新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



アイスプラネット考察 |ぐうちゃんを馬鹿にする人は水たまりの美しさに気づかない

もうずっと中学校の教科書に掲載され続けている、椎名誠さんの「アイスプラネット」。
家に居候している母の兄弟(通称「ぐうちゃん」)と主人公の悠君の物語です。
ぐうちゃんは旅人。
ふっと出かけては戻ってきて、悠君に世界の広さを教えます。
口だけで1メートルもある大ナマズ、馬を丸呑みしてしまうアナコンダ
そして流氷が溶ける瞬間にごく稀に見ることのできるアイスプラネット...。
悠君はぐうちゃんの嘘のような話を「ありえねえ」といいながらも熱心に聞いています。
そんな悠君と、馬鹿な話はいいからと切り捨てるお母さん。
お母さんは働かないぐうちゃんみたいにならないようにと悠君にいつも教えます。



学校の授業の場合、たいてい物の見方を学ぶとか、主人公の気持ちの変化に注目するとかいう切り口で教わると思うのですが、僕はそういった指導目標とは別に、ぐうちゃんとお母さんという対照的な2人の大人にこそ、椎名誠さんの伝えんとすることが描かれているのではないかと思っています。
ぐうちゃんは世界の広さを知った大人です。
いわば世界を旅したシンドバッド。
日常生活をしていると感じることのできないわくわくをいっぱい知った大人です。
それに対して対照的に描かれているのがお母さん。
お母さんはぐうちゃんに「はやくちゃんとし就職しなさい」と言い、悠君には「ぐうちゃんみたいにならないように勉強しなさい」と怒ります。
僕は、この2人の大人が想定する「この世界の直径」に注目して読むと、この作品がぐっと面白くなると思っています。

お母さんの想定する世界の直径は、おそらく自分の生活圏まで。
毎日の生活を営むコミュニティが世界の直径です。
ぐうちゃんの世界の直径は地球全体。
ぐうちゃんにとっての世界とは、半径10キロで終わる日常生活圏ではなく、あらゆるわくわくが隠れている宝箱みたいなものなのでしょう。
お母さんの視点でみればぐうちゃんはただの怠け者。
お母さんの世界の直径の外で生きているぐうちゃんの目に映る世界は、お母さんには想像がつかないものなのです。
自分よりも大きな直径の中で生きている人を自分の尺度でみようとすると、湖の大きさを30センチ定規で測ろうとするみたいなへんな食い違いが生じてしまいます。
お母さんの言葉は、どれもお母さんの世界の中では正しいことです。
しかし、ぐうちゃんの世界の大きさをその尺度で測ることはできないのです。
こんな矛盾したところが、僕がアイスプラネットの中で1番好きなところだったりします。


ぐうちゃんのように、世界の面白さを教えてくれる大人は案外少ないように思います。
たいがいの大人は、大ナマズではなくご近所さんの話をして、北極に浮かぶ流氷の話ではなく身近で起こったちょっとした事件に注目する。
そんな大人に囲まれた中でぐうちゃんのような世界の広さを語る人は、子供たちにとって本当に刺激的な存在です。
僕はこの作品を通して椎名誠さんが子供たちに伝えたいメッセージは「世界は面白い。もっと広い視野を持て。」ではないかと思っています。
「半径3メートルの作家」という異名があるほど身近な感覚を文字にするのが上手い作家が語る世界の面白さ。
学校生活では、どうしても身の回りで世界が完結しがちになってしまいます。
しかしもっとずっと大きなスケールで世界は回っていて、そこは想像もつかないような驚きに満ちている。
だから常識や当たり前に縛られず自分世界の直径の外側に目を向けてみないか。
そんな作者のメッセージを感じる作品です。


アイキャッチはアイスプラネットではなく、椎名誠さんのアイスランド

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