ当たりで石を蹴ったらさらなるおっちょこちょいをしてしまう。

しかし、そんな姿を笑って受け入れてくれる昔からの繋がり。

主人公はそんな葛飾の町の人の温かさをしみじみと感じています。

 

2番のAメロBメロも1番同様、主人公の何気ない動きと昔からの知り合いとのエピソードで構成されます。
Aメロ〈中央広場で子供の手を引く 太ったあの娘は初恋の彼女〉

B〈ゴンパチ池で渡したラブレター 今も持ってると からかわれたよ〉

Aメロでは昔と見た目が変わってしまった初恋の彼女を表現し、Bメロでは「今もとってあるラブレター」という表現で、やはり昔から変わらない繋がりを描く。

 

そしてサビは〈何にもいいことなかったけど〉と始まるのですか、〈何もいいことなかった〉ということから、何気ない日常であることと、一日の終わりであることが歌われます。
少しでも引用を減らしたいので2番のサビの歌詞の残りは省略しますが、ここでも何気なく街を歩く姿から、町に対する愛着が伺えます。

そして3番へ。

 

3番のAメロは〈カラスが鳴くから もう日が暮れるね 焼鳥ほうばり ビール飲もうか〉とその日の終わりを表す描写で始まります。

1,2番と違うのは3番ではBメロでも情景が描かれるところ(著作権があるので引用は控えます)

Bメロで夕日が落ちる様を描き、3番のサビへ。


1,2番同様に町の心地よさが歌われるのですが、3番ではひとつだけ大きく異なる点があります。

〈明日もこうして 終わるんだね 葛飾柴又倖せだって なくして気がついた 馬鹿な俺だから〉

この〈なくして気がついた 馬鹿な俺だから〉と言うひと言を入れることで、この歌は一気に深くなります。

最後のサビで町にあることが描かれていることから、今主人公が葛飾の町に住んでいることは間違いありません。

なのに〈なくして気がついた〉と書かれている。

 

ここを矛盾なく解釈するには、「一度は手放して初めて分かった」と解釈するのが自然でしょう。

おそらく主人公は若い頃、町の古臭さや田舎っぽさが嫌でこの町を捨てた。

葛飾という土地で考えるなら、下町から都会に出て行ったといったところでしょうか。

そこで一度は頑張るのだけどうまくいかない事も多くて挫折した。

そんな挫折を味わって自分の故郷に戻ってきたら変わらず受け止めてくれる温かさがあった。

そんな町とそこに生きる人たちの温かさに触れて、主人公は自分にとっての本当の「倖せ」が何なのかに気がついた。

3番のサビにはこんな主人公の気持ちが描かれているように思います。

 

そして最後に〈どこかに元気を落っことしても
葛飾亀有アクビをひとつ 変わらない町並みが妙にやさしいよ〉と1番のサビの繰り返しでこの歌は終わります。

 

作曲者はなぜこの曲を「ラプソディ」としたのか?

さて、歌詞の内容としては以上なのですが、この歌は全編を通してどこか「やさしい」雰囲気を醸し出しています。

そして、それが「葛飾らしさ」のようなものを聞き手に伝える。

僕はその1番の理由が、全編に多用される「ゆったりとした時間の流れを表すことば」にあると思っています。

改めて歌詞を見返すと、「ジョギングしていた 大工の頭領」「アクビをひとつ」「流れる雲」「少し歩こう」「カラスが鳴く」「夕陽が落ちる」といった言葉が並ぶことに気付きます。

これらのゆったりした時間の流れを示す語が多用される事で、下町のゆったりした時の流れを表しているのだと思います。

そしてだからこそ「なくして気がついた」と言う部分で、それと真逆な印象の「速さ、冷たさ」という都市をそれとなく頭に浮かばせるのかもしれません。

 

「放浪民」の空気感を描く『ボヘミアンラプソディ』に、「アメリカ原住民」の空気感を描いた『ラプソディ・イン・ブルー』、「ハンガリー」の空気感を描いた『ハンガリー狂詩曲』。

これらと並べた時に、『葛飾ラプソディ』にも確かに作曲者の「葛飾」と言う町はどんなものか?という解釈がはっきり伝わってきます。

だからこそ作曲者はこの曲に「ラプソディ」という名を感じたんじゃないかなと僕は思いました。

 

そんな、とってもほっこりする『葛飾ラプソディ』。

よかったらみなさんも聞いてみて下さい。

速度を変えて景色を変える

出勤手段を変えるということを僕はよく行います。

普段は電車の所をバスにしてみたり、歩いてみたり。少し贅沢だけれどタクシーを使ってみたり。

今は乗らなくなってしまいましたが、昔はここに「自転車」という選択肢も含まれていました。

僕があえて通勤手段を変えるのは、入ってくる情報の量を意図的に変化させたいからです。

同じ景色を見ていても、歩く速度で視界に映る景色と、電車の車窓から見える景色は異なります。

歩いていれば電信柱の何気ない町名の案内に気づく事もありますが、電車からではそんなもの見逃してしまいますよね。

反対に電車に乗っていると記憶に残る巨大な立て看板は、歩いている人にとっては大きすぎて「読んでみよう」とはなりません。

こんなふうに、視界に入る情報は、移動速度によって規定されているように思うのです。

 

僕たちの毎日の生活は、自分で思っているよりも多くの「習慣」により構成されています。

同じ時間に起きて、同じ時間に会社に向かい(リモートワークであるとしても仕事の開始時間のようなものがあるはずです)、帰宅してご飯を食べる。

もしかしたら習慣となったYouTubeを視聴したり、筋トレなどを行うかもしれません。

そして、だいたい同じ時間に寝る。

もちろんこうした毎日の中にも細かな発見は溢れているでしょう。

しかし、根本的に受け取る情報を変えてしまうことで得られる発見はこうしたものとは違うはずです。

 

普段と違うものに出会う方法としてまず思い浮かぶのは、「非日常」に身を置く事でしょう。

遊園地に行ったり、キャンプに行ったり、久しぶりの友人に会ったり。

いわゆるレジャーがこれに当たると思うのですが、とはいえ中々日常に取り込むのは簡単ではありません。

そんな中で僕が考えたのが、移動速度を変える事で入ってくる情報を変えるというもの。

別に大層な発見や大きな感動があるわけではないのですが、それでも簡易的に非日常を味わえます。

案外こうした体験は、行き詰まった仕事に対して思わぬ打開策を与えてくれたり、コミュニケーションのネタを与えてくれたりします。

そういうちょっとした新鮮さが僕たちの生活には必要なんじゃないかなと思うのです。

 

新年が始まり、新たな環境に身を置く人も多い事でしょう。

少しずつ身体も新たなリズムに慣れてきたかと思いますが、だからこそ、そろそろ緊張や張り切りすぎた揺り戻しが来る頃でもあります。

(僕はそれがGWとバッティングした結果、張りが戻らなくなる事を「五月病」の正体だと思っています)

そんな疲れを少しでも緩和するために、日々の習慣に変化を加えることは、この時期の体調管理にかなり効果がある気がします。

そんな手段として移動速度を変えるという方法論。

よかったら試して見てください。